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新未来神学 「マリア」 

 

マタイによる福音書/ 13章 14節~17節

イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

 /見るには見るが、決して認めない。 

 

この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、

 /耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。』 

 

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。

あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 

 

はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、

あなたがたが見ているものを見たかったが、

 見ることができず、あなたがたが聞いているものを

聞きたかったが、聞けなかったのである。」 

 

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神様の、み心は摂理に現れます、しかし普通、人は

それが実現してからでないと神様の、み心がわかりません。

 

ですから、その助けに預言者が送られ、

あらかじめ神様の言葉を預かって民に告げ知らせます

 

でも、預言者はすべてを聞いているわけではない、それぞれの役割の範囲でしか受け取れない事がある。

 

 

しかし、約2000年前に、イエスさまが現れました、

イエスさまは神様自身ですから、最終的な啓示を与えることができます。

 

イエス様以前の預言者たちでさえ、それぞれの時代にどんなに、望んでも、願っても、聞くことも見る事もできなかった神様の御業を、

イエスさまの弟子たちは

直に見聞きできました。

 

だから、あなたたちは幸いだ、とイエス様はおっしゃっていたのです。

 

加えてイエスさまと同時代に生きてイエスさまを 

少しでも見聞きできた人は多かった、少しであっても 

過去の人はどんなに正しい人でも既に帰天しているから、

一秒も見聞きできなかった。

 

それに比べれば、同時期に生きた人は、幸いとしか言い得ない。

 

ただし、頑なな人間には聞こえてはいるが、

聞いていないので悟ることができません。

 

イエス様はそれまでの 摂理の神秘や秘密を明かしていたのに、です。

 

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さて、

 

ここで以前の記事です。

 

改訂部分を含んで、再掲載します。

 

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従来といいますか、現代でも当然の真理として

カトリックでの教えとして公布されています・

受胎告知。

 

 

 

その内容は、乙女マリアに天使が現れて聖霊に覆われキリストを妊娠しますという内容でした。

 

だから、天使が出現した後に受胎するというのが、いままで、、いや 今の教理・公理です。

 

 

 

プロテスタントは無原罪の御宿りは否定していますが、受胎告知の順についてはカトリックと同様な理解です。

 

 

 

私はそうした今までの教えを全否定はしませんが、今まで知られていなかった事や謎(神秘)だったことをここに補足します。

 

 

 

マリアの受胎に関連して、ユダヤのアロン家の祭司ザカリアにも天使が現れ、子を授かるという宣言を受けたことも言及します。

 

 

聖書をよく読んでみますと、天使による受胎告知は妊娠後にあった出来事であった事が、わかるのです。

 

更には処女のままで受胎したとする教えも実は異なる真実がある、、と私は指摘しました。 

聞いていた みなさんは衝撃だったと思います。

 

 

処女懐妊という教えは、後付けでつくられた神学で、最古の写本には処女のような語句は無いと現在明かされました。

 

自分の頭で考えないで 既成の教えを鵜呑みにしていると気づくことも気づきません。

 

 

 

 神様の聖なる、み言葉の書である聖書を現代は自由に読めます。昔ならできなかった、、。

昔、カトリックは翻訳する事自体を禁止した時代があったのです。

 

翻訳書を持っているだけも処刑されました、。

 

今はどんな人でも読もうと思えばいつでも誰でも読めます。

 

そうなのだから、、、せっかく 読むのだから、真実を知った方がいいでしょう?。

 

私は その手助けをするだけ。。

 

教派の教えを超えて、、聖書が語るそのままを、みなさんに 届ける。

 

 

 

ここで、昨年の記事をご覧ください、、と

 

言うところですけど、

 

ここに再度、記しておきます、そして それに多少書き加えるので、前のより最新記事を含んでいます。

 

ですので、前に読んだ方も新発見があるでしょう。

 

 

 

 乙女マリアは、み使いのいざないによって、

キリスト・イエス様を受胎し、死ぬ覚悟でこの世に降誕させました。

 

 

 

 聖書を読みます、その前にここの登場人物を紹介しておきましょう。

 

祭司ザカリア、、その妻でアロン家出身のエリザベツ、

 

後のイエス様の母になるマリア。

 

