友達たちも一瞬固まって息を呑み
それから改めて
『…え〜!』と 声を出した。
すごい。
この子たちは一瞬にして私のこころを慮り、そして物凄いスピードでいろいろ考え、そして改めて『え〜!』という声を発してくれたのだ。
私は子どもという年代の人間を清廉潔白だとは思っていない。
子どもという年代の人間は大人ほどの知識や経験や視野を得てはいないが、その分思考や発想は自由と柔軟さを持っているし、そして何より本能に忠実で時には無意識の残酷さを併せ持つ。
だからこそ日々の関わり方や接し方・結ぶ関係性の内容が大切で、大人がその部分を余程意識していなければ簡単にむき出しに ある意味残酷な『人間という生物らしさ』を表す。
イジメや意地悪や仲間外れがそうだ。
でも今この子たちは瞬時に私を慮り、あむちゃんを思ったのは確実だった。
『犬と生きてない白蛇と子どもたちを想像出来ない』と いとこからLINEを貰った。
『そうだよな(笑)』と私も返した。
誰もがそれを想像出来ないくらい、私は犬とセットで生きて来た。
きなことSHELLYが相次いで虹の橋を渡ってからHALOが我が家へ来る間は四ヶ月あったのだが、実はその時 諸事情で同居していた者の犬が我が家にはいた。
だから今 私と子どもたちは本当に生涯で初めて、犬がいない日々を生きている。
そして、知り合いに言われて気付いたのだが
私と子どもたちは犬を選んだことが一度もない。
結婚前の犬たちは大人たちが
SHELLYやきなこは夫が
HALOとMyriamは緊急で我が家に来た。
だからなのか
気持ちがちょっとふわふわとしている。
ふわふわとした中、はっきり輪郭を帯びたのが
『犬が人間を選ぶ』という事実。
どんなめぐり逢いであれ、犬が人間を選んでいるのだと怖いくらい明確に感じていて、今『どの子を…』と選ぶ気持ちが私の中に湧かないのだ。
反面、犬を恋しく思う気持ちは溢れ漏れていて、道端で会う犬と飼い主には余すことなく声を掛けてしまうし、親戚の犬のトリミングをさせてくれ!と通ってしまうし、触れさせてもらえる犬全員にマッサージを行ってしまっている。
それどころか
よく我が家の木に隠れにくるスズメたちへ残っているキンカンをもいで隠木の枝に挿してやり、水飲み場を新たに与え、暑い日は水浴び場まで用意し、地域猫とは話が出来るようになってしまった。
酷いアレルギーがあるので、医師の注意通り2mあけて猫と話している。(いや、1mしか離れてないかも)
猫のJAZZ(私が勝手に命名)は起きてる時 とってもイケメンで、話しかけると小さく『ミュッ』『ニャッ』と返事をしてくれる。その様子にあらゆることを思って涙がとめどなく溢れる。
JAZZはとても優しい。
『これはもう私病気だ』と思って主治医のところへ駆け込んだ。
主治医は循環器科の医師だから精神科管轄の診断はしないし、何せ四半世紀以上の付き合いなもんだからほぼ親戚な感じで、めそめそしている私に
『そりゃ~オマエ、アレだ!命あるもの〜云々』
と つまらん正論を無遠慮でどストレートに言うから、『絶対そう言うと思った!さすが医者だ!涙も止めてくれるなんて名医だな!』と私は笑った。
思ったことをそのまま言っても必ず許してくれる
(思ったままを私へ言うのも許せる)
それがこの医師の優しさだと私は知っている。
クチコミ評価最低だけど(笑)
いつもとても親身になってくれる薬剤師たちは『落ち着くまであまり話し掛けないほうがいい?』と訊いてくれたので、私は『ダメ!そんなの寂しい!話し掛けて!』と言った。
薬剤師たちは笑った。
この薬剤師たちも本当に優しい。
数日後、再び朝の登校時間に会った友達たちの中の一人が意を決したように
『白蛇ちゃん、もう犬は飼わないの?』
と 言った。
私は
『実はね、私、犬を自分で選んだことがないの
だからね、こころの向きというか
探し方や選び方の気持ちがね
本当によく分からないの
今まで犬に選んで貰った私だから』
と 理屈っぽい応え方をした。
しばらく考え込んだ沈黙の後、別の友達が
『わかった!じゃあさ!
また犬に選ばれる白蛇ちゃんでいようよ!
犬に選んでもらえてた今までの白蛇ちゃんのまま生きたらそれでいいんだよ!
ホントそれだけでいいの!
白蛇ちゃんはそのままでいいんだから!』
と、言った。
あぁ、もう…本当に子どもという存在は
むき出しの思い遣りで
いつも軽々と私のこころを穿く。