2年前 京都へ旅行しました。主に東寺や三十三間堂、壬生寺、金閣などの寺社めぐりをしたのですが、そこで見た「国宝」の文字。目の前の建物や仏像が国宝だらけなのでした。京都ですから当たり前的な感じなのですが、広島県 特に広島市の人からすると少々うらやましい。

広島には世界遺産が2つあります。しかし「古いもの」、観光資源となる建築物などがどうしても少ない。言うまでもなく1945年の原爆によって市街地のほとんどの建物が失われているため。原爆が投下された広島市街地で古い建物が現存しているのは非常に少なく、国宝として認定されているのは「不動院」というお寺のみ。

今回は、広島市唯一の国宝建造物 「不動院」をご紹介します。

 


金堂(国宝) 本尊 薬師如来坐(国重文) 。広島市内に現存する唯一の国宝建造物です。天文9年(1540年) 480年前の建築との事。この年は、毛利氏と出雲の尼子氏との戦「吉田郡山城の戦い」が始まった年のようです。あと、豊臣秀吉の弟で知られる 豊臣秀長が生まれた年のようです。

 

不動院は、広島県広島市東区牛田新町にあり、目の前に広島市街地に流れる「太田川」が流れています。

このブログの最初に紹介した安芸武田氏の居城 鏡山城跡のある「武田山」山頂からの眺め。右に見える街が広島市街地で、正面の山 牛田山の中心辺り、橋が見えますが、その先に不動院があります。ちなみに広島の観光地 第4回目で紹介した「見立山」もこの牛田山にあります。

不動院辺りを望遠レンズで撮影。太田川にかかる一段高い橋は、新交通システム「アストラムライン」。その下の橋は広島市と松江市を結ぶ国道54号線の祇園新橋。その橋の向こうに不動院の国宝 「金堂」の屋根が見えます。この写真では見えませんが、橋を渡った右にアストララインの「不動院前」駅があります。この駅から歩いてすぐの場所にあります。

 

 

 

不動院は奈良時代の高僧 行基が開いたとされ、安芸の国の守護を務めていた武田氏の菩提寺として繁栄していたそうです。その後毛利氏により武田氏が滅亡、寺運が傾いていたが、戦国時代 毛利氏の外交僧 安国寺恵瓊 により再興されたそうです。その後 安国寺恵瓊は関ケ原の戦いで敗れ、石田三成、小西行長とともに斬首の刑に。毛利氏が長州 萩に移ったあと、福島正則が広島に入りこの時、宗派を禅宗から真言宗に改め、本尊を不動明王として「不動院」としました。福島氏の後浅野氏が広島に入り、浅野氏の保護を受けたそうです。

不動院の建物は被爆建物となっています。爆心地から約4キロメートル。爆弾の爆風は金堂の屋根の一部を吹き飛ばしたが、建物の倒壊は免れた。境内は被爆者の負傷者が多く集まっていたそうです。

楼門 (国重文)。

金堂の正面入り口。

金堂の傍の梅。

不動堂。

不動堂。この中に不動明王像があります。

不動明王像が奥にあります。

原爆投下後の様子。

不動院には、豊臣秀吉遺髪塚、安国寺恵瓊墓、福島正則供養塔、武田刑部少輔の墓があります。

太閤 豊臣秀吉公の遺髪の墓 とあります。 安国寺恵瓊との関係でここに遺髪塚が置かれたのでしょうか。備中高松城の水攻めの際、和議の席に向かった毛利側の使者が、安国寺恵瓊だったそうです。

安国寺恵瓊の墓。

 

毛利輝元の後に広島城主になった福島正則の墓(供養塔)。お墓は長野県のお寺にあるそうです。

銀山城主 武田刑部少輔の墓。武田刑部少輔とは、毛利元就の初陣で討たれた武田元繁の嫡男のようです。

弘法大師 空海の像。後ろにアストラムラインの高架があります。

門から太田川方面を。アストラムラインの車両が見えます。

不動院 御朱印 (平成27年5月31日)

 

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