ザカリアとエリザベツの

長男で後の洗礼者ヨハネ、、と 天使ガブリエル、、、

 

エリザべツとマリアは親族だと聖書は記録しました。。

 

 

ルカ書です。 聖句と聖句の間に私の解説が入ります。

 

ルカによる福音書/ 1章 5節~80節、。

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 

 

 

 祭司たちは24の組に分かれていました、そしてアビヤ組はくじによって8番目の組でした。それは歴代誌に書いてあります。

 

 歴代誌上/ 24章 4節

・・・エルアザルの子らは十六人の家系の長に従って、

イタマルの子らは八人の家系の長に従って組に分けた。(16と8で24組です)

 歴代誌上/ 24章 10節

 第七のくじはハコツに、第八のくじはアビヤに、

 

 

 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 

 

祭司の家とはいえ、非の打ちどころがないとまで聖書が

言及するためには 並大抵の信仰生活ではなかったのです。

 

 

しかし、エリサベトは不妊の女性だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 

 

さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 

 

祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 

 

 

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神殿でお香を焚くのは半年に一度で期間はその都度、1週間です。

それを24の組で順番にするのです、

 年間では二度で、くじにより役目の祭司が決まるのです、一つの組にはそれぞれ千人ていどの祭司が居たようですから、その香焚きの役目につくのはめったに無いことで、当たれば名誉な事でした。

 

一度くじに当たれば、自分の組の祭司全員がくじに当たらないと2回目の香焚きの役目は与えられなかったのです。ですので、この役目は一生に一度有るか、無いかの仕事でした。

 

 

香を焚いている間、大勢の民衆が皆、外で祈っていた。 

すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 

ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に

襲われた。 

 

 

はい、ここでザカリアは天使を見て恐れたと記録されました、それはおかしいことです。宣託を受けるために香焚きをしているので、本来は 神様か、み使いが現れたら喜ぶはずなのです。

 

但し、この時、神殿にはモーセが造った掟の箱は無かったのです。掟の箱は至聖所に安置されているはずでしたが、至聖所には大祭司しか年に一度入れるのみだったので、大祭司の職位では無い祭司ザカリアは至聖所には入っていません。

 

ですから、本来箱の上部に香が流れて、それを雲とみなして出現するはずの

 

創造の神様は来ないのです。至聖所に入れないから平祭司は聖櫃が無い事も

 

知らないまま、、。至聖所を隔てる幕の奥から聞こえるはずの神様の言葉をじっと待つのみの仕事。聞いたらそれを民に宣託として発表する決まりです。 しかし 聖櫃はその時には 既に無いのだから み言葉は聞こえないまま

 

終わるはずだったのです。今までの祭司はどうしたか? 聞いたふりをして 自分で想像した宣託をした祭司はしていたでしょう。 大祭司も同じこと、、というか、大祭司だけは、聖櫃が無い事はわかっていた。

 

さて、ザカリア、、。

 

一生に一度あるかないかのお香焚きのお役目なので、何も神様からの宣託を得られなければ恥で終わるのです。それが 逆に恐れたのですから、なにか、不都合な事がザカリアにあるのでした。

 

 

それは、この記事で後で述べるマリアとの事です。

 

罪ではないにしろ、、、。 心にひっかかる何かがあったから、、もしかしたら天使にそのことを指摘されるのではないか?と不安に思っていたのです。

 

詳細は後に記していますが、思いがけずマリアとの事ではなく妻エリザベツについての宣託でした、、。

 

 

 

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 

 

 

ユダヤでは慣習で子供の名は親が決めるのです、、

ヨハネの名は実質神様が決めました、イサク、 ソロモンもそうだったし、イエス様もそうでした、、古くは、一旦人の親が付けた名を後年神様によって改名されたケースもありました。アブラムからアブラハムへ、、ヤコヴからイスラエルへ、、。改名した、その意味は神様のものという事です(神側)。名をつけると言う事は親だと言う事です。

 

 

その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。

 多くの人もその誕生を喜ぶ。 

 

 

彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 

 

 

