今年は弘法大師・空海が四国八十八か所霊場を開創して1200年を迎える。1897年に創刊された一宗一派に偏らない宗教専門紙「中外日報」から「歩きお遍路の込めた思い」というインタビューを受け、2月8日発行の紙面に掲載された。


 私の歩きお遍路に込めた思いが分かりやすく表現されているインタビュー記事なので、中外日報社の了解を得てこの欄でも紹介したい。


------以下、紙面より------


歩き遍路に込めた思い

 弘法大師空海が開創してから1200年を迎えた四国八十八カ所霊場。菅直人・元首相(67)は2004年から歩き始め、7回に分けたお遍路が昨年9月に結願した。
 首相在任中は東京電力・福島第1原発の事故処理の指揮を執った。誰にも説明できない偶然が重なり、最悪のシナリオは回避できたと語る。神のご加護があったに違いないと感謝し、退任後の遍路は、お礼の思いを込めて回ったという。



人間の本質 宗教者が伝えてほしい

直聞インタビュー  菅 直人元首相に聞く


 足かけ10年で四国八十八カ所霊場を歩き遍路した菅直人・元首相。お遍路を通じて、人とのつながりや温かさを実感し、今後は空海の代表作の一つ『三教指帰』を読んでみたいと、空海に魅せられた。
 首相退任後は脱原発を訴え、自然エネルギーの普及活動に力を注ぐ。国の責任者として原発事故と向き合い、本当の恐ろしさを体験したからだ。
 経済成長だけを社会の幸福とする政治の姿勢に疑問を呈し、本質を大切にする宗教者の活躍に期待を寄せる。結願したお遍路が政治信条や生き方に与えた影響、宗教者に望むことなどについて聞いた。
 

 

10年かけ八十八カ所結願


 ◆お遍路を始めたきっかけは。

 菅 民主党代表をしていた2004年に年金未納問題があった。後で社会保険庁の間違いだと分かったが、厚生大臣の時だけ納付していなかったことが発覚して大騒ぎになった。それで代表を辞任。その直後に妻・伸子がくも膜下出血で倒れた。市役所で手続きをしていた妻が役所の指示通りにしたのにと。だから本人に言わせると社会保険庁出血だと言っている(笑い)。幸い後遺症も残らなかった。
 少しさかのぼると司馬遼太郎さんの書いた『空海の風景』を司馬遼太郎記念館で見つけた。それが非常に印象的だった。幾つかの原因が重なって始めた。
 一般的な知識として空海は知っていたが、どういう人物か詳しくは、本を読むまでは知らなかった。そしてすごい人だと思った。鉱山技師のようなところもあるかと思えば、満濃池を造ったり。同じ遣唐使だった最澄とは異なり、空海は私費留学生。何をするにも資金が必要だったが、空海にはあったという。山を駆け巡っていた時代の仲間が資金を工面してくれたという。宗教家、お坊さんというイメージをはるかに超えた存在が書かれていた。代表も辞め参議院選挙も終わった後で少し時間ができた。
 学生時代からリュックを背負って歩く旅行が好きだったから、この際歩いてみようと思った。空海の歩いた道を実際に歩いてみたいと思った。

 ◆当時、かなり報道されましたが。

 菅 秘書にも隠して行ったのに、一番札所の住職が、出発前に県庁記者クラブに今から歩き始めると言っちゃったもんだから、ものすごいマスコミが集まってしまった。
 八十八カ所、1600キロを全て歩いた。最初は室戸岬の先の最御崎寺まで行った。全部歩くとか歩かないとか決めて行ったわけではないが、歩いているうちに、みんなから聞かれる。そこで「ここまで来た以上は、生きている限り最後まで歩きます」と言ってしまった。それが04年7月。少しずつ歩き、7回行って結願することができた。
 いろんな出会いがあった。大阪で仕事をしていたがリタイアして地元に戻ってきた方がいて、先日も小水力発電をやりたいから見に来てくれと誘われたり、今でも地元の水を贈ってくれる人がいたり。お接待という風習があり、非常にお遍路さんに優しい。それは本当の意味での施し。つまり困っているから何かするのではなく、お参りできない自分の思いも持っていってくださいとか、お大師様の代わりのように感じて頑張ってくださいと接待してくださる。最初のお遍路は真夏で、冷えたスイカや水などをあちこちで頂いた。その気持ちがうれしかった。
 初めて歩いた時のこともよく覚えている。夕方少し遅くなりかけていたが、後ろから女性が追い掛けてくるんだ。「菅さん、この道間違ってますよ」と言う。家が道のそばにあって、私が鳴らしていた鉦の音を聞いて、曲がらずにそのまま歩いていってしまったことに気付いたらしい。髪を洗っていたのに急いで髪をすすいで、わざわざ自転車で飛んできてくれた。本当に親切で、そのような親切に出合うと、うれしいを超えて、本当に一生の思い出になる。
 確かに足は痛くなるけど楽しい。4日目、5日目になると、くるぶしから下が熱を持って痛い。いったん畳に座ると起き上がれないくらい痛い。慣れたころには終わるんだけど(笑い)。足にまめだけは絶対に作らないようにテーピングして歩いていた。肉体的にはつらいが、精神的にはリラックスできる。



