【 東京国際芸術祭 リージョナリーシアターシリーズ 】 参加作品。


開演に少し、遅れてしまいました。無念。

SKGを知らなかったので調べてみました。


↓↓↓ HPはコチラ ↓↓↓

http://www1.plala.or.jp/skg/


どうやら北海道で活動されている劇団のようです。

今回、拝見した『再演A。』は『A。』という四年前に

書かれた作品を改訂したもの、なのだそうです。


遅れてしまったので、こういうことを言ってよいのか分かりませんが・・・・


胸を打たれました。

役者さんがイキイキとしていました。

根底で持ち合わせている人間の痛いくらいにピュアな部分を

さらけだしているのが見えて、その姿だけで涙が出そうでした。


内容は、多重人格の頭の中に生まれた人物との会話の中で

「キミ」を治すために「ボク」が消えていくというシンプルな流れだったのですが

なんかもう、なんで、こんなに痛いんだろう?というくらい全員が真剣なんです。


主宰のすがの公さんをはじめとして、真摯に人間に向き合っているのが分かるのです。


舞台美術も、舞台中央上部に掲げられた一枚の絵のみで

広い舞台に役者が四人なのに、それが私は気にならなかった。


SE-NOというデュオにこの公演のオリジナル楽曲を提供していただいたのだそうです。


ラストにメインテーマ曲が流れていましたが、そこで涙腺崩壊。

最後に、ふたりがライブをやってくれたんですが、そこで、さらに崩壊。


また、東京に来てくれないかな。

今度こそ、遅れないで行きたい・・・・

 

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【 東京国際芸術祭 リージョナルシアターシリーズ 】 参加作品。


「皆さん、何から逃れてきたんでしょうね」


現実 と 虚構 が入り混じる劇中劇の要素が含まれた舞台。


公演の砂場の横にあるテントにこもり、台本を読み続けている女と

女に撤退してもらうよう、いきり立ち、直談判しに来た、役員の男。


女は台本を男の前で、読み始めます。

過去に上演した台本のようで、その当時の情景が展開されていきます。

しかし、次第に、男すらも、今おきていることは現在なのか過去なのか

虚構なのか分からなくなっていくのです。


抽象的で美しい台詞が耳に心地良かったのですが

内容をよく理解できないままに、終わってしまったというのが正直なところです。

(おおまかな、外枠だけは、残っているのですが・・・・)


特筆すべきは、細部まで至るその絶妙な色彩感覚でしょう。


舞台転換時に活用されているプリント柄の布をふくめ

割と派手な色が溢れるように目に飛び込んでくるのですが、

決して、うるさくないのです。


主宰であり、演出である池田さんの鋭いセンスが見えます。

劇作家でもあり役者でもある樋口美友喜さん。

「女子高に居たら相当モテるだろうな」と思わせる中性的な色気があります。


池田さんと二人でいたら、ゴールデンコンビだろうなあ。


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くろいぬパレード「ヤモリ」

テーマ:

『くろいぬパレード』http://http://homepage1.nifty.com/kuroinu_parade/                                      


「芝居を知らない人に楽しんでもらえる芝居」

を作ることを指針としている劇団です。                     

                                 

