2024年12月度(第156回)mwe交流会を開催しました! | mwe

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Medical Welfare Environment

◆今月のmwe交流会のテーマは?
毎年12月は【全国各地の先進事例の視察】を行っています。
今回は、【東日本大震災の被災地である福島県相馬市を訪問】しました。

mweでは震災(3/11)の翌月(4/12)、2t トラック2台分の支援物資と共に、

被災地(4カ所の体育館・公民館)を訪問しました。それから13年が経過した被災地が

その後、どのように復興を遂げてきたのかを視察して参りました

今回の視察では、相馬市観光協会・相馬スポーツツーリズム推進協議会のご協力で

企画を作成しました。2011.3.11震災を実体験された“ガイドさん”“語り部さん”

と共に各地を移動ししつつ、当時の様子を解説いただきました。

被災地視察・語り部さんからのお話から改めて、有事(自然災害)に備える

きっかけとなれば、企画した甲斐があります。

今月の交流会もよろしくお願いいたします!


◆被災地視察①◆


テーマ 「 震災当時の被害状況、その後の復興状況について① 」
     ~防災備蓄倉庫・磯部メガソーラー・相馬双葉漁港の視察~
講 師  相馬市観光協会 相馬市復興支援員・防災士 渋谷紀子様

<同じエリアで度重なる自然災害>
視察は現地の馬陵タクシーでジャンボタクシーを手配してガイド:渋谷さん、

mweメンバー6名で行いました。車中では渋谷さんから「東日本大震災の後、

復興に向かう中、震度6強の地震が2度、豪雨災害で町が浸水してしまい

度重なる自然災害に遭ったこと」をお聴きしました。

今年1月1日の能登半島地震でもその後、復興途上の中で集中豪雨があり、

『自然災害って同じエリアで集中するんだなぁ』と感じました。

令和に入って発生した震度6強の地震を経験したことが、

“防災士”の資格を取得するきっかけになったそうです。

渋谷さんの解説の中で地震発生直後の写真を観る機会がありました。それは渋谷さんの

自宅、寝室の1枚でタンスが倒れたすぐ横で息子さんが寝ている写真でした。幸い、

その自身では渋谷さんファミリーにケガはなかったということで安心しました。

倒れたタンスの写真を見せながら渋谷さんは

『家にある家具につっかえ棒を挟んで固定をしていたけど、壁に固定して安心していた』

『本当は壁の裏に柱があるかを確認して、そこにつっかえ棒を固定しないとダメだった』

と被災したからこそのアドバイスがありました。

もしかしたら、私たちの生活の中にある数億本のつっかえ棒のうち、半数以上は

付けてあるだけで効果が薄い(無い)状況にあるのかもしれません…。

<防災備蓄倉庫・顕彰碑の視察>
最初の視察地は「防災備蓄倉庫」です。
この倉庫の役割は自然災害が発生した時、相馬市民(3.2万人)のうち、

1/3(1万人)が3日間生活する中で救援活動を待つ時間を確保することです。

せっかく、防災備蓄倉庫をつくるなら、相馬市民全員(3.2万人)を対象とした方が

いいのでは?という疑問がわきますが、相馬市は沿岸部・市街地・内陸部と横長の

エリアのため、敢えて1/3ずつに分割して防災備蓄倉庫を作っているということでした。

倉庫の中はヒンヤリとしていて、食料・水・寝具・コンロなどの火器関連の物資が

貯蔵されていました。通常、一般には公開されておらず、今回のような視察時、

市役所から専用鍵を持ち出し、開錠します。

防災備蓄倉庫では、地元のこども達が防災学習をしたり、パーテーションで区切ると小さな

部屋を作ることができ、支援者(全国からの救援活動)の簡易宿泊施設にも転用できます。

支援物資が高く積まれた棚と共に特徴的だったのは、「支援物資を受けた自治体」

「職員派遣を受けた自治体」が自治体のロゴマークと共に掲示されていたことです。

これらは相馬市との災害・防災の協定締結の有無に関わらず、支援-受援の関係があった

自治体すべてが掲示されています。

(埼玉県や比企郡小川町もあり、埼玉とも支援-受援関係がありました)

