コピーロボットは歩道橋好きの少年 -3ページ目

花を買う日


今日は朝から、掃除機をかけた。

そして午前中に、花屋さんに出かけて、

種類のちがう花束を3つ買った。

ガーベラまではいったカラフルなお墓用と、

3色のカーネーションがかわいい母の日用と、

ひまわりと桔梗のグラデーションがさわやかな仏壇用。


13年前の今日だったか。

運転免許を持ってなかった私は、

自転車でお墓へと向かっていた。

するとその途中の歩道で、

ちっちゃなおばあちゃんがうずくまっていた。

というより、腰をぬかしていたのかもしれない。

私が自転車を降りてかけより、手を出すと、

おばあちゃんは苦しそうな顔しながら、

私の手をぎゅっとにぎった。

その力のなんと強かったことか。

ちょっとだけほっとした。

ああ、このおばあちゃんは、

ちゃんと生きているんだと思った。

すぐに近所の人だか誰だか、

おばあちゃんを知る人がやってきて、

その後の対応をしてくれた。

行きずりの私は、その場を去った。

父親の命日に、おばあちゃんの命を感じるなんて、

当時の私はなんだか不思議な気持ちだった。


あれから、毎年そのことを思い出す。

私も妹もずいぶんと大人になった。

普段の日々と特別変わることなく、

笑いながら線香をあげられることに

今は心から感謝したい。







よくばる


以前、仕事仲間の男の先輩たちから

「一匹狼だよな」と言われたことがあった。

最近、その言葉を思い出していた。


私の中にちぐはぐな感覚がある。

両極端なものを求めているような感覚。

それらは共存し得るのか、し得ないのか、

どちらが本来の自分であるのか、

ずいぶんとながいことわからなかった。

だけど、その答えが見えてきた気がする。


例えば私は、1人で過ごすことが好きだ。

その一方で、友達とふざけて過ごすことも好きだ。

たぶん、世の中の平均以上に1人を求めるし、

世の中の平均以上にふざけることを求める。

それらは、同じ時間軸上では共存しない。

オーガニックの野菜は、味が濃くておいしいと思うけれど、

真夜中のマックのポテトは、揚げたてでおいしいと思う。

身体によい食べものを食して、幸せを感じる一方で、

ジャンクフードを夜中に食べる行為で、快感を得る。

それらを、同時に行うことはない。

料理が好きだ。食べてくれる人がいればはりきる。

だけど、書くことに夢中になっているときは、

作る気が起きず、コンビニのごはんを食べたりする。

冷静に理性的に分析するときもあれば、

感情に流されそうになるときもある。

心身ともに健康を目指すときもあれば、

その健全さをふんっと鼻で笑う時もある。

1つのテーマを積み上げていくような会話に

心地よさや意義を見出したりするし、

好き勝手な言葉が散乱しながら、

なんとなくまとまる女子の会話を楽しんだりする。

そうゆう両極端なことが、日常的に起こる。

どちらが本当の自分だなんて言えない。

すべては本来の自分で、きっとモードがちがうんだ。

そう考えてみたら、しっくりくる気がする。

最近、「器用だ」と言われたことがあったけど、

こうゆうちぐはぐなバランス感覚が

もしかしたら器用ってことなのかもしれない。

私自身は不器用だと思っていたから、

その言葉にびっくりしたのだけれど。


ここのところ、生活が充実している気がする。

人とよく会い、話をし、身体を動かし、

料理をし、家庭菜園なんかしたいなんて思っている。

けれど、生活が充実していくだけだと、

不安や物足りなさを感じ始めるのがわかる。

これでいいのか?が、ふつふつとわいてくる。

自分と30年以上付き合ってきてやっと、

これだけじゃ満足できないであろうことがわかってきた。

だからきっと、今の自分が成り立っている。

そして映画を観たり、本を読んだりして、

頭ん中をあれこれやりながら、書くことを始める。

共存しているけど、同時進行はできない。

どちらかに偏ることを、私は求めていないのかもしれない。


師匠が「書くためには問いを持つことだ」と、言っていた。

私は大いに納得した。物事に対する問いを持つこと、

問いに対する自分なりの答えを得ようとすることは大事だ。