葡萄酒類を飲まないのはナジル人です。ナジル人とは、禁欲的生活をして特別な請願をしている人で、ヨハネはナジル人として生まれながらに神様によって定められ、そのように育て教育しなさいとのことです。そして胎中の時から聖霊によって聖別されたのですから無原罪で生まれたのです。サムソンもそうでした、、また、他の預言者に似た事がありました、エレミアがそうです。

 

エレミヤ書/ 1章 5節

 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」

 

 時として使命者に神様は介入していた例です。

 

彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」 

 

エリヤは北イスラエルのアハブ王(bc918~897)の時代に生きた大預言者です。王の造ったバアル神殿に警告を与えていました。

 

ヨハネはエリヤそのものでは無いが、エリヤと同等以上の霊と力を持って、ユダヤ人をキリストまで導く役目でした。つまりそれは、エリヤが現れたら待望のキリストが出現するということなので、ユダヤの民はしきりにヨハネにあなたはエリヤなのですか?と尋ねました。

 使命者としてヨハネはエリヤだったとイエス様が証言しました。

 

 

そこで、ザカリアは天使に言った。

 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 

 

 

 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。 

 

天使が自分の名をガブリエルだと告げました。

 聖書ではめずらしいことです。

 正典聖書では二者しか天使の固有名詞は記録されていません、もう一者はミカエルです。

 

儀典エノクの書第一には66者の天使の固有名が記載されています。

ガブリエルは預言者ダニエル時代にも出現しました。

ダニエルの幻に現れ、後でダニエルに幻の意味を教えます。

 

 

あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 

 

民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 

ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。 

 

 

くじで選ばれた祭司は香を焚いたあと神様の宣託を受けます、そしてそれを民の前で述べて、祈り終えて任務は終了です。でも 口が利けない状態にされたので、民に神様の神託を述べること、それができませんでした。

 神殿で有ったことは子供が授かるよ、ということで、メシア降誕前の使命者が出現するということでした。 それは本来、ザカリアやユダヤの民にとって良いしらせでしたが、、、、もし、話ができたままであったら、神殿の宣託を述べなければならないので、公の場で民に、ありのままをザカリアは話したはずです。ザカリアは正しい人なので祭儀の義務を全うしたはずです。

そうすると、、どうなったでしょうか?

 

 権力者も知る事となり、ヨハネもイエス様も殺害されることになるのです。

 実際、イエス様が降誕した時、それを知った時の王ヘロデはイエスさまを探し出して殺そうとしました。

 

だから、口がきけなくなったのは、神様の守りだったのです。つまり、、わざとそのようにしていた。

 

ここで、、。


サタンはこの時ザカリアの小さな不信仰を訴えたでしょう、天使の神託を信じなかった、、祭司で有りながら、。と。その訴えを神様は利用してザカリアの口を封じたのでした

。 メシアを敵視するはずのサタンは自らの訴えで逆に、イエスさまを守る事になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。 

 

その後、妻エリサベツは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。 

 

「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」 

 

 

 

恥と書いています、、夫婦で30年以上だと思います、

その間どれだけ子が無いばかりに恥ずかしくも悲しい思いをしていたか、、さらっと聖書はかいていますけど、

 耐えに耐えていた事をここで理解できます。

 

男性はまだしも、女性はその当時はたいへんな心労だったはずです、

 

親族からも 跡継ぎはまだか? まだか?と言われつづけたことでしょう。

 

アロン家の祭司の家に子供、、特に跡継ぎになる男子が生まれないと

たいへん困るのです。さいわいにして 神様の哀れみによって、

摂理を伴い、妻エリザベツはみごもりました。

 

聖書の記録に妻エリザベトが身ごもったことで親族も喜んだとわざわざ

記録されました。

 

そして、、、、。

その六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 

 

 

 

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 

 

 

 天使がマリアの所に来たのは6カ月目とあります、けれども

 マリアはエリザベツ懐妊6カ月目の前にザカリアの元に行っていたはずです。

 

だからこの後の天使の言葉、、おめでとうの言葉、

 神から恵みをいただいた、とあります、いただくであろう、ではなく過去形で記録されています。

 

マリアはすでに受胎していたのです!