支援物資を送る側の視点ばかりがフォーカスされますが、相馬市では被災当時、

集まった支援物資の管理が行き届かず、食料を廃棄せざるを得ない状況となってしまった

苦い経験を活かし、「受援体制の整備」の重要性を発信しています。

実際、1月1日に発生した能登半島地震では、相馬市長から能登市長に対して、受援体制の

整備として地元の体育館を一つ支援物資用に確保するアドバイスを行いました。

被災時、全国から山のように送られてくる支援物資が混乱することなく、体育館に

一時保管されたことで、目立った混乱もなく、支援物資が行き渡ったということでした

さて、防災備蓄倉庫では「顕彰碑」を視察しました。この顕彰碑は東日本大震災で

亡くなった消防団10名を追悼して建てられたものです。年齢が30歳~48歳と

まだまだ若い団員の皆さんの名前や相馬市長から碑文が掲示されています。

顕彰碑の真ん前(ガイドさんの足元)がへこんでいる部分がありますが、

これは東日本大震災後、2度の震度6強の地震で顕彰碑が倒れた跡です。

顕彰碑の幅と同じ、亀裂があるのが分かりますね。

顕彰碑も一部、欠けてしまっていて、地震の威力を思い知らされました。

<災害危険区域に広がるメガソーラー>


続いて車窓から磯部地区のメガソーラーを視察しました。国道6号線と海岸線を

挟んだエリアに広がるメガソーラーはちょっと違和感のある光景でした。

現在も災害危険区域のため、市民が住めないエリアとなっています。

19.8万枚ものソーラーパネルが敷き詰められ、1.7万世帯分が1年間生活できるだけの電力

を供給しています。相馬市の世帯数が1.4万世帯なので、残りは東京へ売電を行っています。

ソーラーパネルの隣りには田んぼが広がっているエリアがあり、ここでは“相馬方式”という

土壌改良方法がとられ、津波による塩害から田んぼが復活している姿が見られました。

(相馬方式は土壌の上部分と下部分を総入れ替えし、石灰質の粉を噴霧するものです)

<相馬の自然を体感できる松川浦・海苔の養殖>
メガソーラーを抜けると松川浦を走り抜ける松川浦大橋を渡ります。この橋は海岸線と松川浦

を区切るように通っており、右側に防潮堤と海岸線、左側に松川浦を観ながらの疾走します。

震災前、相馬の海苔は全国2位の生産量を誇っていましたが、震災で生産が急減します。

現在でもピーク時の20%ほどに回復している状況で、まだまだ海苔の生産は途上です。

松川浦の海苔の養殖でのエピソードとして、「海に番地がある」という珍しい事例です。

海苔の生産者は決まったエリアで生産をしており、その場所は住所地登録がされ、

代々相続されていくそうです。海の中の住所って聞いたことないですね。

ガイドの渋谷さんからおススメのお土産を紹介いただきました。

相馬市観光協会が「相馬ブランド認証品」に認定している土産物で、現在14商品が

選ばれています。特にその中でも“松川浦かけるあおさ”がおススメと言うことで、

mweメンバー全員が2個ずつ購入しました。

(パスタに和えたり、フランスパンに乗せたりとアレンジメニューが広がります)

 

◆被災地視察①◆

テーマ 「 震災当時の被害状況、その後の復興状況について② 」
     ~慰霊碑・鎮魂祈念館の視察~
講 師  語り部さん:相馬市で建設業を経営されている小幡広宣様

