湯島~上野散歩 2月8日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の「第144回 湯島~上野散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は湯島駅から。

 

まずは、旧岩崎邸庭園へ。

 

 

旧岩崎邸庭園は、台東区池之端1丁目にある都立公園。

旧岩崎邸の敷地は江戸期は越後高田藩・榊原氏、明治初期は旧舞鶴藩主・牧野氏の館で、明治11年(1878)に三菱財閥初代・岩崎彌太郎が邸地を購入。

現存する旧岩崎邸庭園は明治29年(1896)に彌太郎の長男で三菱第三代社長の岩崎久彌の本邸として造られ、往時は約15,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。

現在は約3分の1の敷地となり、現存するのはジョサイア・コンドルが設計した洋館・撞球室と和館大広間の3棟のみ。

戦後はGHQに接収され、返還後は国有財産となり、最高裁判所司法研修所として使用。

昭和36年(1961)に洋館と撞球室が「旧岩崎家住宅」として国の重要文化財に指定。

昭和44年(1969)に和館大広間と洋館東脇にある袖塀が、平成11年(1999)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ追加指定されました。

 

旧岩崎邸庭園の次は、国立近現代建築資料館へ。

 

 

国立近現代建築資料館は、文京区湯島4丁目にある、平成25年(2013)に開所された、日本の近現代建築に関する資料(図面や模型等)の劣化・散逸や海外流出を防ぐための収集・保管、建築物の調査研究と啓蒙活動や資料の展示を目的に設立された文化庁所管の施設。

収集品目は、明治時代から図面のデジタル化が進んだ1990年代頃までに作成されたもので、文化勲章、文化功労者、芸術選奨、日本芸術院賞、プリッカー賞、王立英国建築家協会(RIBA)ゴールドメダル、アメリカ建築家協会(AIA)ゴールドメダル、国際建築家連合(UIA)ゴールドメダル、高松宮殿下記念世界文化賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展 金獅子賞、日本建築学会賞を受賞した作品や国が重要文化財もしくは登録有形文化財に指定・登録、または地方自治体が条例等で保護を図った近現代建築物、Docomomo選定建築物、日本建築学会が保存に関する要望書を提出した建築物が対象になっており、現在は『吉田鉄郎の近代 モダニズムと伝統の架け橋』が2月11日まで開催されています。

 

国立近現代建築資料館の次は、不忍池へ。

 

 

不忍池は、上野恩賜公園(台東区)の中にある、公園の南端に位置し、周囲約2km、全体で約110,000㎡を有する天然の池。

現在の不忍池は、中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配し、また、池は遊歩のための堤で3つの部分に分けられ、一面がハスで覆われる「蓮池」、ボートを漕いで楽しめる「ボート池」、上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している「鵜の池」の3つで構成。

成り立ちは、縄文時代の頃、この辺り一帯は東京湾の入り江で、その後、海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃に池になったと考えられます。

 

不忍池の次は、不忍池辯天堂へ。

 

 

不忍池辯天堂は、台東区上野公園、不忍池の畔にある弁天堂。

寛永寺を創建した天海僧正が寛永年間(1624~1644)に不忍池を琵琶湖に見立て(寛永寺が東の比叡山にあたるため)、琵琶湖の竹生島にあたる中之島(弁天島)を築かせて弁財天を祀ったのが始まり。

当初は島へ舟で渡りましたが、後に陸続きとなりました。

堂内には慈覚大師作といわれる八臂(八本の腕)弁財天を安置。

創建当時のお堂は空襲で焼失し、現在のお堂は昭和33年(1958)に再建されたもの。

またそばには、寛永寺の伽藍の一つ大黒天堂も祀られています。

 

不忍池辯天堂の次は、清水観音堂へ。

 

 

清水観音堂は、台東区上野公園にある、千手観音像(秘仏)を本尊とする観音堂で国の重要文化財。

寛永2年(1625)に天海僧正の発願によって創建された東叡山寛永寺は、比叡山延暦寺と京都の名所を意識して整備されたといわれており、清水観音堂も清水寺を模して造られた堂宇で、現存する旧寛永寺建造物群の中では最も古く、創建は寛永8年(1631)。