だがしかし、その子がイエスと言う名でメシアになるとは

 まだわかっていなかったのです。

そのことを天使が告げたので驚いた、、。

 

男を知らないと言ったのは、いいなずけが居たし、

 婚約期間中なのでまだ男を知らないと、建前を言うしかなかったからなのです。

 

考え込んだのはこころあたりがあるからです。

なければ 考える事もない。

 

しかも、後の聖句で、、。

 天使は言います。

 

 

 「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。」

エリザベトも、、「も」なので両者共にと言う意味です。

そして 「身ごもっている。」なので 現在進行形(中)を表しています。二人とも妊娠中という意味です。

 

 

 

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 

 

マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 

 

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 

 

恵みをいただいた。 これも過去形です、すでに恵みは

 マリアの胎にあるのです。

 

 

 

天使はザカリアに言った事とおなじように恐れることは無いと言いました。

 

 

 

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 

 

その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 

 

彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 

 

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 

 

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 

 

と、、こういう受け答えをするからには、天使との会話が

 すでに事が終わっている、、すでに有ったことだという前提がなければ、このようなマリアの答えにはなりません。だから、、重ねて指摘しますけれど、マリアは既に一度ザカリアの家に行っており 3か月ていど滞在して受胎後、帰宅していたのです。

 

 

 

 

マタイ書によると、天使がヨセフに現れています。

 

マタイによる福音書/ 1章 18節

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。

 

母マリアはヨセフと婚約していたが、

 二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 

 

婚約中に受胎していたのをヨセフもマリアも認識していたと聖書は証言しています。

 

 

 

マタイによる福音書/ 1章 20節

このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 

 

 

 

天使出現は受胎後です。

 

 

マタイ書のこの場面では 明らかに天使が夢に現れた時には受胎はすでに行われていたのがわかります。

 

イエスさまの母マリアの時、天使が現れたのも受胎済みの時点なのです。

 

 

ここ重要です。

 

母マリアが既に受胎していた摂理的なもう一つの理由があります。

 

創世記でエバは 神様から戒めを破ると死ぬといわれた戒めを破りました。「善悪知るの木から取って食べてはいけない、食べると死ぬ。」です。

 

それは、蛇=サタンは食べても死なないと言うけれど

 

神様は死ぬという、もしかして死ぬかもしれないけれど、

 

死んでも良いと覚悟して戒めを破ったのです、

だから使命者のマリアも死んで良いという死を超えた信仰が必要でした、。妊娠してもし罪に問われたとしても良いという覚悟が必要でした。

マリアの場合は モーセの律法が死を意識させます。姦淫の罪は石を投げられる石打ちの刑であり、ほぼ 被告人は死にます。だから天使の

お告げがあった上で受胎するとしたら神様の

保障が有ったことになり、死ぬかもしれない

という死を超えた信仰では無くなります、

しかもそれでは神様の関与が先になり人の

自由意志の侵害になるので、悪魔の訴えの対象になってしまいます。

 

だから、マリアの妊娠は自己責任においてでないと摂理に違反します。

 

ですから、実際は、妊娠した後にマリアは天使の祝福をうけたのです。祝福はマリアにとっては救いでした、

 

受胎して死ぬかもしれないと思っていた矢先、み使いが来て安心しなさいと祝福してくれたからです。

 

マリアは神様にとてもとても感謝したのでしょう。

 

後で、マリアの賛歌といわれる 賛美をします。

 

 

 

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 

 

あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 

 

神にできないことは何一つない。」 

 

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 

 

この身に成りますように。とは受胎ではなく、胎にいる子が天使が祝福したような存在になりますように、と言う事です。

 

 

 

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 

 

不妊の女性だったエリザベツがほんとうに妊娠しているのか?確認しに行ったのです。ザカリア家からもお呼びがかかったのでしょう、、急いでと、かかれました。

エリザベツが妊娠していれば、マリアの子は自身で育てることになるからです。

 

 

 

そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 

 

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 

 

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 

あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 

 

 

 

この時マリアが受胎していなければ、上の聖句は意味不明になります。

 

そうでしょう?冷静に思考すればそれは明らかなことです。

 

 

 

 

マリアもエリザベツも現実の中に生きて存在した人ですから、現実的に思考しましょう。

 

 

聖書は特に記録しませんでいたが、実際は既に受胎していたのですから、

 