<震災直後のDVDを視聴>


鎮魂祈念館では最初に、DVD「あの日を忘れることなく、心のよりどころとして…」

を視聴しました。津波に映像と共に強く印象に残っているのが、撮影者の方の

『えっ!大変だ!』『どうしよう!』などの声です。

私たちが報道で見た映像にはない、地元の方々の生の声が自然災害の大きさを

物語っていました。

<語り部さんが語る、震災直後の1か月間>
今回、震災当時の様子をお話頂いたのは、相馬市で建設業を経営されている小幡さんです。

震災時は30代半ばで3歳のお子さんがいらした状況でした。幸い、奥様・祖父・祖母も

無事ということでした。

3月11日2時46分、その時、小幡さんは建築現場に向かうトラックの運転中でした。

警報では3mの津波だったのに、瞬く間に10mの津波に変更され、

『これは、大変なことになる…』と感じたそうです。

一旦、自宅に戻った小幡さんは奥様と『避難訓練のつもりで避難しよう』と高台に避難。

その後、巨大津波が眼下に広がります。最初は『自宅の3階に避難すれば大丈夫』

と思っていたようですが、実際は3階部分も津波の跡があったので、避難が大正解でした。

小幡さんの家は海岸線から200mほどの位置にあり、津波が周りの家を全てのみ込んで

しまいます。津波の後、自宅に戻ると、小幡さんの3階建ての家以外はがれきの状態で、

1軒だけぽつんと残っている状況でした。

実際の写真を観ることができましたが、1軒だけ残った家は伏木が光景でした。

あれだけの津波の中、なぜ残ることができたのか?特別な建て方をした訳ではなかった

ので、偶然の中の偶然だったとしか思えないと仰っていました。

小幡さんは『自分の家は家族も全員無事だったけれど、まだ捜索途上の人たちもいて、

町中にはがれきの山だったので、何かしなくては!』との思いで、

ここからの1か月を過ごされます。

まずはじめに建設業で保有していた重機でがれきの撤去を行います。ただ、通常は重機を

トラックで運搬した後、作業を行いますが、当時はトラックの手配もできませんでした。

市役所に事情を説明したところ、『通常、道路が傷ついてしまうので、重機での公道走行は

できないけれど、非常時でがれきの撤去が優先』ということで、直接、重機で公道を移動し、

作業を開始します。

本当は明け方から作業を始める予定でしたが、明け方を待たずに暗いうちから作業を

開始します。朝から夜まで作業しても100mも作業が進まない状況でもがれきの撤去・

生存者の捜索を続けます。

<津波に追い打ちをかけるように原発事故が発生!>
がれきの撤去を行う中、原発事故の報が飛び込んできます。原発事故の被害がまだまだ

分からない状況の中、作業を続けていましたが、隣りの南相馬市では全住民(7万人)が

避難することになります。

自身が暮らす相馬市はどうなる?市役所とのやり取りの中、全住民の避難は行わない

という意思決定が下されました。現場での作業する人も限られる中、相馬市長の

リーダーシップのもとで小幡さんを始め、地元の建設業者や消防団などが

がれきの撤去・生存者の捜索を行っていきます。

当時の様子を小幡さんは…
  『震災直後は相馬市が全滅してしまう…、と本気で思ったほどだった』
また、苦しい1か月間は…
  『本当に大変だったけど、人生の中で一番生きていることを実感した1年だった』
その後、2度の震度6強の地震、豪雨災害を経て…
  『飲食店の仲間も何度も立て直しをして再起を図っている。人間って強い!』
と振り返ります。

小幡さんは、熊本地震や能登半島地震のボランティア活動にも参加されており、

  『今後、mweの地元 埼玉で自然災害が発生した時も、わたしは応援に行きます!』

と仰って頂きました。

巨大津波に周りの家が全て飲み込まれる中、1軒だけ残った家であったり、

震災後の救援活動、そして、その後の全国各地での被災地応援など、

小幡さんが“何かの力”でお役目を担当されているような見えない力を感じたお話でした。

そして、帰路はジャンボタクシーでスタート地点のJR相馬駅に戻りました。

今回、運転を担当頂いたドライバーは20代の男性で、被災当時は中学校の卒業式でした。

卒業式を終えて自宅で被災したそうです。

その中学生が、いま、こうして被災地視察の移動をサポートしてくれています。

こういったご縁も有難く感じました。

改めて、今回の視察を企画して頂いた相馬市観光協会 渋谷様、語り部を担当頂いた

小幡様には感謝いたします。今回の視察が改めて、有事(自然災害)に備える

きっかけになれば幸いです。

わたしもさっそく、我が家の防災備蓄品をチェックします。
このブログ記事を観ている皆さんもぜひ、防災備蓄品をチェックしてみましょう!


次回、1月度mwe交流会は、1月14日(火)開催です。

<交流会テーマ> 
子どもも大人も誰もが互いに支え合い、子どもが健やかに育つ社会づくりを目指して…
『“行政と民間の中間”で、ユニークな子ども支援を行う先進事例から学ぼう!』


今回は、第5回「子ども(の食)支援交流会」としての開催です。
  前回、第4回:2023.10.10「子どもの食支援交流会」
  前々回、第3回:2022.11.8「コロナ禍の子どもの食支援の現状と課題を共有」
をふまえた、5回目の開催です。
 
今回はアフターコロナに移行した現在、引き続き厳しい子ども(の食)支援の現状

と共に東京都で行政と連携しながら、子ども支援を行う事例をご紹介します。

講師は、埼玉県 福祉部 少子政策課から分かれた「こども政策課」「こども支援課」

から講師をお招きし、ご登壇頂きます。また、東京都でひとり親家庭の支援などを行う

バディチームの現場での支援の様子をご紹介します。

 

子ども(の食)支援のいま、を知る交流会です!

<講演>
視察① 「 子育て・子どもの貧困の現状と、埼玉県のこども計画・子育て支援について 」
     ~埼玉県 少子政策課からこども政策課・こども支援課に分かれた取組み~
講 師  埼玉県 こども政策課 主事 白石希実様・清水右都様
     埼玉県 こども支援課 主事 松本翼様
 

視察② 「 誰もが支え合い、みんなで子育て 」
     ~バディチームの支援活動~
講 師  特定非営利活動法人バディチーム 代表理事 岡田妙子様 理事 濱田壮摩様