私は初見でしたが、観劇後に体中の力が抜けてしまうほど

設定にのめり込み、舞台に見入っていました。久しぶりの感覚です。

感情移入しやすい方なのですが、現在の私に訴えかけてくる要素が

多かったこともあり、この芝居が自分を見直す良いきっかけを与えてくれました。                     

演劇の特性を利用した目新しい手法を展開している訳ではありませんが
しっかりと根の生えた、まずテキストありき!と言える深い人間ドラマを

ご覧になりたい方にオススメしたい劇団です。

状況設定や人物背景がしっかりと描かれているので

「お芝居って観に行ってみたいけど、ちょっと抵抗あるな・・・」

という方にもテレビドラマを見る感覚で薦められるのではないでしょうか。

ただ、ある意味『お客様に優しいお芝居』ではないかもしれません。


確かに展開は分かりやすく理解はしやすいですが、

精神面に与える影響を考えると優しくはないような気がします。
というのも、笑いを随所に交えてはいるものの、人として痛々しく

醜い部分をエイヤッ!と突かれる瞬間が描かれているからです。



その分だけ、何気なく過ごしている

日常生活を見直すきっかけになりうるのだと思います。



以下、省いてはいますが、おおよその内容を表記します。


全身麻痺で顔のみが動かせる状態の父親の様子をうかがうために、久しぶりに玉木家に集まった四人兄妹。父親は炭火焼き職人で、実家は工場のようです。しかし、玉木家では兄妹達が見たことのない面子がいつの間にか両親と一緒に暮らしています。まるで本物の息子や娘のように両親と接する住み込み働きの三人を見て、表では愛想を振りまきながらも、裏で四人は不快な感情をあらわにします。そして過去、父親との大喧嘩の後に家を飛び出していった長男、樹一郎が父親と対面した瞬間から、この二つの家族の亀裂は決定的なものとなってゆきます。父親に対して暴言を吐く樹一郎を住み込みの岩熊が殴り大騒ぎになってしまうのです。



ここで、住み込みの人々の方が、息子達よりも両親との心理的距離が近いことが、徹底して観客に知らされます。私はどちらかというと四人兄妹の方に感情移入していました。実際、こんなことが起きたら焦るんじゃないでしょうか。自分が悪いのは百も承知だと思うでしょうけど、やはり血の繋がりを前面に押し出したくなってしまうと思います。
ここで実の親への無条件の愛と信頼を期待している自分がいることに気付いてアイタタ!です。



さて、当初は父親に刃向かっていた長男ですが、一度つぶしてしまった店を再度オープンさせるために、頭を下げて三千万の金を要求します。長男に実家をついで欲しい兄妹達は必死で長男の行動を止めようとします。しかし、父親は三千万を出すと言います。そして二度と俺の前に顔を出すなと言い切り、絶縁を申し出るのです。



私はここに父親としての最後の愛情が見えました。素直になれない父親が最後に見せた優しさだったのだと思います。しかし長男は結局はそれを受け入れることが出来ずまた口論を繰り広げてしまいます。そして、四人兄妹の親族であるが故の責任のなすりつけ合いや甘えが益々ヒートアップし、父親が死に、そして遺産相続で揉め、最後は殺人罪で服役していた事実がバレて家を追い出され、ヤクザに転身した岩熊がボケた母親を引き取っていくのです。四人兄妹は、母親がボケていることにすら気付かないのです。



展開には納得がいくものの、観ている方には本当に辛いものがあります。何とか二つの家族の調和を保とうとしていた母親がどれだけの孤独を抱えていたのかと思うといたたまれません。遺産相続をし店を再度オープンしようとした長男は結局、誰の理解も得ることが出来ないまま一人になり、慟哭し続けます。「しっかりしろよ兄貴」となだめる三男の胸に顔を押し付け号泣する長男。
胸がぎゅっと締め付けられるような、ずっしりと重石を乗せられるようなラストです。



ただ、ちょっと気になった点は、長男である樹一郎が途中で住み込み働きの岩熊に理解を示し始めるところです。結局、樹一郎は岩熊が殺人罪で服役していたことが露呈した後に再び彼を蔑視するようになりますが、その事実が露呈しなければ岩熊との関係が丸くおさまっていたのかと考えると不自然なような気がします。都合良く態度を変える、それが樹一郎の人物設定なのかもしれませんが、それならば周囲の発言からしぶしぶ理解を余儀なくされているように見せておいて、岩熊が前科持ちであることが発覚したときに「やっぱり俺の言った通りだろ?」とでも言うような台詞を吐かせた方が観客に対する説得力が増すのではないかと思ったりもします。



