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今回も『零戦雑学』の③…と題しておりますが、厳密に言えば五回目ぐらいなのかなと思います(^_^;)


さて…今回はちよっと趣向を斜め(笑)にしまして、『鹵獲された零戦について』…であります☝️

鹵獲された零戦では、太平洋戦争の初期にアリューシャン列島のアクタン島に不時着して失敗し、鹵獲されてしまった『アクタン・ゼロ』が有名ですが、今回の記事ではそれではなく、サイパン島で捕獲されてしまった後期型零戦の代表である『五二型鹵獲』に関してお送り致しますm(_ _)m

因みに当記事は、以前にペケッターにポストしたものを大幅に加筆し、考察を含めて再編集したものになります。


零戦五二型は、連合軍機と比較して速度性能に劣る二二型の改良型でありますが、そのデビューは1943年の秋頃でありました。

この五二型が、F6Fとまともにやり合ったのは、昭和19年(1944年)の6月19日のマリアナ沖海戦とされていますが、それ以前に、米軍側では新型零戦である五二型のデビューの情報を掴んでおり、『新型零戦』に対して少なからず脅威を覚えた為か、その情報を必要としていました。



まぁ…諸戦時は零戦にコテンパンにヤラレたトラウマから、大幅な性能向上型と予想される『新型零戦』が気になった事も有るでしょうが、戦時中は、敵側の新兵器に対して神経質になるのは何処も同じですね。
結論としては、零戦は後期型の五二型となっても、大幅な性能の向上は実現していなかったのですが…(^_^;)

そんな訳で……
昭和19年(1944年)の6月、中部太平洋での日本軍の拠点の一つであったサイパン島(当時は大宮島)の日本海軍航空隊の第一基地アスリート飛行場が米軍の急襲を受け、制圧されてしまった結果、多数の新型零戦の五二型が鹵獲されてしまいました。
米軍の急襲を受けた日本軍は、基地防衛の為に抵抗を続け、基地施設や各種の機材、そして、保有機の零戦を死守しようと奮戦しますが、旗色が悪くなった頃から戦闘の目的が変わります。
米軍に基地を制圧される事で、新型の零戦が米軍に鹵獲される可能性が浮上した為、日本軍は鹵獲を阻止する為に零戦を破壊しようとし、対する米軍は零戦を守ろうとする奇妙な戦闘が展開されました。
結果、サイパン島の第一基地のアスリート飛行場は米軍に制圧され、日本軍は玉砕となります。
鹵獲されてしまった零戦五二型は24機でしたが、その中から状態の良い14機(13機との説有り)を選別し、その他にスペアの栄エンジンや部品も鹵獲し、米国本土へ移送して性能テストを行う為に護衛空母コパヒーに搭載しました。

▲戦闘後のアスリート飛行場😨

▲捕獲した零戦五二型の主翼上で、得意気にポーズをとる米兵😠🔥と、同じく鹵獲された多数のスペアの栄エンジン。

▼エンジンの換装か、或いは整備中であったと思われる零戦😔

▼日本軍か米軍か何れかの攻撃で破壊された零戦😭

▼上の写真のカラー版😔

▲この零戦は、垂直尾翼の番号等から第二六五海軍航空隊の所属機で、尾崎光康飛長の搭乗機と判明しています。
尾崎飛長は、『丙種予科練三期』出身らしいのですが、その他の詳しい事は残念ながら不明です。
それでも、米軍のサイパン島上陸時の地上戦で、7月8日に戦死したとの記録が有る様です。
搭乗機を失った後、地上で陸兵となって戦うしかなくなり、空で存分に戦えなかった事は、さぞかし無念であったであろうと想像します。
又、第二六一海軍航空隊の脱腕搭乗員であった東山中尉も、角田司令と共に地上戦に加わり、やはり敢え無く戦死を遂げています。
尾崎飛長と同様に、死ぬにしても空で死ねなかった戦闘機搭乗員の無念は如何に……

▼鹵獲した零戦を、手押しで移動させる米兵😠🔥

▼米国本土への移送の為、護衛空母コパヒーの飛行甲板上に並べられた鹵獲された零戦😨『泥棒ぉーっ‼』と、私は叫びたい😠

▼尾翼の番号から、第二六一海軍航空隊と第二六三海軍航空隊の所属機と分かります😨

▼サイパン島の制圧戦闘で破壊されてしまったのか、それとも壊してしまったのかは分かりませんが、水平尾翼が破損しています😨


▲一見すると、迷彩塗装に見えますが、諸説有ります。
まず、元々、南国特有の強い紫外線と塩害で塗装が退色、剥離してしまっていた説と、甲板上で、塗装を落としている作業の途上であるとの説。
以前、ペケッターでこの件をポストした時に、里帰り零戦の特集を載せた航空誌で、南国特有の云々とされており、その件を指摘された事が有りますが、それは必ずしも正確では無い様です。
鹵獲した軍用機は、直ちに国籍表示を塗り替えなければならない必要が有ります。
それは、敵と誤認されてしまう可能性が有り、それを搭載した空母は、上空から見れば、まるで日本海軍の空母に見えてしまいます。
その誤認に依って味方から攻撃を受けない様に、大急ぎで作業した為に『元々塗装はくたびれていたが、大急ぎの雑な作業で迷彩っぽくなってしまった』との考察も有るんですね。
私的には、どちらも正解なのかなと判断しております。
写真には、塗装が迷彩っぽく退色や剥離している機体も有れば、そうでない機体も見受けられるからです。
まぁ、サイパン島に配備された時期が異なる可能性も否定出来ませんが、この時期の五二型は、実戦配備されてから半年ぐらいでしょうから、果たして…(^_^;)

さて…米国本土へ移送された後、更に状態の良い四機が選別され、各種の試験飛行が行われました。
航空大国の米国としては、元々零戦から学ぶ事は多くは無かったのですが、それでもF6Fヘルキャットとの一対一の模擬空戦では、相変わらずF6Fの方が分が悪いと判断され、引き続き零戦との一対一の格闘戦は避ける事と、そうなってしまった場合は高度を引き上げる様に努める事、又、基本的には2機一組の編隊戦闘を継続する事を現場には周知されました。
とは言え、熟練の搭乗員が操る零戦五二型ならばF6Fに対抗は出来ても、そうでない搭乗員にとって零戦は持てる性能を発揮する事は容易ではなく、損害が減る事は有りませんでした。
現在、この鹵獲された零戦五二型は、3機が現存しており、里帰りしてP-51Dと共に龍ケ崎飛行場でデモ飛行した61-120は、昭和十九年(1944年)の三月頃に中島飛行機の群馬県小泉工場(現・大泉町)で製造された製造番号5357号機。
ロールアウト後、サイパン島防衛の為に、同島に進出していた第二六一海軍航空隊に配備されました。
戦後になってから民間へ払い下げられ、プレーンズ・オブ・フェイムに収蔵され動態保存されており、その他の現存するもう2機は、61-121と61-131で、61-121がフライング・ヘリテージ・コレクション、そして61-131は、国立航空宇宙博物館に収蔵されています。