ブログネタ:無駄な時間の過ごし方
参加中本文はここから
無駄な時間の過ごし方は「昼寝か、ボーっと」することかな。PCやっていると時間経つのがはやいですね。
ところが、このネタを見たうちのぶち猫が何を思ったのか、吾輩の言い分を書けと言い出したのです。ニャン文などちゃんちゃらおかしいと断ればまた寂しい顔するだろうから覚悟をきめ、いつもののしどろもどろのニャン助の言い文を苦心惨澹(くしんさんた)して書いてみました。散々手間をとらせやっとできあがった生意気なニャン文です。もし、おひまだったら読んでみてください。(*^▽^*)
吾輩は猫である。我輩はその日暮らしで生計をたてているあるご主人に拾われた。主人の今と言えば、せっかく見つけた仕事も放り投げ、誘われても断ることができないお人好しだ。だからひま際あれば誰彼と誘われては将棋や囲碁に明け暮れている。そんな甲斐性無しのご主人に飼われたのが運のつき今ではすっかりあきらめている。そのご主人は偏屈に時として耳をかさない性質(たち)だから我輩の飯は路地を迷ってあれこれと工面しなくてはならぬ。
(二 )
そんな我輩、貧乏ひまなしで無駄な時間はない。日向(ひなた)をノソリノソリとヒマそうに歩いていてもちゃんとそれなりの考えがあってのことだ。ある日のこと、考えがあってのらりくらりと歩く我輩の姿を見て「猫の手も借りたい」という人がいた。我輩はそんな怠けものがひまを転がしているのではない。それほど我輩を羨ましく思うなら一度でいいから猫に化け、我輩の難儀なところをどのようにして解決しているか学んでみるがいい。心して「ニャン」と鳴けば、わけなく人さまを騙(だま)すことを学んだだけでも、これから先何かといいことがあるというものだ。
(三)
ところで長年苦労を培って心得たものがある。それは先ほども言ったが甘えた猫撫で声で人さまを騙すことはわけないが、のろまな我輩をみて羨ましく思うのはその人が楽をしたいという気楽な考えがあるからだ。だから猫の間では「気楽人間真面目を装って仕事知らず、ヒマ際あれば屁を垂れて酒を飲む」と、嫌なことを言われるのだ。屁を垂れて何が気楽かといえば、ちょっとの難儀にあっても仕事の山を背負っても、困難な問題にであっても人はすぐへこたれ弱音をはく。そんな自信のないへっぴり腰を猫の仲間では「蛇のぬけがら」という。それはどのような事かと言うと、人前でしっかり閉じているコウモンでも中から外へ出たい屁でくすぐられると直ぐ扉をあけて大声を出すということだ。我慢知らぬそれを気楽というのだ。
(四)
またこのようなことも言える。魚屋の前をとおって、生きのいい鰺(あじ)が並んでいたとき、我輩は心がときめくのだ。吾輩が偉くても他の猫に「お前盗ってこい」などと強情を言ったためしはない。でっかい口と牙で鰺の真ん中を「がぶりと」食いついて後は一目散に逃げるのだ。ところが考えの浅い猫は、持て余すようなでっかい鰺をわざと狙って、その鰺の頭や尻尾をくわえて逃げるからバランスの悪い逃げ腰となる。酔っ払いが重い天秤を担ぐようよたよた逃げるから餓鬼大将や童(わっぱ)どもにつかまってしまうのだ。人さまにぬくぬくと育てられた猫ほどヒマと無駄な時間を背負ってのん気に育つから咄嗟の判断がつかぬのだ。そんな針の穴から狭い世を覗いて簡単に魚屋の鰺を盗(と)ることを算段するから失態を繰り返すのだ。
(五)
人さまは知恵があって賢い。だが、中にはその知恵に溺れる人もいる。吾輩のこの立派なヒゲから窮屈(きゅうくつ)なこの世を選別し、吾輩にかなう新しい心を入れているのだ。勿論、古い心は捨て去るようにしている。だから貧乏ひまなし無駄な時間は我輩にはないのだ。温い日向(ひなた)をノソリノソリといかにもひまそうに歩いていてもちゃんとそれなりの考えがあってのこと。黒猫にも負けないそんな我輩を誤解せぬがよろしいやろうニャ。 完
お忙しいなかお読みになって頂きありがとうございました。ぶちのニャン助もあなた様に読んでいただいてそりゃうれしかったでしょうなぁ。え!ニャン助は泥棒猫ですかって?ちょっと、こ、声が大きいじゃありませんか。聞こえたら悲しい顔しまっせぇ。そ、それでは今日はこのあたりでさようなら。また、また、お会いしましょうね。(^∇^)