しかし、これだけ書いてみて「かなり入り込んでいたんだな」と

改めてドラマの威力を痛感した次第であります。                                       

役者さんにも力量があり安心して観られました。

今度は芝居を観たことのない友人を誘って観に行きたいですね。



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卒業制作&副論文も終わり

晴れて自由の身となりました。


昨年は学業&その他もろもろを言い訳に

あまり観劇が出来なかったので、反省を生かし

今年はどんどん芝居を観て行きたいと思います。


さて、そんな年初め。


こちらが新年初の観劇となりました。

http://www.COLLOL.jp/othello/

COLLOL(ころーる)と読みます。


↑のプロフィールにも記載されていますが、作・演出の田口アヤコ氏は

山の手事情社や指輪ホテルに所属していた経歴のある女優さんです。

今回は台詞に加えて、ピアノの生演奏をしていらっしゃいました。


芝居だけでなく映像も撮っていらっしゃるとのことです。

今までに何度か公演を打たれているようですが私は今回が初見でした。


以下、ネタバレするので、これから観劇予定の方はお気をつけ願います。


受付を済ませ、ロビーに入ると劇場内から伸びている白い毛糸の束が

目に入ります。舞台は劇場の入り口からみて縦に伸びるように中央に

形作られています。舞台上には白い毛糸のまだらな網目模様が全体的に

敷かれており、私たちは舞台を挟んで左右に置かれた席のいずれかから、

中央の役者のやりとりを見つめることになります。

私は入り口から見て左手の中央寄りの席に座りました。


劇場に入った瞬間、向かいに(おそらく)ギャラリーから垂らされた毛糸を

編み棒で黙々と編み続ける二人の女性が見えます。この二人は公演前

も公演中も公演後もずっと編み物を続けていました。

ラストを見た後には演出の意図を推測することが出来るのですが、

ある意味、一種の忍耐のようにも思えました(笑)


内容は、現代の恋人達のエピソードと『オセロー』の物語の

展開を絡めながら進んでいきます。また役者は一人一役ではなく

瞬時に役柄が変わっていきます。


現代のエピソードと『オセロー』への切り替えは役者ごとにしっかりと

演じ分けられているので迷わず頭の中で認識することが出来ます。

現代の恋人達の嫉妬や浮気心をとりあげてみせることによって、

いつの時代にも存在している普遍的な感情をよりリアルに身近な

ものとして感じさせているのでしょう。


この公演の特徴として挙げられるのは、同じ会話が二組、三組のペアで

連鎖するように演じられていく点です。シェイクスピアの台詞回しを

意識した演出なのかとも思いましたが、田口アヤコ氏いわく、もともとは

二人芝居だったとのことで、なるほど中央に椅子を二つ置いて対面する

場面が多いのも、もともとの台本によるものなのかと納得しました。


しかし、台本に関わらず、オセローがデズデモーナを殺す場面を、

三組のペアが同じ会話を連鎖させながら演じた、その過程は

私の中で深く印象に残っています。


どこか幻想的な台詞の波は、オセローの

一種狂気的な愛情を示すには効果的だったのではないでしょうか。


そして、ペアが入れかわり立ちかわり「おはよう」「おかえり」「おやすみ」

と会話を繰り返すラスト。ひつじというキーワードが出てきたとき、舞台に

広げられた白い網目は夢を暗示していたのではないか、という思いに

駆られ、ずっと編み物を続けている二人の女性は、延々と続いていく

日常を示しているのではないか、という思いに駆られ、

私は比喩にうずもれるように、台詞の波にのまれていきました。


それらの台詞の波の中で舞台を歩き回りながら


「しあわせ?こわい?」


と問い問われる二人の会話を耳にしながら、

ほんの少し胸が痛んだ自分がいました。

田口アヤコ氏が持ち出してきた女性的な感覚に反応し、

引っ掛かってしまったのでしょう。しあわせでありすぎることに

自然と恐怖心を抱いてしまい、相手に何度も同意を求めてしまう

日常生活の中での瞬間をふっと思い出しました。


これは男性の方はどうご覧になったのでしょうか。

人にもよると思いますが、女性だから分かる部分と

男性には分からない部分がはっきりしているような気がします。


全体的にオセローよりもデズデモーナの心情に添って

作品全体が形創られていたように思えました。

連鎖する台詞回しが時折「くどい」と感じられたことと、

笑いが一切入らないことで、まどろんでしまうような瞬間が

あったことは事実ですが、わたしは個人的にこの作品が好きです。


ただ、他の方もおっしゃっていたことですが、

身体表現でもっと魅せることを意識すると、

よりぐっと完成度が高くなるのではないでしょうか。


魅力的な資質を持っている役者さんが多い中で、

その点で印象が残っていないのは

非常に勿体無いことであると思うのです。


同じアメブロでwonderlandの劇評仲間が主宰している
「おはしょり稽古」 にもこちらの公演のレビューが掲載されています。




更新が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。

卒業制作によって観劇すらままならない日々が続いていましたが

先日、やっと目処がつきました。誠に申し訳ございません。


タイトルを変えて新たに情報を発信していきたいと思います。

(もう、4月からは女子大生ではなくなってしまうからです・・・)


