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小説1~10
5「ことさら」 その4(4/6)
人事課長の瀬田は、女性が退社するのを見て立ち上がった。時計は既に五時を回っている。瀬田は、怠け者の節句働きとは話しが噛み合わないと見え、開発課の看板娘の北見くみに歩み寄る。北見くみは均整の取れた美人である。だが、どう訳か二十八になってもまだ嫁ぐ先が決まりそうにない。三つ下の妹が嫁に行って、子を抱いて里帰りする時は、姉と妹が逆様のようになって子を可愛いがると云う。
「くみちゃん。もうお帰りか!」
「あら、人五郎さん」
「くみちゃん、よしてくれないかなぁ、僕を人五郎と呼ぶのは!」
「あら、いけないかしら?」
「そりゃ当たり前だよ」
「だって『人事課の五郎さん』じゃ似合わないでしょう。それとも、いつものように『人事課の瀬田課長』とでもお呼び致しましょうか、ホホホホ」
「なぁ、くみちゃん。そんなに気取らなくても良いんだよ」
「気取ってなんかいないわよねぇみんな、ホホホホ」
瀬田はますます鼻の下が長くなって来た。綺麗どころ三人の娘に囲まれ、有頂天に花が咲いたように何もかも忘れている。
「だって、これからデートするのにそれはないよ」
「あら、デート。え、誰と?」
「そんな、くみちゃん、もう忘れている」
「あら、私と?」
「そうだよ、約束だ」
「約束していないわよ」
「又そんなことを言って反古にする気」
「私、人五郎さんをごまかしたことなんか一度もないわよ」
「そら、この前の居酒屋で飲む約束したろうが」
「居酒屋って『ろばた』?」
「そうだよ。今日はウニとヒラメがうまいって、あの時、来週の今日来ると良いと板前が言っていたろう」
「え?『ウニとヒラメ』が、旨いって、そんな約束、知らないわよ、ほほほほ。きっと誰かさんと間違えているのよ、人五郎さんときたら、ホホホホ」
瀬田の顔付きが妙におかしくなった。しかも、間違えにどうやら気付いたらしい。だが、多少の間違えなど瀬田に掛かっては造作など要らぬ。
「ハッハッハッハッ、やだなぁ、くみちゃんまで忘れて」
「ウニとヒラメなら仕方がないから、みんなでちょっとだけ付き合うか」と、くみは回りの女性に声を掛ける。
「うわぁ、最高ねぇ」
「そうしましょうか」
「私も今日はお暇だから・・・」
「ちょとだけかよ、くみちゃん、まあ良いか」
瀬田は好きな酒がまずいと言いながら、今日は、内の課の女性を誘って飲みに出掛ける。しかも、女好で酒好きの瀬田は誘う娘を取り違えている。娘を間違えるようではもう年だ。残念なことに、知らずに忍び込む惚けがこうして皆の前に証拠として残ってしまった。生首は切れぬと悩みながら、景気が悪いと言うのに懐も気にせず、誘う娘を取り違えて酒を飲む辺りはやはり大御所の酒好きだ。
くみはしょんぼりしている呂上に気付いた。
「ところで呂上さん、せっかくですからご相伴にあずかりましょうか?」
「えぇ、僕!」
「そんなに驚かなくたって良いでしょう!」
「いや別に驚いてなんかいない」
「なら、私たち気弱い女性のボデーガードを勤める気はありませんの?」
「ああ、結構な話しだが、今晩は用事があって、本当に駄目なんだ」
「え?用事ですか!」
「ああ、僕なんて気にしなくて良いから若く男前の細貝を誘ったら」
「あら、そう直ちゃんがいるわ」と言って、くみはまだ何をしているやら机に齧り付く細貝に駆け寄った。