当初は、現在地の北側100mに位置する上野忍岡で最も高所の摺鉢山にありましたが移築。

清水観音堂の規模は、桁行(一棟の家の長さ)5間(約12.5m)、梁間(梁の長さ)4間(10.8m)で、単層入母屋造、壁面は赤漆塗、屋根は本瓦葺。

特に不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観ですが、近年老朽化が目立ち、平成2年(1990)から平成8年(1996)にかけて解体・修理が行われました。

その際、移築年代をこれまでの定説、元禄9年(1696)から元禄7年(1694)に覆す棟札が発見されました。

 

清水観音堂の次は、花園稲荷神社へ。

 

 

花園稲荷神社は、台東区上野公園に鎮座する倉稲魂命を御祭神として祀る神社。

由緒は不詳ですが、古くからこの地に鎮座し、「忍岡稲荷」と称され、石窟の上にあったことから俗称「穴稲荷」ともいわれました。

そして、承応3年(1654)、天海僧正の弟子の晃海僧正が霊夢に感じ、廃絶していた社を再建。

幕末の上野戦争では激戦地となり、その後、岩堀数馬、伊藤伊兵衛らの篤志家が再興。

周囲が寛永寺の花畑であったので、明治6年(1873)に「花園稲荷」と改称し、昭和3年(1928)に現社殿に遷座。

旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ、晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。

 

花園稲荷神社の次は、五條天神社へ。

 

 

五條天神社は、台東区上野公園に鎮座する、大己貴命と少彦名命を御祭神とし、相殿に菅原道真公を祀る神社。

第12代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神のご加護に感謝して、この地に両神を祀ったとされる東都屈指の古社。

社地は幾度か変遷を重ね、昭和3年(1928)9月に現在地に遷座。

尚、明治41年(1908)からは、東京薬種貿易商同業組合(現・公益社団法人東京薬事協会)が、当社から薬祖神の御霊を迎え、大祭を執行し、昭和4年(1929)には、事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和58年(1983)、昭和薬貿ビルに二代目の社殿を造営。

さらに平成28年(2016)9月28日、福徳の森に三代目の薬祖神社が遷座されています。

 

五條天神社の次は、上野大仏とパゴタへ。

 

 

上野大仏は台東区上野公園、上野恩賜公園内にあった大仏。

歴史は、寛永8年(1631)、越後村上藩主・堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立。

正保4年(1647)に地震により倒壊しましたが、僧・浄雲が金銅像として再興。

元禄11年(1698)には、天台宗の僧侶・公弁が仏殿を建立します。

ところが、今度は天保12年(1841)に火災により、大仏、仏殿が損傷。

堀直央の寄進によって修復されました(その後の安政大地震でも頭部が破損)。

明治に入ってからは、上野恩賜公園の整備にともない仏殿を撤去し露座に戻りましたが、大正12年(1923)の関東大震災で頭部が落下。

大破した頭部、解体した胴部以下は寛永寺が保管。

しかし、再建計画は見送られ、昭和15年(1940)、軍需金属資源として顔面部をのぞく頭部、胴部以下が供出され消滅。

現在あるものは、昭和47年(1972)、寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置。

「これ以上落ちない合格大仏」として信仰を集めています。

 

 

一方、大佛パゴダは上野観光連盟の発願により、昭和42年(1967)、薬師如来を本尊とし、月光菩薩と日光菩薩を安置するパゴダを竣工。

パゴダとは、ミャンマー様式の仏塔のことです。

 

上野大仏とパゴタの次は、お化け燈籠へ。

 

 

お化け燈籠は、台東区上野公園、上野恩賜公園内に立つ石造の燈籠。

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名だった佐久間勝之が上野東照宮に寛永8年(1631)に寄進したもの。

燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさから「お化け燈籠」と呼ばれ、また、同じ佐久間勝之が寄進した南禅寺・熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられています。

 

初日はお化け燈籠と一緒に記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

お化け燈籠の次は、東照宮売店へ。

 

 

東照宮売店は上野東照宮の参道入り口脇にある懐かしい佇まいをした売店兼食堂。

おやつはこちらの名物・もんじゃまんを買ってみんなで食べました。

 

東照宮売店の次は、上野東照宮へ。

 

 

途中、参道から旧寛永寺五重塔をチェック。

こちらは上野恩賜公園内にある国の重要文化財。

寛永16年(1639)、江戸幕府重臣・土井利勝が寄進した五重塔で、構造は三間五層の和風造り。

高さは地上から九輪まで約36mあります。

 

 

上野東照宮は、台東区上野公園に鎮座する、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を御祭神として祀る神社。

寛永4年(1627)、藤堂高虎が上野山内の屋敷の中に徳川家康を追慕し創建。

もとは「東照社」と称していましたが、正保3年(1646)には正式に東照宮の宮号を授けられました。

現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍・徳川家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経て荘厳な姿に。

社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りといい、社殿、唐門、透堀、石造明神鳥居、銅燈籠四十八基が国の重要文化財に指定されています。

 

上野東照宮の次は、上野の森美術館へ。

 

 

上野の森美術館は、台東区上野公園に所在する私立美術館。

公益財団法人日本美術協会が設置する美術館として昭和47年(1972)4月に開館した施設で、公募展や海外美術館の所蔵品を借り受けての特別展などが随時開催されており、常設展示は行っていません。

今回私たちは2月13日まで本館1・2Fで開催している『アトリエ展』を鑑賞しました。

(館内通常撮影はOKでした)

 

上野の森美術館の次は、彰義隊の墓へ。

 

 

彰義隊の墓は、台東区上野公園にある墓所(台東区有形文化財)。

大政奉還時、上野寛永寺に蟄居した15代将軍・徳川慶喜の助命嘆願のため、一橋家時代の側近達は同志を募り、「彰義隊」と名乗って、上野の山を拠点として新政府軍と対峙。

そして起こった、慶応4年(1868)の上野戦争では、半日で新政府軍が彰義隊を壊滅。

生き残った隊士は、明治の世になって、新政府の許しを得て、隊士の遺体の火葬場となった現地に彰義隊戦死の墓を建立(遺骨の一部は南千住・円通寺内に合葬)。

大墓石は明治14年(1881)に元彰義隊・小川興郷らによって造立されたもので、碑名「戦士之墓」は、山岡鉄舟の筆によるものです。

 

彰義隊の墓の次は、西郷隆盛像へ。

 

 

西郷隆盛像は、台東区上野公園にある上野のシンボル的な銅像。

西郷像は高村光雲作、犬のツンは後藤貞行作、鋳造は岡崎雪聲、発起人は旧友の吉井友美で、宮内省から500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立されました。

除幕式は西郷隆盛の死後21年を経た明治31年(1898)12月18日。

身長370.1cm、胸囲256.7cm、足55.1cm。頭部が大きくつくられていますが、これは像の足元から見上げたときに、遠近感で適正に見えるように計算されているからです。

実は西郷隆盛は信頼性のある写真が一枚も残っておらず、高村光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にしたといわれていますが、銅像除幕式の際、招かれた西郷夫人糸子は、「こんな人ではなかった」という意の苦言を漏らしたそうです。

 

こんなふうにあちこち見どころを巡って、上野駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと居酒屋に行って、打ち上げ懇親会を開いて解散。

 

大人の遠足、全行程終了となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

おひとりさま同士で楽しめる街歩きイベント、今後も次々開催。

 

ご興味ある方、今なら参加費500円でお試し体験ができます。

 

休日近場でリフレッシュしたいとお考えの、お勤めされてる方や主婦の方、気軽に参加できるお散歩ツアーをどうぞよろしくお願いいたします。

 

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