今回は読後感サイアクな小説を3冊ご紹介します。読んだ後は疲れるかもしれません・・。しかし不快な気持ちを乗り越えて、斜めから作品を読むことで、色々と考えさせられることもあります。人の心の醜さや脆さに向き合いたい人にオススメです。

 

 

「さまよう刃」東野圭吾

まずはコチラ
 
映像化された作品でもあるため、ご存知の方も多いと思いますが、聞いたことも見たこともねーぞという方のために一応あらすじを載せておきます↓
 
 

内容
長峰の一人娘・絵摩の死体が荒川から発見された。花火大会の帰りに、未成年の少年グループによって蹂躪された末の遺棄だった。謎の密告電話によって犯人を知った長峰は、突き動かされるように娘の復讐に乗り出した。犯人の一人を殺害し、さらに逃走する父親を、警察とマスコミが追う。正義とは何か。誰が犯人を裁くのか。世論を巻き込み、事件は予想外の結末を迎える―。重く哀しいテーマに挑んだ、心を揺さぶる傑作長編。(「BOOK」データベースより)

 

 

コンクリ事件を想像するようなエグイ一冊です。物語は娘を少年グループにレイプの末殺された父親が、法のかわりに復讐をする。一言で要約してしまえばそれまでなんですが、問題はなぜそんな事態になってしまったのかを考えることです。従って感情的な人にはあまり読むことをオススメしません。加害者、被害者どちらかの気持ちに持っていかれるのではなく、「法」について考える一冊になるかと思います。

 

 

少年法は被害者のためにあるわけでも、犯罪防止のためにあるわけでもない。少年は過ちを犯すという前提のもと、そんな彼等を救済するためだけに存在するのだ。そこには被害者の悲しみや悔しさは反映されておらず、実状を無視した、絵空事の道徳観だけがある。

 

(中略)

 

捜査がどの程度進んでいるのか、全く情報が入ってこないのだ。怪しい車が目撃された件にしても、ニュースで見なければ未だ知らないところだった。それについてどの程度の新事実が掴めたのかさえ、何ひとつ教えてはくれない。

 

(中略)

 

犯人逮捕に繋がったとしても、詳しい経緯などを説明してくれないだろう。その犯人に会えるかどうかも怪しい。そして何がどうなっているのかもわからぬまま裁判となり、遺族としてはまるで理解できない理由で、犯人が大した罪に問われなかったりするのだ。(P57~58)

 

警察が守ろうとしているのは法律のほうだ。法律が傷つけられるのを防ぐために、必死になってかけずり回っている。ではその法律は絶対に正しいものなのか。絶対に正しいものなら、なぜ頻繁に改正が行われる?法律は完璧じゃない。その完璧なものを守るためなら、警察は何をしてもいいのか。人間の心を踏みにじってもいいのか」(P360)

 

 

被害者は加害者が更生するためのステップではありません。しかし、この部分を無視している限りは、何をもって償いとしているのかもよくわからず、それに憤った人間が第二の事件を生んでしまう可能性すらあるのではないでしょうか。また、世間が加害者を情報リンチする背景には、個人的なストレス解消以外に、自分たちが犯人を咎めることでしか被害者を守る方法はないという法律への拒否感があるのだと思います。こうなるともはや全員が加害者であり、被害者になってしまいます。そうしたとき、一体何が「正義」になるのでしょう?

 

本書でもラストに「正義」とは何なのか、非常に考えさせられることがあります。

 

私がこう言うと、被害者に寄り添っているヤツだとか、加害者の背景も知るべきだとか思われるかもしれませんが、すみません、どちらかと言うと、そこまで傾きがないからこそ「人」よりも、「法律」に意識がいくのです。

 

結局は「法」が「社会」をつくっています。加害者と被害者をつくらないためにも、再犯しないためにも、法律や刑務所、少年院、教育、医療のあり方や連携を改善するのが先なんじゃない?と思うわけで。

 

