こちらは脳死がテーマになっている物語になります。

 

娘の小学校受験が終わったら離婚する予定だった仮面夫婦。しかし彼らの娘はプールで溺れ、植物状態になってしまいます。医師からは「回復を願っての治療は極めて困難であり、延命措置しかできない」と説明され、さらには臓器提供の意思はないかと問われます。

 

夫婦はまだこの状況を受け入れることができませんが、仮に臓器提供を承諾した場合は「脳死判定」が行われ、そこで正式に脳死が確認されてはじめて、娘は死んだと判断されることを知ります。一方、臓器提供をしない場合は「脳死判定」自体も行われず、心臓死をもって死とすることが伝えられます。

 

つまり日本では、臓器提供を承諾しない場合、たとえ脳死状態であっても、その判定は行われず、延命措置でいずれ訪れる死を待つということになります。ちなみに世界の多くの国では、脳死=人の死と認められており、脳死していると確認された段階で、たとえ心臓が動いていたとしても、すべての治療は打ち切られます。

 

心臓死と脳死、どちらが本当の死なのか。日本人にはそれを選ぶ権利があるため、当然この夫婦もどう判断していいのかわからなくなります。

 

それでも一度は脳死を受け入れ、移植コーディネーターを呼んだ彼らですが、その話し合いの最中に娘の手が動いた(ように感じた)ことがきっかけで、「娘は死んでなどいない、脳死は受け入れられない」と、急きょ臓器提供を拒否します。

 

こうして娘の延命措置を選んだ夫婦は、いばらの道を進んでいくことになり―

 

 

娘の父親である和昌は、ハリマテクスという障がい者支援用の商品を開発している会社の社長をしています。ハリマテクスではBMI(脳と機械とを信号によって繋ぐことで、人間の生活を改善しようとする試み)に力を入れており、最近では人口眼の研究で期待されています。

 

お金と技術、そして人材と人脈のある和昌は、その力を使って娘に特殊な横隔膜ペースメーカ―を埋め込んで人工呼吸器を外すことに成功したり、電気刺激によって寝たきりの体を動かす機械を開発したりします。その効果あってか、娘の姿は筋肉も落ちず健康体そのものを維持し、あわせて血圧や体温なども安定していきます。

 

ただ、こうした夫婦の姿は周囲から「自己満足ではないか」「気持ちが悪い」と言われ・・

 

 

実際、夫の会社の技術に妻の薫子はのめり込んでいました。薫子は娘の介護中、あらゆる方面から批判の声を聞く度に、それに反発するかのような態度を見せ、”危険な人”扱いされるようになっていきます。

 

その中で最も薫子の胸を抉ったのは、臓器提供のドナーを待つ募金団体の存在でした。薫子はそこで娘と同じような年齢の子たちが移植を待っていることや、臓器移植を自給自足しない日本人が大金を払ってアメリカ人から貴重な臓器提供者を奪っていく事実を知ることになります。

 

しかし薫子はここで訊きたくなるのです。ドナーを必要とする人にとって、自分のような存在はどう映っているのかということを。医師からは脳死していると言われているのにそれを認めたくない親を。回復する見込みなどないのに延々と介護を続けている親を。自分の素性を隠して本音を探ったとき、彼らはなんと答えるのだろうかと。

 

 

我が子の死を認めたくないというのは、親なら当然です。だから法律を改めるべきなんです。医者が脳死の可能性が高いと判断したなら、さっさと判定すればいいんです。それで脳死だと断定できれば、それ時点で死亡として、すべての治療を打ち切る、もし臓器提供の意思があるならばそのためだけに延命措置を取る―そう決めればいいんです。それなら親は諦めがつきます。臓器の提供者も増えるはずです。P244

 

 

薫子はこの後もどんどん暴走していきます。本当はみんな娘のことを死んでいると思っているのではないか、それを親が無理やり生かしていると思っているのではないか。そう思えば思うほど、娘を公の場に出して健康であることをアピールしたくなるし、娘に話しかけるよう強要したくなります。娘はいつか回復すると共感してほしくなります。

 

しかし、そうすればそうするほど周囲は薫子を気の毒な顔で見てくるようになり・・・

 

 

切ないですよね。親として薫子の気持ちは自然なもの。けれども当事者でなければその姿は異様に見えてしまう。二度と目覚めない娘にコードをつけて動かして、息子の入学式に連れてきて「生きている」ことをアピールしに来たり。警察に脳死状態にある我が子を刺し殺すのと、脳死判定を依頼して死亡判断してもらうことの違いはなんなのかと、それは同じ「殺人」には当たらないのかと訊いたり。

 

薫子にとっては脳死を認めるのも、認めないのも怖いんですよね。だって死亡判定と臓器提供はセットで、それ自体が親の判断に委ねられているのですから・・。死亡となるかどうかは、自分の判断にかかっている。それは怖いですよね。

 

また、脳死と心臓死のどちらが「死」なのかと言われたら、まだ体温を感じる脳死の方を「生きている」と思ってしまいますよね。どうしても「死んでいる」のが信じられないと思ってしまうのは仕方がありません。

 

でも、実際のところどうなんでしょうね。

 

薫子も頭の中では脳死=死だと思っていたのではないでしょうか。ただ、どうしても受け入れることができなかった。周囲から「もう一生目覚めるわけがないのに無駄なことをして」と思われるからこそ、「この子は生きていると自分だけは信じてあげなければ」と思ったのではないでしょうか。

 

募金団体の人たちに、臓器提供者に対する率直なおもいを訊いたときも、最初は彼らに罪悪感を抱いているように見えましたが、「ドナーになる子に早く死んでほしいなんて思ったことがあるわけがない」「いくら植物状態でも心臓が動いていれば生きていてほしいと思うのは親なら当たり前」「自分の子をドナーにしたくないと思う気持ちは理解できる」と言われたとたん、心の中で泣いていましたからね。

 

姪が娘のことを「生きていてほしい。大きくなったら一緒にお世話をする」と泣いて言ってくれたときも、薫子は自分以外にも娘のことを信じていてくれている存在がいたことに安堵しているように見えました。そして、この瞬間はじめて薫子は娘の死を受け入れる準備ができたようでした。

 

自分を理解をしてくれる人?信じてくれる人?一緒に闘ってくれる人?

 

正確にはどういっていいのかわかりませんが、そういう人の存在や言葉というのが必要なんだなぁと思いました。答えのないテーマなのに各々の意見を母親ひとりに押し付けてくるのは違うようなぁと。

 

その点をふまえて、娘の死を「プール事故に遭った日」「脳死判定された日」「臓器提供を終えた日」そして、薫子だけにわかった「娘が枕元に立った日」どれにするかは、人それぞれでいいのだと思います。

 

個人的に娘のためにここまで狂えた母親は強いと思いました。結局は母親にお任せな法律がズルいなぁとも。

 

今まで何度考えても、脳死=人の死とは思えなかった私ですが、ちょっとだけ「死」と受け入れられた本でした。

 

とても重く、考えても無力なテーマですが、読んで損なしなのでオススメです。

 

映画版もあるようなので、気になる方は両方チェックしてみてくださいね!

 

 

以上、『人魚の眠る家』のレビューでした!