さて、公演から大分、日数が経ってしまったのですが・・・

PPPPの『不満足な旅』を取り上げたいと思います。

ザ・スズナリにて11月16日(水)から11月23日(水)までの公演。


舞台は、日本ではないどこかの国。

キレやすい男・鴨井(小林高鹿)と、鴨井の彼女に誘われ

合流することになった世界一周の旅の途中の山添(宮崎吐夢)、

鴨井の彼女の弟である宗宏(吉川純広)、出張中のビジネスマン

仲丸(玉置考匡)、元女神だと言い張る鈴木(ぼくもとさきこ)


この五人がとある宿の4階?の一室に集い、

互いを知る為の会話が交わされていきます。


キレやすい男・鴨井(小林高鹿)の彼女を「不在の人物」として

置いたことが台本の大事なポイントとなっていることは事実でしょう。

それも、まったく舞台に登場しないのではなくて、鴨井と喧嘩をしている

場面などが展開の1つに盛り込まれています。(もちろん、鴨井が一人で

彼女に向かって怒鳴っているという演出になっていましたが)


その影をにおわせることによって「彼女とは一体何者なのか」という興味を惹かせます。


鴨井と旅先で喧嘩別れしたという彼女についての話題から派生して

実は鴨井は宗宏と今までほとんど会話をしたことがないとか、鴨井と

彼女が喧嘩したのは、彼女が山添を誘ったことがきっかけだったとか、

様々な事実が浮かび上がってきます。


そうやって舞台上の人物が互いの関係性を知っていくのと同時に

私たちも、彼らの人物設定を知っていく、つまりは情報を舞台上の役柄と共に

拾い上げていくので、観客との呼吸が一体化しやすい舞台とも言えると思います。


さらに、窓の外でカーニバルが行われている、ということが分かるのですが、

私たちは、鴨井の彼女と同様、その様子を見ることが出来ません。そして、

この国がどこなのかも、はっきりとは分かりません。音響や人物達の会話の

中から、それを想像するしかないのです。これが、台詞を聞いても分からない

ようだったら、思考は停止してしまうのですが、所々にその状況をつかむヒント

や面白味が隠されていて、結局は最後まで集中して見てしまうのです。


仲丸が人を殺してしまったことを懺悔する場面や、

ラストに宗宏が息を引き取っていることを示す場面など

ところどころに「死」を臭わせる要素が入っていることも、その一つでしょう。

わかったような、わからないような、その面白さにとりつかれてしまうと、

きっと私のように公演台本を購入して読んでしまったりするのでしょう(笑)


山添役の宮崎吐夢は、さすがの存在感。

PPPPの役者さんの中では浮いていたという感想もあるようですが、

私は逆に、彼がいたことで作品の安定が保たれていたように思います。


あれだけ突き抜けている人がいたからこそ、PPPPのどちらかというと

安定した役者の力量がにじみ出ていた部分も大きいのではないでしょうか。





小指値「俺は人間」

テーマ:

小指値 第3回本公演

「俺は人間」11/15(火)~11/20(日)