確かにセンセーショナルな文だったり、語りが上手い文には説得力がありますが、そこを通った上でも少年法には穴があると思います。(犯罪と限らず法律とは改正を重ねるものだと思ってます)少年法が「少年だから大した罪にはにならない」と解釈されては、宗教のないこの国で、世間の目を欺く人たちに、どうストップをかけられるのか非常に難しいところです。

年齢関係なしに、本人が今後の人生をどう正しく進めるか。そこは本当に重視したいところです。犯罪の芽が出かかっているうちに、摘み取れることが一番なんですがね・・・。ただ、ここにも最近の世間の声には偏りが出かかっていてオソロシイものがあります。

 

ちょっと注意したいのが、劣悪な生育環境や精神疾患だけが犯罪者をつくるすべてではないということ。最近は昔だったら絶対に手に入らなかったような情報が簡単に知れるために、裁判ではそれらを言い訳に利用する人も増えています。むしろ情報がなかった時代にこそ、こういうものが原因で理解されずにいた加害者のほうが多かったのでは?

 

たとえばあの有名な漫画「ブラックジャックによろしく」でも、精神病棟の患者たちが病気を理由に世間から犯罪者予備軍として恐れられ、社会復帰に苦しむシーンがありました。しかし、それはマスコミが作り上げたイメージであり、実際は精神疾患のある者よりも、健康に何の問題もない人間が犯罪を犯す割合のほうが圧倒的に多かったのです。むしろ、精神疾患を抱えた状態では、犯罪を犯す元気すらありませんでした。

 

犯罪とは、もとを辿れば社会が生み出したものでもあります。罪とは程遠い”普通の人”でも社会的弱者になった瞬間から、”社会”から殺され、次は”社会”に復讐しようとします。社会という枠を超えて、国という単位で犯罪を見て見ると、社会観というのがとても残酷に表れているのがわかります。仮にもし、この小説に出て来た犯人が実は外国籍だったりしたら、読者も社会の問題だ!(日本から追い出せなど)と、また違った印象や考えを持つのかなとも思いました。

 

もちろん社会からの孤立がすべての原因になるわけでもありません。人間関係からの孤立、家族からの孤立、経済からの孤立、モラルからの孤立、病気からの孤立・・など多くの要因が考えられます。くどいようですが、孤立だけが原因でもありません。何でもかんでも環境や社会のせいにしてしまうのは論点をすり替え、冷静な判断を見失ってしまうことにも繋がります。事件とは一つの要因だけで起こるのではなく、多くの要因が組み合わさってできていると見ることが、予防策を考える上でも鍵になってきます。

 

私が危惧するのは、何か大きくてもっともらしい内容が広まると、長い間それだけが正解だと傾いてしまうことです。しかし、それらは時代の変化とともに読み解く必要があり、常に中間地点であろうとする努力が試されます。自分は大丈夫と思っても知らずに都合の良い情報を取り入れがちなのが情報社会の弊害だと思うので、私も気をつけたいところです。

 

 

DVD

 

 

 

「未来」湊かなえ

お次はコチラ
 

 

湊かなえさんの「未来」です。見てください。この卒業アルバムのような表紙のデザインからしてイヤーな予感がしませんか。個人的に湊さんのイヤミスシリーズの中でも、読んでいて本当に不快な内容でした。正直2回目はナイ。

 

ある日、十歳の章子のもとに「大人の章子」から未来の手紙が届きます。そこには現在の辛く悲しい生活から未来では輝かしく幸せに生きる自分の姿が書かれていました。意地悪なクラスメートに心の病気を患った母親、さらに生活のすべてを支えてくれていた父親の死。たとえどんな困難があっても、章子は手紙に綴られた明るい言葉だけを信じ、頑張ってきました。

 

しかし、章子に待っていた未来はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか・・。虐め、DV、父娘相姦、ストーカー、親殺し、放火、自殺、AV出演強要。ページをすすめるにつれ、お約束の展開になり、不安になってきます。ですが、友情には希望を見いだせる話になっています。

 

 

