わたしとお仕事 その2 | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

 

リブログした元記事にも書いていますが

  わたしの仕事の仕方は、今のご時世からしたらかなりズレた形で

  決して褒められたやり方ではなかったのだと思っています

 

思ってはいますし

  その中に居た時には、いつまでこんなことやっているのかなぁ~と

  思っていたのも事実です

 

ただわたしの仕事への思いは

  単に”金を稼ぐ手段”ではなく・・・・これも大きな要素ではありますが

  ある意味それ以上に自己実現の場であることが大きな比重を占めていて

  というか、もっと単純に”解く楽しみ”

  それに取り組むわたしは、ジェンダーの問題とともに

  わたしの大きな側面の一つだと思っています

    ※そのあたりの想いを、松永先生のお誘いを受けて

       第18回GID学会東京大会での発表原稿として

       「一無位真人 あるがまま、今を生きる」に書きました

 

昔々最初の会社で、”生きがいとは”ということを話し合ったことがあります

  その時多くの人は、「私の生きがいは家族です」とか「子供です」

  と言う様な方が多かったのですが

  わたしは「考えることです」と言っていました

その考えることの大きな比率を占めるのが

  わたしが創ってきたシステムを考えること

  中でも(特に初期の頃は)組み込まれるロジックであり

  お客様の問題の解決法。手順を考えること

そしてその問題を考え、システムを提供する場は中小企業

  指示すれば出来るわけでもなく

  それに支払える資金も限られ

  使えるマシンの性能の制限があります

こうした環境下でのシステムは

  教科書的な正論ではなく

  もっと人をシステムに組み込み

  常に現在の現場の現実に立脚した再評価/再計画を繰り返し続ける

  そして、お客様の変化/成長とHWの進化に伴って

  そのシステム自体も成長し続けなければいけないのだと思っています

 

結果、このシステムに携わり続けるために2回会社を変わり

  43年間に11世代のシステムを提供し続けてきました

ただお客様の担当者はもちろんのこと、わたし自身は限りある命です

  でも本来ならば会社は未来永劫続けることが前提になります

もちろん日々の保守に関しては

  わたしが居なくても、そして私以上のサポートをしてくれるでしょう!

  でも次期システムは?

  将来の変化に対する対応は??

  50代の頃からず~っとこの今後を託せる人、仕掛けを模索してきましたが

  この部分はついに為すことが出来ませんでした(-_-;)

 

このシステムの始まりは、since1977

  世の中的にもまだまだ「コンピューター上の生産管理」なんて確立していない頃

  会社の先輩/同僚に相談しても、皆さん未経験

  結局は自分で乗り越えるしかない!

でもその考えること自体は

  そしてその考えをシステムに組み込んでうまく機能した時には

  とってもうれしかったのを覚えています

  なので現場を離れることができないのです

あくまでもお仕事ですから

  楽しいことだけではないですが

  それでも半分は遊んでいましたし

  家にお仕事を持ちこんだり、徹夜することは自体は

  ”いや”と言うことはなかったのです

 

今だったら、やれサービス残業がどうたら

  働き方改革で問題だとか指摘されたりするのでしょうが

  それにその時は男の子だったので(^O^;)

  徹夜したり、休日出勤の連続であっても

  仕事していること自体はさえぎられることはありませんでした

逆に、常に絶対的な人員/総工数不足だったので

  わたしが勝手にお仕事していること自体は(現実問題として)救われていたはずですし

  その時間の集中消費による知識/経験の獲得

  それを通しての実績の積み重ねは

  役回りとしての上下関係ではなく

  わたしの言い分を通す力になっていたのだと思います

最後の会社で在職トランスを推し進められたのも

  社長や上長の本音は別として

  この実績の積み重ねの力は大きかったのだと思っています

 

わたしの主義として

  ”仕事は遊べ! あそびに仕事は持ち込むな”ということで

  出来るだけ遊べる比率を増やすために

  組織内の居場所作りを意識していました

    ・・・・独立したって好きなことだけを出来るわけではないのですよね(^O^;)

わたしが(当時の職務分掌から飛び出して)同行営業をすれば

  その時の総務課長が

  「(私の苦手な)管理は俺がやっておくから、お前はドンドン外に出て行け」

  と言ってくださったし

  CEも、HWメンテからシステムメンテと意識を変えて

  SWメンテの一部までカバーしてくれて

  みんなでわたしが動きやすいように支援してくれました

 

会社でお仕事していると、お客様のコールでお仕事中断せざるを得ないし

  期日もあって煮詰まってくると

  お家に帰ってお仕事していました・・・・当然40年前には在宅勤務なんて規定はありません

  二番目の会社でも、規定がなかったのに社長公認での主勤務場所=自宅

  なんて処遇も得ていました

こういう背景もあって、ずっと現役SEであったにもかかわらず

  (特に子供が小さいうちは)家族一緒の夕食を週平均5日は取っていました

また上の子が高校生の時には

  午後からの雨だったり、さらには雷が鳴り出したりすると

  午後からお家の仕事に切り替えて

  上の子からの連絡を待っていたりしました(^O^;)

 

いかに居心地の良い場所を創れるか

  造る場所はこの会社で良いのか?造り続けられるのか??

  その場所を見いだせなくなると次の場所に移って行ったのですね(^O^)

 

そしてチョット話が飛びますが

  上の”主義の後半部分”あそびに仕事を持ち込むな”では

  遊びの場に仕事上の気遣いを持ち込むと純粋に楽しめないので

  当時のサラリーマンの常識であった麻雀とゴルフは意識的に避けていました

もちろん趣味ではやるけれど、だから”出来るけれど仕事がらみではやらない”と言うと

  角が立つでしょ!

  出来なければ、”出来ないから、やらない”と言うのは問題が小さくなるので・・・

 

結局、結果論ですが

  わたしの人生、前半にのめり込んだシステム創りは

    終盤でのトランスを行う場所造りだったのかな(^O^:)

  のめり込んだおかげで

    そのお仕事を天職だと思えるようになったし

  その天職を

    なんとかギリギリ想いの性でやり通せたのでした

 

そしてGID当事者が結婚だの、ましては子供なんて

  という外野の雑音は無視して

  縁あって結婚して、遅ればせながらわたしの子と巡り合えたのも

  タイミング的には、このタイミングでしかなかったのかな!

でも彼女(元奥さん)とこども達には

  ごめんね!ですね・・・