劇場:タイニイアリス


◎「あたしのことすなおじゃないとか言う人いるけど あんたのまえで すなおになれないだけよ。」


タイニイアリスHPでの公演紹介文に興味をひかれたので
劇団のHPをのぞいてみた。

http://www.koyubichi.com/


2004年、多摩美術大学にて結成された若手の劇団である。

作品制作過程では、劇団員それぞれが小説・詩・写真・創作ダンスといった

作品を持ち寄り、演出の北川陽子が脚本に仕上げるのだという。


なるほど、それらの作品が集結した舞台は、

どのような形で目の前に現れてくるのだろうと興味が湧いた。

・・・・そこには、私には一様に好きだとか、嫌いだとか言えない不可思議な世界があった。


というのも、脚本が断定的かつ説明的な台詞の羅列で構成されており
言いたいことを全て、登場人物に口にさせてしまっていて、それだけを

取り上げてみれば、決して出来が良いとは言い難いのだが、


なんとなく、引っ掛かる、のである。


それは、おそらく必要以上に過剰に反応し、常に動き回っている

役者陣の身体から真実性が見え隠れするからではないだろうか、と思う。


装置は、赤・緑・黄といった配色で染められているので一瞬、わからないが

『耳をすませば』の月島雫と天沢聖司の顔がデカデカと舞台後方に吊り下げられている。

しかも目や口の部分に、さらに月島雫や天沢聖司の顔が貼り付けられている。

あとは特に何も置かれていない。


パンフレットから、あらすじを引用しておく。

「西暦2080年、若者は渋谷に集まり、恋心を演じる完璧な遊びに興じた。

なぜその遊びをしなければならないのか、誰にもわからない。ひたすらに

続ける手段がある限り、彼らはその遊びを続けている」


全編を通して表されていく、誇張表現。

幾度となく「ああ、そういう気持ち、分かる」と同調する。


仲の良い女の子同士がお互いに

「かわいいね」「そんなことないよ」

と目をひんむいて絶叫している。


友人の思い人に告白され「どうしても駄目か」と迫られ、

顔が強張り、つま先がピンと立ったまま、動けなくなってしまう。


人が大事な告白をしているときに、

上着を脱がせ乳首を眺めたり髪の毛を鼻毛にしたりする。


会話の裏にある、嫉妬や、不安や、恐怖や、嘲笑。

といったものが、ありとあらゆる形で具体的に身体化されているのだ。


少々、扱っている空間が広く、しかも1シーンごとに登場している人物が少ないので

焦点が散漫になってしまい、迫力に欠けていた面があったのは事実、である。

けれど結局、最後まで、飽きることなく舞台を眺めてしまった、ということで、自分でも

「あれは一体、何だったんだろう」と、もやもやした気持ちを抱えたまま、なのである。


「ヤング・マーブル・ジャイアンツ」にも出演していた

ロボット役の天野史郎さんは思わず人目を引いてしまうほどの、ラインの細さ。

大きい目に存在感があり、彼が舞台に出てくると、空気が変わる。他の役者さんも、

ものすごい形相で舞台に臨んでいるが、女の子も可愛い子が集まっているように思う。


だからこそ、なんだか気になって、気になって、仕方ない、この、恋心のような、感覚。


11月を迎えてしまいました。

久しぶりの更新になります。

長らくお待たせして、大変申し訳ありませんでした。


最近は、卒論に頭を悩ませる日々です。

お願いだから、集中してくれ、わたしの少ない脳みそ。


そんな中、日本大学芸術学部の卒業制作をみてまいりました。


日本大学芸術学部卒業制作 『 るつぼ 』

作:アーサー・ミラー 演出:西菜々重


大学四年の集大成として、この作品を選んだ意図は何だったのか。

内容は『魔女狩り』である。

アメリカのマサチューセッツ州で実際に起こった

「悪魔と契約した人間が村にいる」という告発から

広がっていった投獄事件をもとに書かれた作品だという。


その背景にはマッカーシズムへの批判が潜んでおり、

近年には9.11同時多発テロ後のアメリカ国内の動きを

批判して再演されたのだそうだ。(当日パンフレット参照)