困った時はよろしくお願いしますと、周囲の人達と仲良くする事も大切な備えなのではないでしょうか。さんざん他人の悪口を言っていた人を、助けてあげようと思いますか?元気な事、平おんな暮らしを送る事。それらは、当たり前の事ではありません。だれだって、何かしらの困った状きょうにおちいる可能性があります。そんな時助けてくれるのが、これまで口にして来た、ありがとう、や、よろしくお願いします、といった言葉じゃないでしょうか。これらの言葉は貯金できます。おはよう、や、こんにちは、でもいいのです。どうか、みんな、今年は、友達や家の人、町の人達に、これらの言葉をたくさんかけて、貯金を増やしてください」(P81)

 

 

狂った教師たちも登場する中で、ある先生が言ったこの言葉は良かったです。章子が「大人章子の(言葉の)貯金はいくらありますか?」と問いかけるシーンもグッときましたね。本書では主人公の章子と同様に、章子の担任篠宮のエピソードも印象に残ります。

 

篠宮は不幸な生い立ちから、かわいそうな生徒にばかりついつい目がいってしまいます。そのせいか、クラス代表で将来の夢(作文)を発表してくれる子を選考する際にも、「公務員」なんて書いてしまうような文章が上手く、優等生面した子よりも、多少文章は下手でも「宇宙飛行士」や「サッカー選手」と語るような子どもらしい子を評価しました。

 

実をいうと、子どもが子どもらしくいられることは何よりも幸せなことあり、そうでない子は逆に子どもらしくいさせてもらえない子である場合が多いのです。篠宮自身も幼少期は後者のように「公務員」としか語れない子でした。それなのに、いざ自分が大人になった時にはそこに気づくことができず、ひとりの生徒のモンスター化を食い止めることができませんでした。

 

まぁ、その生徒を直接狂わせたのは両親なんですが、父親が医師というのもあり、家庭内の不幸をわりと理解のある担任からも見逃されてしまった存在だったんですね。そこで篠宮が「他人を自分のものさしで測ってはいけないよ」と、過去に自分が担任から言われた言葉を思い出すシーンがあったりします。本書ではこれが何てことのないシーンのように描かれていますが、ここに小さな希望があったりします。その点では、まるで希望のない「さまよう刃」より、まだ救いはあるのかもしれません。

 

 

「代償」伊岡瞬

この三冊の中ではダントツで胸クソ悪いのがコチラ
 
何度「もう無理」と思ったか・・。主人公がやられっぱなしで終始イライラします。(こちらの作品も映像化されています)
 
 
BOOKデータベースより
平凡な家庭で育った小学生の圭輔は、ある不幸な事故をきっかけに、遠縁で同学年の達也と暮らすことに。運命は一転、過酷な思春期を送った圭輔は、長じて弁護士となるが、逮捕された達也から依頼が舞い込む。「私は無実の罪で逮捕されました。どうか、お願いです。私の弁護をしていただけないでしょうか」。裁判を弄ぶ達也、巧妙に仕組まれた罠。追いつめられた圭輔は、この悪に対峙できるのか?衝撃と断罪のサスペンスミステリ。
 

 

圭輔と達也は同い年のはとこ。この達也という少年が遊びに来た日には必ず金目のものがなくなります。泊りに来た日には、母のお風呂を覗いたり、下着を盗もうとしたり、カレーに睡眠薬を盛ったりと恐ろしいことをたくさんします。

 

ここまではまだ悪ガキの範疇でしょうか。確かに達也の生い立ちは不幸なので、彼がこんなことをするようになったのには家庭の事情も関係しているでしょう。ただ、達也は賢い。ずる賢いとも違う、異常な計算高さを持っていて、誰の事でも欺ける能力を持っているといってもいいくらいなんです。

 

そんな達也は小学生の頃、圭輔の家を放火し、両親を殺してしまいます。生き残った圭輔は達也の家に引き取られることになるのですが・・。(このとき警察は達也に疑いを向け、証拠もあったものの、相手が小学生だったのでスルーしました