実際に受胎していたなら、問題ない聖句となります。念のため言いました。

 

 

 

 

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 

 

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 

 

身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 

 

力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 

 

 

 

 

力ある方が、とは、後で記す、ザカリアの事ではありません、神霊です。

 

 

 

第二のアダムであるイエス様だからこそ、第一のアダムと同様神様でありながらも

 

マリアの胎で肉をまといその直後、聖霊の関与があったのです、それをこの聖句は

 

言っています。人で生まれるときの原則はイエスさまであっても曲げられていません。

 

 

 

その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 

 

 

 

この前後の聖句はマリアの賛歌といわれるところです。

マリアは過去形で語っていますから、やはりここでも

既にことは有ったとことを示唆しています。

 

 

 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 

権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 

飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 

その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 

 

 

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 

 

 

 

 

この三か月の滞在の記述は最初に滞在した期間を書いているのです、エリザベツ妊娠6ヶ月の前です。

 

聖書記者は資料の配置をちょっとミスしたのです。記者はまさかマリアがザカリアの子を孕んでいたとは知らなかったからです。そうでなければ聖書の時間経過記録は矛盾となります。

 

 

 

 

さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。 

近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。 

 

八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。 

 

この聖句でユダヤでは子供が生まれた八日目に命名するのがわかります。

 

 

 

ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。 

 

しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。 

 

父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。 

 

すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。 

 

やっとザカリアは口がきけるようになりました。

これは、、神殿のお香焚きの時から言葉を一時的に奪われたのですが、良かったのでしょうか?悪いことだったのでしょうか?

 上に書いたようにこれは神様の摂理の内です。

 二人の聖者を守るため、でした。

 

 

 

近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 

 

 

 

都ではなく山里なのです。都には悪王ヘロデがいます。噂になったと当初、、からしばらくは都までは知られていなかったと読めます。

 

 

 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。 

 

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 

 

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 

 

我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 

 

昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 

 

それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 

 

主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 

 

これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 

 

敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 

 

生涯、主の御前に清く正しく。 

 

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 

 

主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 

 

これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 

 

暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 

 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。    

 以上聖句。

 

読みましたか? 久しぶりと言う方もいたでしょうか。

 

このお話では、人の都合と神さまの摂理の融合があります。もちろん人は摂理の流れを知る由もなかった。

 

神様の救いの摂理というのは、神様だけでなさるのでは

 

ありません。人と共になさるのです。アダムの子カインとアベルのときからそれは一貫しています。選ばれた義人たちに神様は儀式をさせています。

 

だからこそ、救いの最期の砦であるメシアも神様でありながら人として出現しなければならなかったのです。

 

 

 

 

 

ひとつは、祭司ザカリア家の都合です、夫婦共年を重ね

 ていました、でも後を継ぐ子供に恵まれていなかった。

 

産まれなければザカリア家は終わります、ですから

 どうしても子供がほしかったのです。

 

 

 

聖書が間違いとは言いませんけれど、

 文節の前後配置ミスはあると思っています。

この聖書記述では、聖書記者がいろいろな資料をあつめ

編纂し加えて神様の霊によって書いたのですが、

 記者自身まさか、ザカリアがイエスさまの父だとは思っていなかったので、、実際の事の配置ミスが起こったのです。だから、マリアが受胎する前に懐妊したエリザベツと家で会ったとなっています。そのへんはご理解ください。

 

 

 

子供を産めなくなるのは同じ年齢なら通常は女性が先です、、。

 祭司ザカリアにエリザベツの代理妻を見つけて跡継ぎを産んでもらうしか方法はありませんでした。

 

 

 

生まれてくる子は男子でも女子でも良かったのです。

 

女子の場合は養子で家を継げます。結果は男子でした。

 

 

 代理妻と言っても祭司の妻になるには厳しい条件がありました、、乙女・処女でなくてはいけない事とアロン家の血筋を持っていること、、健康であることです。

 条件に合う乙女がエリザベツの親族にいました。

それが マリアです。

 

 

ザカリアの家に入ったのでした。

 家に入ったという言葉を記憶しておいてください。

 

然してマリアは受胎します、。

 

 

 