ゴシップ ―― 興味本位の噂話。

「gossip」の語源の由来は「god(神)」と「sibb(親族)」である。


ゴシップには、神と親族が同居しているのだ。


絶対的な神へ向けた信仰が人々を貶めていく瞬間が

作品の中では幾度も訪れる。背景にあるものはもちろんのこと

集団意識の恐ろしさを存分に見せ付けられる戯曲内容である。


共に大学四年間を過ごしてきた仲間たちが

この芝居に立ち向かうということは、これから

確固たる個として立たなければならないという

そんな未来に向けての焦燥と絶望と希望が

滲み合い、混ざり合い、生まれてきていることを

指し示しているように見えた。


だからこそ、まだ、混乱している。

作品として完成しているかと問われれば決してそうではない。

創り上げていくのは、きっと、これから、なのだ。


狂気の沙汰にさらされる女性役者の叫び声が身体の内側を

ぐらぐらと揺らす。しかし、やや安定感が感じられない。

一定のパターンで叫び声が続くと、

みている方は生まれている恐怖に慣れてしまう。

女性の高い声質は、あの広い空間では返って響きにくいことを

意識して舞台に臨んでいるかどうか、が問題であって、

まだそこまでは意図が届いていない感じがした。

たった一言で「生きる」か「死ぬ」かが決まる瞬間を経験する人々の深遠を

見つめる目は、表現者を目指す私たちは、永久的に養っていかなければいけないのだと思う。


三条会「ニセS高原から」

テーマ:

蜻蛉玉に引き続き、三条会verを観劇。

この公演を含め、三条会は
様々な劇評で取り上げられているので
そこから読みとれるイメージは持参していったけれど

なるほど
「楽譜からはみ出している音符が舞う絵画」
をみているような感覚に陥った。

楽譜だけ眺めていると理解することが難しいが
絵画としてみると、嗜好作品として成立している。

だから、ひとつひとつの演出の意図を問いただしていくよりは
全編を見渡して、何が浮かび上がってきているのかをみるほうが
作品の楽しみ方としては適切なのだろうと、そうおもうのである。