 

本書には書かれていませんが、あの火事は計画殺人だったのでは?と思うんですよね。初めから圭輔の家の財産を狙っての犯行で、だから両親の死後に「はとこ」なんていう立場からにも関わらず、達也の家は圭輔を引き取ったのではないかと思っています。

 

圭輔が達也の悪人ぶりを本当の意味で知ることになるのは、達也の家に来てからになるのですが、これがまあヒドすぎて。ここには書けません。コイツ普通のワルではないなってなってきます。多分、塀の中でもナンバーワンになれるくらいの危うさを持っています。もう狂気。

 

一番恐ろしいのは、達也が絶対に自分の手を汚さないところですね。達也は他人をマインドコントロールして犯罪者に仕立てるのを娯楽にしており、変な言い方ですが、犯罪に関しては天才的な才能を持っています。この言葉を使っていいのか迷いますが、サイコパスなんじゃないかな?

 

達也との会話のやり取りは、私も予測不能なことばかりで、どんな方向からも論破されそうな恐ろしささえありました。裁判すら自分のステージにしてしまうほどなんです。いったい何人を間接的に殺したの?という。読者にも達也の犯した悪事すべてを把握することはできません。

 

・・っと少しあらすじが長くなってしまいましたが、本書で言いたいのは達也の罪ではなく、裁判のことなんです。達也は大人になっても相変わらず罪を重ね、ついには逮捕されてしまうのですが、その際に弁護士になった圭輔に弁護して欲しいと依頼します。達也はもとから法スレスレのラインを楽しむようなところがあり、裁判というものが訴え方によっては有罪にも無罪にもなるとわかっていました。

 

アリバイがあるのにないことにしたり、証拠がないのに偽装したりと法律を思うままに操っていく達也。目的のためなら刑罰も恐れず刑務所に入り、目的を果たしたら出所するなんてことも自由自在にやってのけます。そして圭輔は弁護士でありながらも、脆さゆえに達也の嘘に乗っかってしまうのです。

 

達也は自身を加害者ではなく、被害者だと思っているのでしょう。自分は被害者だと周囲に訴えかける術にとても長けています。どんなに達也が間違っていても彼のアイデアひとつで自分に罪を擦り付けられ、悪者になってしまう。もはや法律を悪用して逃げ切る達也を裁く者などいないのです。

 

法律や裁判が真実を導くものではなく、罪から逃れる手段になってしまったこの話。達也にとって法律は犯罪への抑止力ではなく、利用するものになっていました。

 

しかし現実にも達也のような人間は存在しています。タイトルこそ「代償」ですが、そこに代償はありません。

 

 

三冊の感想

裁判や少年法のあり方について、考えさせられる内容でした。

 

先日、何かと批判の多い古市さんが「逮捕者と被害者の実名報道」に疑問を呈していました。実はこれには私も賛成です。まず被害者の実名報道、これって必要なんでしょうか。(遺族が望んだ場合は別ですけどね)

 

よく少年のプライバシーや精神を守るといいますが、それは年齢や立場に関係なく被害者にも同じことが言えます。

 

被害者だってプライバシーが侵害されたり、作業的で苦痛な裁判を乗り越えなければならず、おまけに加害者は刑務所を出た瞬間自動的に償ったことになるのですからね。法律が勝手に過去の事例に沿って刑を決めたのであって、当の被害者は自分のことなのに、納得いかぬまま、さらし者になって終わるわけです。このように被害者でありながら、裁判やマスコミによって二重にダメージをくらうことは無視できません。

 

来年4月1日から施行される改正少年法では、18、19歳も成人と同じ刑事責任を問うことになり、起訴されれば実名報道が可能になるそうです。しかし、私は大人の逮捕者であっても誤認逮捕や冤罪の可能性を含めて、実名報道は判決が出るまで避けたほうがいいように思います。

 

被害者の実名非公開、こういった小さな取り組みから、少しでも世間の怒り(情報リンチも含め)を鎮めることにならないでしょうか。

 