思考の幅を広げてくれた  経済成長優先の政治に疑問


 ◆歩いている時はどのようなことを考えましたか。

 菅 始めた時は年金未納の騒動や党代表の辞任など、自分にとっては区切りだった。自分を見詰め直してみたいという思いはあった。だが実際歩いている時は、複雑なことは考えられない。とにかく難しいことを考えて歩くことは無理だ。ある意味で無心になる。とにかく右足の次に左足と出していかないことには、1ミリたりとも動けない。
 もともとお遍路の発生が山岳仏教からという説もあるし、空海も若いころは山を駆け巡って修行したというし、その流れが伝わっているのかもしれない。歩くことで無心になれ、かつ健康的で一石二鳥というものだ。東京に戻ってくると妻から「あんた、いい顔になったね」と言われた。
 歩き遍路は川沿い、山道、海沿いをずっと歩いて、3日間同じ風景が続くこともある。大自然を体感する。四万十川や室戸と足摺の二つの岬は特に印象的だった。
 足摺には補陀洛信仰がある。ある年齢になると、船をこぎ出して浄土に向かう。あそこは岬が南に下がっていて、海と山の感じから、何となくそういう気分も分かる。

 ◆結願した今、どのような心境ですか。

 菅 ほっとした。それまでは1年のうちで、どこかで行かなきゃという宿題のような思い、それと同時に楽しみな感じがあった。終わるとそれがなくなってしまって残念な気もする。
 金剛杖と菅笠は自宅に持ち帰った。同行二人といって、金剛杖はお大師様の代わり。お大師様と一緒に歩いている象徴でもあり、今でも大事にしている。
 もともと岡山にある日蓮宗のお寺が菩提寺だが、四国をずっと巡って真言宗の人とのつながりが増えた。
 高野山にも2度行って、毎朝お大師様に奥之院で食事を届ける維那を務めた日野西眞定先生とも親しくなり、大師のお下がりをごちそうになったこともある。八十八カ所ではそれぞれの本堂と大師堂で般若心経を唱えたので、仏教に関心を持って勉強もした。
 空海の本を読むようになったが、機会があったら『三教指帰』を読んでみたい。この書は仏教、儒教、道教を代表する人物が出てくる話で、脚本のように三つの宗教について書かれている。空海って人は天才だ。お遍路しなければ、そういった書物があることも知らなかっただろう。

 ◆お遍路で政治に影響はありましたか。

 菅 何とも言えないが人間の幅が広がったような気がする。どうしても政治は選挙があり考えのスパンが短くなってしまう。もっと本質的な問題を考えるようになった。それは政治にとってもある種の幅を広げ、奥行きを深めることになっているかもしれない。
 自分はもともとそういうことには関心があった。本質的なことを考えるのは宗教や哲学。原発についても、だいたい宗教者の多くは止めた方が良いと言っている。政治の世界はどっちかというと目先の経済成長で、それこそ足るを知るではなく、みんな「足らない、足らない」とばかり言っている。
 日本人は自然を大切にし、その中で生きているところがあるから、そもそも原発推進には無理がある。広く言えば、お遍路が脱原発を後押ししたということがあるかもしれない。
 原発そのものが象徴だが、特に最近の風潮は人間の本当の幸せや喜びを考えるのでなく、経済成長を優先させ、そして経済成長そのものが目的になってしまっているところがある。