アリスフェスティバル2005参加作品。

自虐的ナンセンスコメディ

をキャッチに掲げる仏団観音びらきの観劇は今回で二度目。

前作、「女囚さちこ」に引き続き、またしても悲惨な公演タイトルだ。

女殺駄目男地獄」(おんなごろしだめんずじごく


倉田真由美の「だめんずうぉーかー」で認知度を上げた

「だめんず」と、彼らにハマる女達の痛々しい恋愛模様。


さわやかな午前3時に放映されているダメ恋愛検証番組「目覚めよ!」
にて紹介される「だめんず」に引っ掛かった三人の女たちの過酷な顛末。


本気になった男に金をせびられ、暴力をふるわれ、浮気を繰り返されても

「きっと、彼は目を覚ましてくれる」といわんばかりに、すがりついたり


自宅に転がり込んできたマザコン男と非常識な母親の行動に耐えられず

出て行ってほしいと訴えるが、逆ギレした男と母親に殺されてしまったり


婚約者がいるにも関わらず口説き上手の宇宙人にハマって婚約を破棄してしまったりと


とにかく救いようのない女たちの物語が、ド派手な演出で繰り広げられる。

ガンガン流れる有名歌謡曲に、これでもかと盛り込まれるダンスシーン。

大阪出身劇団(仏団?)ならではのベタな笑いがあちこちに散りばめられ

「もうこりゃ笑うしかねえだろ!」と腹を抱えてしまうわけである。


しかし、最後にダメ恋愛をたしなめていた番組司会の二人も

じつはダメ男にハマっているというラストを用意しておくことで

しっかり観客に対する警告と引っ掛かりは残していたりするのだ。

あえて一つこの作品の改善点を掲げるとすれば劇中で描かれている

「だめんず」以外の男たちも、ほぼ「だめんず」だったということだ。

エリートでも、結局は計算高い女に丸め込まれてしまったり金にうるさかったり。

一人、女性が理想とするものをすべて持ち合わせている

優しい男性に愛される女を引き合いに出して、けれど結局は

「だめんず」に走ってしまう女性の卑屈さが描かれている場面があったら、

もっとダメ人間の悲哀がただよう舞台となったのではないだろうか。

しかし、この劇団。扱っているテーマはどぎついものであっても、

わりと正統派エンタテイメントの構造をなしている、とおもう。


演出だけではなくて、役者の演技もド派手なのだけれど

みていて、うるさくないのは力の入れどころと抜きどころを

自由自在にあやつっているからなのだろう。

特に主宰の本木香吏氏の演技は見ものだ。

表情、声、全身をフルにいかした魅せ方を知っている。
だから、自分が一番ブスに見える演技が出来るのだ。

今、世間で話題になっているコーチングのプロの方がこうおっしゃっていた。

『プロとは、「恥も外聞もなく、自分をさらけ出しながら
自分と向かい合う勇気と、英知を持った人のこと
」だとおもう。

ここでいう「勇気」は、怖くてもチャレンジし続けられる気持ち。
ここでいう「英知」は、真実や真理をとらえることのできる深いの認識力。

次が創れないなら、プロを降りている。
真実や真理を探究しようとしなかったら、プロではない。

どんなプロの人の言葉も、突き詰めると、そこに行き着いているような気が
するのは、私だけでしょうか?』

わたしはこの言葉が主宰・本木香吏氏の姿勢に

ぴったりと合わさっているように思うのだ。

彼女は「世間の煩悩」や「女性の醜さ」と向き合い

一方的な女性側からの訴えに留まらず、それ自体を

笑いとして昇華させているのだから。


そのプロ意識でこれからも仏団菌を撒き散らしていってほしい。

次回公演もたのしみだ。

わたしの『ニセS高原から』観劇一発目は蜻蛉玉

本家の「S高原から」をみていない私にとっては、この作品をベースとして他の作品
をみていくことになるわけだが、実はフルで男女キャストを書き換えていたことに

終演まで気付かなかった。


違和感を感じないままに、恋人たちの会話のやりとりに見入っていた、

これは演出家の方にとっては 「してやったり!」という感じだろうか。

蜻蛉玉の演出の島林さんは、わたしとそんなに歳のかわらない女性の方だ。


瞬時に「これは!」と目が冴えるような演出ではないけれど、

じわじわと歪みが空気ににじんで広がるような舞台に翻弄された1時間50分。




男女三組のカップルのやりとりが丁寧に描かれる。

女の子は、全員、サナトリウムで静養している患者である。

絵を描きたいのに、死の恐怖から夢中になりきれなかったり。

彼氏が見舞いにきてくれたのに、「忙しい」と口にすることに苛立ちを覚えたり。

やさしくされても、「大丈夫、大丈夫、なんでもない」とあたりまえのように振舞ったり。

ところどころに

「わたしは、しぬんだよ」

という示唆が嫌でも見え隠れしてしまう。

それがまた、ふたりの空気をかたくして、距離ができる

アフタートークでも誰かが言っていたけれど、

男が「うんこが出た」っていうのと

女が「うんこが出た」っていうのはちがう。




女には、素直に健康になることも、喜べないような触れにくい壁がある。


女ならでは、の葛藤とか恥ずかしさとか意地とか、

かわってゆく、またかわらない男への戸惑いとか。
死を身近に意識して置いているから、それらに過敏に反応してしまう物悲しさとか。


つい、なんでもないフリをして、

そして、なんでもないように、傷ついている、女たち。

誰にも責められない砦を、自ら巧妙に築くことが彼女たちの希望なのかもしれない。



『すいかはいらない。ここで取れるから。でも、夏みかんは食べる』

と言って四年目の入院患者が恋人や医者、看護人と夏みかんを食べる場面がある。

四人の目の前に置かれた丸く大きいスイカ。
このスイカは、とある患者が、彼氏が他の女と結婚することになったから、
せんべつとでも言うように差し出されたようなもの。

まるで健康な身体と精神の象徴みたいに、どっしりと構えるスイカの存在感。



食べることは、生きるという行為に直結している。
すいかではなくて、夏みかん。大きいものではなくて、小さいもの。
そうやって、生きる為のひとつひとつの規模を身近なところから手放して、


患者が今、在る位置を現実から、ゆっくりと、

これからゆくべき道に、ずらしているように見えた。    
           

劇中で、人物が観客に背中をむけて会話をやりとりする時間がけっこうあって、

表情 がみえないってことに、死に対するじぶんのイメージが奥の方までえぐられる感覚に
陥る。


背中で語られていることが口にしている言葉よりも多い気がして、そのちぐはぐさに、

えらく痛い思いをした。わたしだけ・・・かしらん。



終演後のアフタートークで、蜻蛉玉の演出家の島林さんが


「福島を殺したかった」


と直球で口にしたのを聞 いて、胸がざわつくのに気付く。

解釈が統一化されたように瞬間を味わってしまったことと、

背中の語りに自らが執着していたことが大きいのだとおもう。


島林さんがわるいわけではない。ないのだが、


何だか「ちぇっ」と唇を突き出したい気分になった。