本来は気弱な子、流されやすい子、未熟な子の未来を守るはずだった少年法。しかし矯正教育が上手く機能しないことが原因で、再犯率が高まっていることが近年でも話題になり、「非行少年」にも同情や理解を示すような空気もできています。

 

事件の直接の被害者でない人は「矯正教育が上手くいき、再犯もせず、真人間になったのならいいんじゃない?」と思うでしょうね。確かに再犯しないことは大事です。でも、それは軽犯罪のみに言っているかたがほとんどではないかと思います。

 

「反省させると犯罪者になります」が流行っていた頃、少年院出の人がやっているブログでこんなことが書いてありました。「ぶっちゃけ反省なんてしていないけれど、再犯してないからOKでしょ」

 

私は被害者経験がないので、遠くから見ている分には、この人が言うように「再犯しないこと」をゴールに教育するのはいいことだと思っていました。(精神論ではなく行動論で更生させるシステム)再犯させないための効率的な指導法も必要ですよね。実際に懲罰は無意味ですし。でもこの言葉、被害者は聞きたくないだろうな。肯定意見を見てやり切れないだろうな。こういうところから「さまよう刃」は生まれるのかな。情報が溢れすぎると、受け止め方もそれぞれで難しいですね。

 

犯罪を減らすためには加害者の動機を知ることが大事だと言います。これはのちに紹介予定の本にも書かれていたことなんですが、加害者の気持ちが世間に流れてしまうことで、それを崇拝したり、間違ったかたちで受け止めてしまう人(刑務所グルーピー)がいる危険や二次被害の恐れという問題もあります。本来の意図とはかけ離れ、悪い意味で解釈されてしまうことを思うと、「伝える」ということにも、より技術や専門性が必要になってくるのでしょうね。

 

ちなみにもう一人のルポを読んだら、その人は「反省させてもさせなくても再犯はする」といっていました。どんなプログラムを組んでも変わらないんだと。生に執着のない人間には死が抑制にもなりません。この人も達也もそんな感じなのかな。この場合、刑罰も法律も無意味な状態なのでかなり危険です。

 

個人的に少年法をなくせとは思いません。しかし性犯罪などの被害者が訴えにくい事件を悪用しているような人物や、凶悪な事件を見ていると、世間が理解ある風な態度を取るには限界があると思います。

 

そういう事件には、刑期の期間を成人に近づけるなど、バランスがほしいですね。被害感情への配慮や罪の償いに関しても成人と同じようにさせるべきでは?法が償うんじゃねーぞ、お前が償うんだぞ、という意識は持ってもらわないと。再犯率の高いような中毒性を持った人物には、医療施設で治療を受けることも必要です。社会復帰にあたっては、これまで受けて来なかったきちんとした教育を受けられる支援も加えてほしいです。やはり準備が整っていないのに、カタチだけで刑期を終えるのは危険ですよね。

 

戦争やジェノサイド。今、この世界で行われている国と国との殺人にいったいどれだけの人が心を痛めているかといえば、そんなに多くないのが現実で、人は自分が思うよりも殺人に無関心で冷たかったりします。また、私たちの「死刑観」の中にも”殺人”は存在しています。そして罪を犯す、犯さないに限らず、実は自分の中にも小さく”殺し”というものと繋がりを持って生活しているのです。

 

法がなければ本能で他人を精神的にも肉体的にも抹殺してしまう危うさ。人間にはそのようなところがあるのかもしれません。
 

自分が被害者になった時、法律には守られない。不服なら、個人で復讐するしかない。三冊読んだ答えがそれで、なかなか危ない世界に身を置いているのだと実感しました。そして人は「憎しみ」から簡単に犯罪者にもなれるのだと思いました。気をつけましょうね。普通の人でも人殺しちゃうんですよ。事件とは特別な人だけが起こすことではないと思って、誠実に生きないとダメですね。人間は脆いから。

 

 

以上、胸クソ悪くなる小説3選でした!