音楽において最も大切なものは? | 自給自足ハーピストのよもやまブログ

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ハープ奏者、作曲家、即興演奏家、古佐古基史が、カリフォルニアの大自然の中、静かなファーム暮らしと音楽活動の合間につづる徒然なるままのブログ。

 この問いに対しては、テクニックという方もいれば、インスピレーションという方もいると思います。皆さんはどうお考えになりますか?
 
 上にあげたものももちろん大切でありますが、最も大切なものは、Intention(インテンション)、すなわち「意図」であると思っています。

 では「意図する」とは、どういう作業なのでしょう?いろんな解釈がありえると思いますが、古佐小的には、「どのような結果のために、何を、どのようにしたいのかを明確にし、それを最大限の努力をもって実現する覚悟を決めること」であると理解しています。

 音楽においては、意図される内容のクオリティー、その継続時間、意図を実行する身体能力によって、表現される印象の質が変わってきます。どんな名曲をどれほど素晴らしく演奏しても、演奏者の意図に「失敗して恥をかかないように注意しよう」とか、「オレ様の凄さを見せつけてやる」などという衝動が紛れ込んでいると、音楽によって伝えられる最も高貴で精妙なエネルギー、つまり魂を揺さぶるような感動を生み出す波動は損なわれてしまいます。

 意図を持つことは、誰にでもすぐにできるのですが、それを継続させるのはなかなかに大変です。例えば、「聴き手の皆さんと平和・希望という感情を共有するために、一つ一つの音に心を込めて、自ら出している音が実際にそのような感情を呼び起こしているかを慎重に吟味しながら演奏しよう」という意図を持って演奏を始めたとします。しかし、ぼんやりしていると、演奏を始めて数小節後にはそんなことはすっかり忘れて、技術的にミスなく演奏をすることに全意識が持っていかれてしまいます。それどころか、知らない間に虚栄心が忍び込み、「お客に喜んでもらいたい」という偽善の仮面を被った「ひけらかし」が始まってしまいます。このような内面の迷走があっても、ほとんどの場合はお客は喜んでくれて、結果的には仕事としての演奏は成り立つことが多いため、このような内面的な混乱を黙認放置しても職業上の問題はありません。しかし、この内面的な迷走状態に妥協をしたら、音楽家としての成長はそこでおしまいです。

 意図の実行役、つまり実際の演奏を担当する身体の能力は、すでに確立された練習法やメソッドなどの機械的な訓練を積むことで右肩上がりに発展させることができます。しかし、そこをいくら強化しても、お客を楽しませるというレベルでのバリエーションを増やすだけで、その上に君臨する「感動を呼び起こす何か別のもの」には到達できないのです。そこに行くには、深い精神性に関わる高次元の成果を意図できる創造力と、その意図を持続できる意志力の強化が不可欠です。しかし、それらはまさに人としてのあり方そのもののに関わる根幹的な命題を含む課題であるがゆえに、機械的な訓練で強化することはできません。本当に望むことを「意識」し、それを「意志」によって実行する訓練を、無意識的、無意志的に行うことは不可能なのです。必ず、意識的、意志的に訓練が行われなければならないのですが、その意識と意志が弱いのがそもそもの問題なので、この種の訓練は、始めることすら非常に難しいのです。訓練を始めた初期には、ほぼ例外なく己の無力を思い知るだけです。しかし、忍耐強く継続すれば、ある時点から指数関数的な発達が期待できます。ガリギョロの骨皮筋夫さんであっても、忍耐強く筋トレを続ければ、少しずつマッチョになるのと同じです。

 意図される内容、つまり音楽によってどのような結果を期待するのかという点は、まさに音楽家自身の価値観や人生観が反映されます。音楽では、娯楽提供に対する報酬、自己顕示欲、他者への愛、神々への奉仕、社会への問題提起などなど、実に多様な目的が意図され得ますが、音楽家がどれだけ普遍性の高い目的を設定できるかによって、音楽によって表現される精神性の深さも決まってきます。

 ただし、崇高な意図があっても、知識と技術がそれを実現するだけの能力が伴っていない音楽家もいれば、逆に、やたらと知識と技術が優れているにもかかわらず、意図が薄っぺらであるために薄っぺらい音楽しか生み出せない音楽家もいます。つまり、意図の内容、それを継続させる力、それを実行する身体能力が、それぞれバランス良く発達し協調して働くことが重要なのです。

 このバランスの重要性に関しては、たとえ話を使って考察してみたいと思います。

 音楽家を馬車に喩えると、馬は感情、馬車は身体、御者は知性、中に乗っている主人が意識と意志を従えた「意図」です。町中の道に詳しい有能な御者が高性能の馬車とよく訓練された馬を運転していても、主人が「やってくれ」と言ったきり行き先については何も言ってくれないとしたらどうでしょう。御者は仕方なくランダムに街のあちこちを走り続けるしかありません。主人から気が向いた場所で「止めろ」という指示が出されるかもしれないし、この立派な馬車を街のみんなに見せびらかしたいというだけの理由で馬車を走らせ続けるかも知れない…。意図のない演奏というのは、まさにこの馬車と同じです。決まった目的地もなく、行き当たりばったりで、自己顕示欲を満たすためにただ走っているだけ。

 一方で、仮に馬車もオンボロ、馬もおいぼれ、御者もジジイで耳が遠くて主人の言っていることがよく聞き取れないとしても、主人が明確に行き先を知っていれば、多少のトラブルはあってもいつかは目的地まで馬車を走らせることが可能です。つまり、意図をしっかりと持つことのできる音楽家は、技量の良し悪しにかかわらず、目的を達成できる可能性が十分にあるのです。有能な御者、手入れされた馬車、訓練された馬、そして確固たる目的を持った主人。この組み合わせを目指すことが、芸術家としての自己修練なのでしょう。