原発事故被害拡大の寸前 最後に神の加護を感じた


 ◆原発は以前から反対ですか。

 菅 市民運動をやっていたから、3・11前からその危険性の議論はしていたし、少なくとも安全に気を付けながら活用していこうという立場だった。日本の技術力をもってすれば、チェルノブイリのような事故を起こさないと考えていた。私もいわゆる安全神話に半ば染まっていた。だから今そのことを恥じている。
 実際に総理大臣として事故に遭遇したが、もちろん現場の東電の職員や自衛隊、警察、消防がみんな頑張ってもらったおかげだが、それと同時に最後は神のご加護があったと思った。250キロ圏5千万人が逃げなくてはいけない寸前だった。日本という国が何十年にもわたってがたがたになりかねない。本当に紙一重だった。それは神のご加護と言うしかないと思う。
 震災後、総理大臣を辞めてから2度お遍路に出た時は、お大師様と仏様にお礼して回った。
 震災直後、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールの水が抜けている可能性があった。84度まで温度が上がったと報告を受けたのを、今でも覚えている。原子炉の外にある使用済み燃料がメルトダウンすると、あっという間に放射性物質が外に出て、東京までもが大変なことになる可能性があった。だが結果的に水があった。なぜ水があったか、逆に不思議なんだ。
 後で分かったことだが、震災前の定期点検で原子炉の燃料を移した際に作業が遅れ、抜くはずの水が抜かれていなかった。そして、その水は本来、間仕切りで燃料プールにはいかないはずだったが、3号機爆発の振動で間仕切りが倒れたために水が入ったという。
 2号機についても中の圧力が上がって、最後は破裂音とともに圧力が下がった。簡単に言うと穴が開いた。だが穴の開き方が、ゴム風船が割れるような破裂だったら放射性物質が一気に放出される。それが紙風船みたいに継ぎ目が壊れて一部からシューと出た。格納容器に圧力がかかったら、どのような壊れ方をするかなんて実験した人はいないから、予想できるわけもない。
 14万人が避難しているのだが、少なくとも250キロ範囲から逃げ出さなくてはいけない状態は避けられた。250キロ圏から20年間逃げなくてはいけないとしたら、どんなことになるか。想像を絶する大混乱が、長期にわたり起こる。そのぎりぎりだった。そこまでいかなくて済んだのはやっぱり、最後のところで神のご加護があったのではと思わざるを得ない。

 ◆それで脱原発に焦点を絞って活動を。

 菅 脱原発の活動とともに再生可能エネルギー推進の活動をしている。それが、まさに原発事故の時の総理大臣としての使命だと思っている。
 やはり直接話を聞いてもらうと実感が伝わる。当時のメディアも混乱していたが、まったく先の見えない原発事故は、正直に言うと恐怖だった。最初の5日間はどんどん事故が大きくなる。チェルノブイリは事故としては大きいが、起こした原発事故は1基だけだ。日本の場合は第1原発で6基、第2を合わせると10基、使用済み燃料プールも11基ある。実際に1号、2号、3号機がメルトダウンし、水素爆発したのが1号、3号、4号機。メルトダウンした米国のスリーマイル島原発では圧力容器は健在だったが、日本はそれに穴が開いた。
 今分かっているのは、1号機がメルトダウンし、さらにメルトスルーしたのは地震発生からわずか4時間後。午後7時にはメルトダウンしていた。それが1号、2号、3号と続いていくわけだ。もう少し被害が拡大していたら、まさに250キロ圏まで被害が拡大していた。
 どこで止まるのか、これ以上拡大したらどうするのか、誰に聞いても答えがない。いざとなったら皇居や政府機能も移動しなくてはいけない。5千万人を避難させるなんて、1万人でも渋滞、渋滞で大変なのに。本当の怖さを知った。だから原発ゼロは、原発事故に直面した総理大臣の使命だと思う。
 自民党は12年12月の選挙で大勝したが、票数は09年に大敗した時よりも少ない。決して原発政策が積極的に支持されたわけではない。
 今、世論調査では6~7割が原発は止めた方が良いという意見だ。一方で原子力ムラや東電といった経済的に依存している人たちが、何が何でもと守ろうとしている。太陽光の発電も増えているから、原発を止めても大丈夫だと思うが、原発で仕事がなくなるなどの地域的な問題などは残っている。

 ◆宗教者に対して望むことは。

 菅 宗教は人間の本質に関わる仕事だから、本質的なところを伝えてほしい。復興構想会議で、玄侑宗久さんに委員になってもらった。やはり大震災や津波が起きた際には、生き死にの問題も含めて、人間の本質的なところが大切になってくる。それをどう考えるか。多くの人に宗教者としての意見をしっかりと伝えてほしい。特定の宗教であるかは別として、本質を見詰めるという意味で、多くの人がその必要性を感じているのではないか。
 仏教の本質が何か私は言う立場ではないが、少なくともお釈迦様が欲望を捨てるとしたことから始まっている。釈迦国で何一つ不自由のない生活をしながら人間の本質は何かを考え、全てを捨て執着を捨てて出家した。それは人間の本質を見詰めるというところに原点がある。経済を優先させる今の時代だからこそ、余計に多くの人に求められている気がする。
 かつては、とにかく経済優先だった。だが今は若い人でもさまざまな理由から本当の幸せを考え、求めている人が増えた。一方で、ストレスを抱えている若い人も多い。こうした人たちに人間の在り方を見詰め、本質的なものを問い掛けることができるのは宗教ではないだろうか。