闇の底
薬丸 岳 講談社 ¥630 (文庫: 2009/09/15)

子どもへの性犯罪が起きるたびに、かつて同様の罪を犯した前歴者が殺される。卑劣な犯行を殺人で抑止しようとする処刑人・サンソン。犯人を追う埼玉県警の刑事・長瀬。そして、過去のある事件が二人を結びつけ、前代未聞の劇場型犯罪は新たなる局面を迎える。 『天使のナイフ』著者が描く、欲望の闇の果て。

美しい妻と可愛い娘に恵まれ、理想的な家庭を築いた男がいた。
だが、男は幸福に満たされた現在の平穏な境遇と比較し、卑劣な犯罪が一向に無くならない社会に対し、胸中に強い憤りと危惧を抱いていた。娘が幼児性愛(ペドフィリア)の性向を持つ小児性犯罪者(チャイルド・マレスタ)に脅かされる危険性を憂慮するだけで、男は恐怖するように醜い彼らの存在を激しく嫌悪した。
そして、男は幼気な少女に向けられた被害が報道されると、社会の秩序を著しく穢す汚濁を正義で払拭することを目的とするように、小児性犯罪の前歴者を狙った挑発的な劇場型犯罪を繰り返していく。自らを処刑人・サンソンと名乗り、小児性犯罪に対する抑止的な報復行為として、次々と反社会的な私刑を公然と執行した……。

刑事の長瀬は、過去に受けた重苦しいほど悲痛な傷跡を背負っていた。
後悔の念が拭い切れないその苦い記憶は、彼が刑事となる動機として、社会の卑劣な犯行を糺す正義の理念として純粋に培われてきた決意ともいえた。彼は欲望を満たすだけに犯される悪を誰よりも憎み、被害者の心の痛みを共に理解し、健全な社会を構築するために可能な限りの仕事を刑事として懸命に貫いてきたつもりだった。
だが、現実の社会は、彼の理想とは大きくかけ離れていた。日々至るところで淫らな悪意が犯行を招き、身を守る術を持たない少女は性犯罪の標的となり、警察の捜査など無意味だと揶揄されるように卑劣な犯罪が無くなることは決してなかった。
その現実の矛盾に葛藤するように刑事として強い疑問と煩悶を抱く長瀬は、サンソンの行為を司法の側から忌避しながらも、心の奥底では犯罪者の理念を頑なに否定できない、相反する感情が存在することを吐露してしまう……。

 出所情報
13歳未満の子供に対する性犯罪前歴者の出所情報(居住予定地など)を、法務省が警察庁に提供する制度(2005年制定)。

江戸川乱歩賞受賞作「天使のナイフ」でも描かれた、本来は社会で深く論じられるべき犯罪の是非であり関連する法律の齟齬を問う著者の作風は、本作においても痛切に心に響いてくる。
前作「天使のナイフ」では”少年法”という法律の根底に孕む諸問題を深く抉ったが、本書「闇の底」では”小児性犯罪”が社会に及ぼす影響を提起すると共に、ミステリ小説としての洗練された技巧が秀逸に表現されている。

米国(ミーガン法)に倣い2005年に施行された小児性犯罪者の出所情報は、地域社会の安全性を配慮する警察庁の施策ではあるが、刑期を終えた前科者にとっては監視の目が著しい差別を招く可能性が生じる、生活と人権を不必要に縛り兼ねない更正の妨げとなる危険性も持ち併せてしまっている。
しかし、小児性犯罪者の犯行は再犯率が高いという指摘もあり、世間の目は当然のように厳しく、被害者・周辺住人の心情を考慮すれば、必要な措置だということに異議を唱える声は少ないだろうとは推察できる。だが、現在の社会(司法)における実情は、出所情報は警察に伝達されるのみで、一般的な情報の公開は行われていない……。

著者は小児性犯罪という対応が困難な諸問題を慎重に諭すように、読者にミステリ小説という物語の中で提示する。それは過去に罪を犯した者が過ちを償い更正する人の心であり倫理を尊重すべきか、絶対的に弱い存在である小児を守ることを何よりも優先させるべきかという、論点の軽重を問う深刻な選択ともいえる。
だが、小児性犯罪の被害者となった当事者(遺族)にしてみれば、加害者の更正を憂慮するよりも、永遠に消えることの無い心の苦しみを救済して欲しいと懇願するのは当然だろう。その悲劇の闇に渦巻く葛藤が、本書では重苦しくも哀しく表現され、読者は物語と真摯に向き合わざるを得なくなる。

著者は現実社会が抱える深いテーマ性を、常にミステリ小説の体裁に組み込んでいる。
前作は江戸川乱歩賞受賞という評価からも、幾重にも張り巡らされた謎であり技巧と物語性のバランスが非凡に配慮された作品だったが、本作は堅実なミステリとして、簡約に鋭く纏められている点が秀逸に映る。
本書は決して派手さを求めるのではなく、安定感と意外性を与えるミステリとして、謎は結末に向かい一点に集約していく。だが、その先には読者の心を蝕むように深い闇の底に誘う、慎重な思索を要する罪深い結末が用意されている。
長瀬が小児性犯罪者を強く憎みながらも、同時にサンソンによる私刑行為の裁きを苦悶したように、読者は絶対に捕えられない審判を各々の判断で下すしかないのだろう――。


『自分がいるこの世界は自分が守るべき価値のあるものなのだろうか』