昭和二十年の八月十五日は、終戦の日として知られています。
今回は、その終戦の日となった八月十五日の午前に、房総半島上空で行われた空戦に関連したお話しを記してみたいと思いますm(_ _)m
余談ですが、この八月十五日・午前の空戦は、現在、noteの方で連載投稿している作品の過去作で『終戦の翼』に於いて詳しくご紹介しております。
又、『発掘された零戦』に関しては、以前にペケッターの方で、何回かに別けてお送りしたポストをまとめた内容となります。
『北上する敵の機動部隊が確認された。明朝、空襲の可能性が高い。出撃準備に入れ』
前日の十四日の晩、千葉県茂原航空基地の第二五二海軍航空隊・戦闘三〇四飛行隊、飛行隊長の日高盛康少佐は、そう命ぜられました。
同時に…
『又、明日の正午、天皇陛下の重要放送が有る。必ず聴く様に』
とも付け加えられました。
後に、日高少佐は語ります。
『それが、終戦を伝えるものとは思わなかった。』
…つまり、それは玉音放送の事だったのです。
さて…米海軍機動部隊は、情報どおりに、首都東京から南西110浬に進出し、黎明から第一波の艦載機群を発艦させました。
その数、実に戦爆連合の103機。
それを、日高少佐率いる二五二空の戦闘三〇四飛行隊は、たったの15機で迎え撃ちます。
斯くして、午前五時四十五分に接敵し、空戦に突入する訳ですが、多勢に無勢の中、5機の撃墜と引き換えに、6機被撃墜と1機不時着の7機の編隊機を失い、五名の戦死者を出す結果となりました。
たった15機で100機を超える敵と戦い、全滅しなかったのは称賛に値するとは思いますが、その日の正午の玉音放送を前にして散って行った五人の搭乗員は、皆、十代後半から二十代前半の若者達でした。