毎週、日経新聞の日曜日の紙面に掲載されている『美の美』

5月9日(日)、16日(日)、23日(日)と3週連続で「千利休」についての記事が掲載されていました。

9日に掲載された記事については、先日、ブログに書きましたので、興味のある方、こちら をどうぞ。


16日(日)の「闘うわび茶」(中)には、こんな記事が掲載されていました。


日本の侘びの世界を集約した空間、草庵茶室・・・。

利休が建てた茶室でただひとつ残る遺稿である京都山崎の妙喜庵にある待庵と、秀吉の命によって造られた黄金の茶室・・・。

天下一の茶頭となった利休は、対極の空間を行き来し、茶をたてていたという事が書かれていました。


そして、“わびとは何だろうか”という、とても興味深い文章が載っていました。


歴史学者の熊倉功夫氏が著した「茶の湯の歴史 千利休まで」によると、万葉集にもある古い言葉で、はじめは恋の実らないさびしさを表したそうです。


中世になると世俗の欲望を捨てる隠者の生活感覚を示すようになり・・・。


吉田兼好の「徒然草」に、こんなくだりがあるそうです。

「すべて、何も皆、ことのととのほりたるは、あしきことなり。し残したるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、作りは果てぬ所を残すなり」。

完全に整うのではなく、不完全なさまが面白い。そのように説く兼好は、たとえば雨雲にさえぎられる月に風情を見いだす・・・。


わび茶の創始者とされる村田珠光ものちに「月も雲間のなきは嫌にて候」といったそうです。

「未完の空白を含んでいる姿が、日本美では完全な美なのである。」と熊倉氏が書いている・・・というとても奥の深い文章が載っていました。


茶の湯の代名詞となった数奇という言葉は好きのこと。好きの道に打ち込み、同時に世を遁れるため、数奇者たちは禅宗の居士(在家の信者)となった・・・ということも書かれていました。


そして、今日(23日(日))の「闘うわび茶」(下)には、こんな記事が掲載されていました。

なぜ、千利休は自刃したのか。確かなことは、ひとつ。利休の激しい行為の力こそが、茶の美に不滅の命を吹き込んだことだ・・・という文章で始まっていました。


利休が自害させられた理由・・・。

応仁の乱で焼失した大徳寺三門を、利休は見兼ねて、私財をなげうって増築、寄進しました。

楼上に雪下駄履きの自分の木像を安置し・・・。頭上に雪下駄履き・・・。そのことが、三門の下をくぐる秀吉の怒りにふれ、これが利休への切腹命令に追い込まれたとされていますが・・・。


他にも、利休が秀吉の怒りをかった理由は論じられているそうです。

息女お吟に秀吉が横恋慕し、差し出せと命じたのに断ったからだとか、道具の売買であくどく儲けたからだとか・・・。


でも、本当の理由は・・・。


利休を生かすか、殺すか。その問いはこう転じたはずだ。

危険なまでに増殖する美の力を容認するか、封じるか・・・。Going my way ~どこまでも続く道~-長谷川等伯

私も利休が自害させられた一番の理由は、利休の力を封じたかったのではないか?と思っています。

秀吉がいくら名物を集めても、利休の鑑定の方がもっと権威があるのだから、利休にかなわなくなっていった・・・。

利休の力や存在が大きくなりすぎて、それを恐れた秀吉が、その力を封じたのではないか?と思います。


→写真は、利休が施主となって寄進した楼閣の内部。利休と親密な関係にあった長谷川等伯が描いた「蟠龍図」です。(「闘うわび茶」(下)の記事とともに、この写真が掲載されていました。)『長谷川等伯展』に行った時には、布にこの「蟠龍図」が描かれ、館内の天井に飾られていました。


地方絵師だった等伯が、大徳寺の壁画をきっかけに、都でも名の通った画工として知られたことからも、やはり利休は才能を見抜く眼力が働いたのだろうとも書かれていました。


利休が切腹した天正19年2月28日は、雷鳴がとどろき、雹(ひょう)が降ったそうですよ・・・。

秀吉も本当は殺すつもりはなかったとか・・・色んな説がありますが・・・。

いずれにしても利休の心中は知れない・・・ということですよね。


侘びの世界や利休について語られた、とても興味深い記事でした。