でも、、エリザベツも奇跡的に懐妊しました。

 

順序として エリザベツの方が先だったのです、、。

もし、もっと懐妊が早かったら、マリアはザカリアの所には行ってはいません。

 

マリアは受胎したけれど、エリザベツも受胎していた

 ため、家に帰ります。。

 

 

 神さまはエリザベツが懐妊する事を知っていました。

その後、まだそれを確実に認識できない期間でマリアも懐妊する事を知っていた、それは摂理です、二人の聖者をこの時この地に出現させるため、、マリアにもザカリア夫婦にも、み使いをおくったのです。

 

 

 

後の二人の聖者、、イエスさまとヨハネです。

 

 

 

カインとアベルの事を思いだしましょう、二人兄弟で

父母、、アダムとエバの罪の償いの儀式をしました。

しかし兄弟のいさかいでやりとげることなく、失敗しました、。 ふたりで失敗したのだから、ふたりでやり直すのです。摂理はそうなっています。事実です。摂理の使命者、ヤコブとエソウ、、モーセとアロン、、ダビデとヨナタン、、イエスさまと洗礼者ヨハネ、、です。

 

 

だから同時期に、二人の聖者が産まれたのです。

 

 

 

それと、、カインとアベルは兄弟でした、、だから 二人の使命者は兄弟でなければなりません。

 

実際そうなっています、、ただし母が違うとかはあります。

で、、そうなら、、ここでみんなは気づくでしょう、、

 

神様の摂理がそうなら、、

イエス様とヨハネも兄弟であるはずだと、、。

そうです、、二人は異母兄弟です!

 

ヨハネの父はアロン家祭司ザカリア、母はエリザベツと言うのは聖書でそのまま記録されています、イエスさまの父もザカリアなのです、母はマリアなのは既知の通り。

 

ここで、

 

こう言う私を異端だと批判するかもしれません。

 

 

 

根拠も無くそんなことを言うな!と、、。

 

 

 

 

しかし、私ははっきりと言います。

 

 

 

私が言うのを信じなくても良いです。

 

でも、聖書が

明かした事実はだれも消せません。

 

聖書が証しています。

 

私が指摘するまで誰も気づかなかった。

 

 

 

私は言います。

あなた達は聖書を読んでいないのか?

 

 

 

あなた方は読んではいるが、悪魔に盗み取られている。

 

 

 

 

上の、ザカリアの預言の部分を読み返しなさい。

 

 

 

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した、から 現れるまで荒れ野にいた。までです。

 

 

 以上、、読んで気づきましたか?

ザカリアの預言の前半はイエス様の事で、

 

後半は洗礼者ヨハネの事を預言しています。

 

 

 

 

まだ、ピンとこない?ですか。

まだ生まれ出てもいない子供を預言しているのですよ、自分の子でなければ

 

イエス様の事をわざわざ預言するはずがありません。

この預言の最初を読み返してください。

 

 

 

 

「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。」

 

 

 

 

「父」と聖書が書いているではありませんか!

 

 

 

このザカリアの預言と言われるこの聖書箇所は、アブラハム、イサク、ヤコブ、、そのヤコブ 後のイスラエルとなった彼が、12人の子達を祝福した事と同じことでした。

 

創世記/ 49章 1節

ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。・・・・と言って子供たちを祝福し、更にはその子孫たちへの預言をしました。

 

 

父親は子にそうした祝福の言葉を与えるのです。

 

 

さて、ザカリアに話をもどします。「父・・・」と聖書が記録した聖句、、です。

 

再度言います、聖書が証しています!

 

 

誰の父でしょうか?

 

 

 父と記録したあとで、

イエス様の事とヨハネの事が あります。

 

だから、祭司ザカリアは

イエスさまとヨハネの実際の

父親なのです!

 

理解できたでしょうか?