今まで、頭の中で問いを繰り返してきたつもりでいる。

自分に対して、相手に対して、その他の人に対して。

私は環境や状況よりも、そこに置かれた人物に興味がある。

なぜ?どうして?と、言動や事実の原因を探りたい。

きっと自らの生活を充実させることに、問いは生まれないだろう。

問いってやつは、負のエネルギーによって生まれる気がするから。

充実した日常に、マグマのようなエネルギーは放出されない。

問題提起は必要とされず、爽やかな風が吹き抜ける。

幸せを感じたいけれど、幸せボケする自分を恐れている。

私は、ずいぶんと欲張りなのかもしれない。

あれもこれもと、両極端なことを求めるのは贅沢かもしれない。

だけどもしも可能であるならば、私は欲張りたい。

それにはモード切替が必要なんだと思う。

自分をいかにコントロールできるか、そこにかかっている。

手探りではあるけれど、それを始めようとしている。

おいしい野菜を食べながら、誰かと楽しく話しながら、

犯罪者の心に問いを持つことはできない。

今の私に必要なのは、めりはりのきいたモード切替と

野心を常にくすぶらせておくことかもしれない。

そして脚本を書くことを仕事という形にできれば、

もしかしたら共存は成り立つのかもしれない。


一匹狼と言われたのを思い出したのは、

どんな状況に身をおいても、そこにある違和感を

見逃すことはできないだろうって思ったから。

人は共感や理解を得られると安心する。

だけどそこに100%はない。同じ人間はいない。

たとえ小さくても、相手や状況との違いはある。

それがあってこその共感や理解だとも思う。

私は80%の共感や理解の一方で、

残り20%の差異や違和感について考える。

ネガティブな意味であるとは限らない。

だけど、そこにはある種の問いがあるような気がするし、

一匹狼と言われた原因でもあるかもしれない。


よくばる私は、共感も違和感も、日常も問いも、

孤独も共有も、孤独の共有も求める。

ちゃんと現実のものにできるだろうか。










森へと


友達の、友達にとっての、10年越しの思い。

つまるような思いがした。胸が痛かった。


いつから、主観と客観を知るようになるんだろう。

主観のままで生きられるのは、幸せだろう。

客観を知らないということは、気楽だろう。

頭でわかっていることと、心で感じることが

一緒ならばどんなに楽だろうか。

そのはざまで、人はもがいて苦しむ。

そこから絞り出されたものが、

言葉として相手に伝わる。

それらは、考えること思うことのうちの

ほんのわずかにすぎない。


大人の恋愛が苦しいのだとすれば、

それは主観と客観を知っているからかもしれない。

どうにもならない現実と、どうにもできない感情が

共存するのに、反発を繰りかえす。

本気であればあるほど、その振れ幅は大きくなる。

初めて人を好きになったときには、

片思いの楽しさや苦しさやもどかしさなど、

一方通行の感情しか知る由がないけれど、

愛すること、愛されることを経験したなら、

愛せないこと、愛されないことの現実もわかっている。

愛情が届かないことはとても悲しいけれど、

愛情に応えられないことにも深い悲しみがある。

両方を知る大人の恋愛は、つらく苦しいだろう。

自分にとっての幸せと、相手にとっての幸せが

同じであるなら、どんなに幸せなことか。

人生は思い通りになんていかない。

理想と現実はちがう。わかっている。

それでも心が相手を求める。


だけど、主観だろうが客観だろうが、

自分の気持ちだろうが相手への配慮だろうが、

理想だろうが現実だろうが、頭の中にあるうちは、

ただ1人の人間の中に存在する妄想でしかなくて、

そこでとどまっている限りは、恋愛だなんて言えない。

重要なのは、自らがそこをどう超えていくかで、

2人の関係性を考えようとするってことだろう。

本音を伝えることには、勇気と痛みが伴う。

自分であれ相手であれ、向き合おうとするなら、

その瞬間は、おのずとやってくるのかもしれない。


友達の10年越しの恋愛は、言葉にならない裏側で、

きっと、さまざまな思いや現実が渦巻いていたことだろう。

だけどそれを超えようとし続けた友達は、とてもかっこいい。