 

 

 理屈ではわかったでしょうけど、衝撃的な事実ですから時間をかけて整理してください。

 

 

 

受胎告知が事後だったことやイエスさまの肉の父がザカリアだったことを書きました、

 

でも だからといってイエス様の神性・神聖は従来と、なんら変わりません。過去の預言者が明かした預言通りの生まれで、生涯も預言通りとなっています。

 

 

 

原則どおり聖霊が関与しました、マリアも自身の意思で死をこえる信仰をもって受胎しました、

 

けっして操り人形のようではありませんでした。自由意志による信仰で神さまに祝福をうけたのです。

 

死線を超えた自由意志による罪によって罪の子がうまれたので、自由意志による死線を超えた神様への信仰によって罪なきキリストが出現したのです。

 

 

 

 

イエス様は神さまで神聖な存在だから 処女が男性を知ることなく処女のままで受胎し生まれてきた、とした

 

神学は美しい教えだとは思います、奇跡尊重といいますか、偏重といいますか、カトリックのこの教えは、上記の記事によって、聖書が否定しました。 現代科学が処女受胎など否定するということではありません、聖書が証しているのです。合理的なことが万能とは思っていません、が、この場合の奇跡偏重は聖書が否定します。

★★

言いたくは無いけれど、外国のカトリック教会、、それも割と

大きな教会で聖体の秘跡(聖餐式)に、奇跡の仕掛けを行って

皿が浮く見せかけの奇跡を信者に見せているところが有った。

少し注意してみればそれが種も仕掛けもある事がわかるのに、、。 私からしたら、、馬鹿げている!

★★

 

 

前にもいいました、元々動物らの供え物は象徴的なものです、実物を供えなくても等価、またはそれ以上の

 

価値だと神様は見なしてくださるのです。

 

 

 

たとえば、目には目、命には命、、人を殺したら本来は等価のあがないが原則だけど憐れみによって、人が悔いていれば代わりの動物を人とみなして罪を赦すというのが古代ユダヤ・イスラエルの神殿の儀式でした。

 

 

 

罪自体は消えません、だけど 悔い改めた人には別のものをもって捧げの儀式を祭司にしてもらえば

 

罪を赦し、罪を清算したとみなしてあげる、、というのでした。

 

 

 

現代 パンとブドウ酒、、イエスさまの指定したこの聖餐儀式も象徴的な儀式であるのです。

 

カトリックは聖変化の奇跡があると主張しますが、

 

それは上でも述べたように奇跡が必要な儀式ではないのです、過去のユダヤの儀式の意味を知らないから、

 

奇跡がなければ救いは無いという教えになっているようです。

 

実際はイエスさまのお言葉どおりで、象徴的儀式なのですから、そのままで良いのです、奇跡は必要としません。聖変化はなくても赦されています。

 

それがイエス様からの契約です。

 

 

 

 

現代、

 

パンは姿を変えていますけど、、最低のアイテムであるこのふたつは絶対に省略してはいけません。

 

みなしてくれる恩寵をみずから拒否していることになります。

 

 

母マリアは、ザカリアの子を宿した時、非常に不安だったでしょう、まだ 13歳から15歳ぐらいです。今なら中学生。

 

不安な中、天使がが来て大丈夫と言ってくれました、しかもこの自分の受胎は、聖霊が関与すると言われました、神様がついてくださっていると、、それは大きな救いだったでしょう、不安も和らぎます、加えて婚約者ヨセフにも天使が夢に現れたので、ヨセフからも保護されることになりました。

 

 

 

創世記 堕落の時 エバに悪の天使サタンが関与したので、母マリアの時、神側も善の天使ガブリエルが神様と共に関与できたのです。

 

そこには、 まずは 人の自由意志が先に有った上でのことは、言うに及ばず、、なのでした。

 

 

 

 

この私の記事でイエスさまがメシアの資格がある一端を示唆しました。

 

それは メシアは王の王である、大預言者である、大祭司であるということです。

 

 

ただし、何よりも大切な事は

 

イエスさまが、神として、更に子として生まれたけれど

 

神性が備わった存在であり肉をまとって来た神様自身だったということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

父がザカリアであるので、アロン家の血筋になり大祭司の資格有りです。 王の王はユダの血筋であるのですが、母マリアは父ヨアキムがユダ族ですからイエスさまはユダの血もひいています。

 

母マリアはその母アンナがアロン家の血筋だったのでしょう。

 

 

 

古くはダビデ王の時、血統の交差によって、ダビデ自身もユダとアロンの血を受け継いでいました。

 

 

 

 

以上。