人生には山あり谷あり、いろいろなムーブメントがあることと思いますが、わたしには目下、開発学のムーブメントが押し寄せています。

学問分野でいうと、小学生からこれまで、ずっとひたすら日本史学にハマっていたのですが、この歳にして、ようやく自分の興味が外に向いたかという感じ。

日本史といえば、本屋のない村で育ったわたしが、中学時代に町の本屋から定期購読していた雑誌が2冊ありまして、そのうち1冊が「歴史読本」でした。
やれ群雄割拠だの、やれ甲冑がどうだの、そんなティーンエイジャーかわいくない!
このころティーン向けファッション誌や少女マンガ雑誌を読まなかったことで、いわゆるイキオクレになったかもしれないということは、否めません。
ちなみにもう1冊は「月刊ジャイアンツ」ですので、ちーん。

さて、くだんの開発学。
ここ9年ほど、カンボジアの教育支援をしているNGOで働くことを生業にしているので、これまでの人生で、考え得なかったことを目の当たりにしました。
わたしが高校生や大学生のころ思っていた、というか、世界でスタンダードだった開発は、いまの時代、違う様相を呈しているようです。
日本もそのひとつかもしれないけれど、先進国の発展の歴史を段階を追って模倣するとか、とにかく投資してインフラ整備してとか、それが通用しないらしい地球の危うさ。

そこでこんな本を読んでいます。


すごいの、サルでも牛でもわたしでもわかるように書いてある。

経済学って立派なビジネスパーソンを目指している人が学ぶものかと思っていたから、経済なるものから逃げ続けてきました。
けど、せっかく福沢諭吉が作った単語だし一万円札だし、大人なんだから向き合わないといけないなと。開発経済学。
こちとらちゃんと経済の勉強していないから、自分を国に例えたら最貧国。
学ぶことで、仕事のみならず、自分の人生にも革新があるかもしれません(期待するのは自由)。

学ぶといえば、カンボジアについての勉強をしているから、カンボジアについての勉強会の話者にうっかりなることも増えてきたこのごろ。
先日、友人のご厚意で、地元井の頭で、カンボジアのお話会を行いました。

森の食卓という、その名のごとく井の頭の森の中に静かに佇むイベントスペースで、はじめましての方、久しぶりの友人もいて、楽しくおいしいお料理を囲んでお話をさせていただきました。



学んだことは、独り占めしないで、どんどんシェアしながら、新しいことをたくさん知りたいと思った一夜でした。

わたしたちは、人さまの知恵と経験で生きているんですね。
長い歴史よ、ありがとう。
(結局は歴史学礼賛)



先週末、仕事で東北のとある街に行った。
帰り途。
喫茶店でゆったりコーヒー飲みながら玉子サンドイッチでも食べてから新幹線に乗るか、せっかくだから地元の駅弁を買ってゆっくり新幹線のなかで食べるか。

迷った、二択。

後者に。

新幹線は窓側をとったので、車窓を眺めながらのんびり箸をつついてご当地弁当に舌鼓を打とうではないの、ということで。

東北本線郡山駅といえば、海苔弁。




この海苔弁ときたら、ごはん→昆布の佃煮→海苔→ごはん→おかか→海苔という鉄壁ともいえる強固さよ!
もうおかずなんていらないんじゃないかレベルです。

お隣のご婦人に失礼して、車窓によく実った穫り入れ寸前の黄金色の田園を眺めながら、いただきまーす!
箸を入れれば、海苔→おかか→ごはん→海苔→昆布の佃煮→ごはんという積極的な抵抗感との闘い、ひとくちひとくち丁寧に食す。

そして、のんびりと、車窓を……

ぴゅーーーーん!
ひゃーーー! しゃーーー!
くるくるくるくる。

この新幹線ってやつは、のんびりとはほど遠い乗りものらしい。
車窓は流れに流れ、車のバンパーで猫が昼寝しているとか、田んぼの畦から子どもが手を振るとか、そういうかわいいネタもなく。
くるくるくる目のまわる速さ。

車窓はくるくるせども、ひとくちひとくちゆっくり丁寧に余裕の30分をかけて平らげた。ひと粒のこらず。

やっぱり駅弁ってやつは、ローカル線の旅で膝の上で食べるものなんですかねぇ。

新幹線は速く速くと焦っては、顔面もカモノハシのように長くなり。
そしてわたしはまた、時間のことが書かれた本を思いだしてしまった。


昔の「時間」は今よりのんびり太っていて、それを「時間の節約」の名のもとに、ずいぶん細らせてしまったのが、今の「時間」のように思える。さまざまな利器が文字どおり時間を削り、いちおう何かを短縮したことになっているものの、あらためて考えてみると、削られたものは、のんびりした「時間」そのものに違いない。




時間のこと

テーマ:
三連休最終日。
わたしにとっての至福のときを過ごせる場所へ。
なにせ、泊まりたいとか住みたいとか思ってるくらいなんだから。

図書館。

昨日は午前の3時間だけ。
でも今日は、いれるだけいるんだ。

お腹が鳴ったら、カレーとコーヒー。
そして、本。
まったく、住める。



吉祥寺図書館に予約取り寄せして借りたものの、ここ武蔵野プレイスで一気に読んで返してしまおうと持ってきた「それからはスープのことばかり考えて暮らした」。

48ページから49ページにかけて、思考にもったり入り込んできた文章があった。


昔の「時間」は今よりのんびり太っていて、それを「時間の節約」の名のもとに、ずいぶん細らせてしまったのが、今の「時間」のように思える。さまざまな利器が文字どおり時間を削り、いちおう何かを短縮したことになっているものの、あらためて考えてみると、削られたものは、のんびりした「時間」そのものに違いない。


時間を太るとか細るとか、考えたことなかった。
けど、
生きるなら、のんびり太った時間の中の方がいいな、とわたしは思いました。



久しぶりに、ひと読み惚れをした。

一目惚れってそういえばいく久しくしていない。それとは関係ないけど。

 

「雲と鉛筆」(吉田篤弘)

 

この本を手に取ったのは、タイトルというよりも帯に書いてあった文章に惹かれて。

”人は言葉を手で書いた。” 人の思いを、いちばん正確に書き残すことが出来るのは」鉛筆ですーー。

 


わたしはいつから、言葉をキーボードに打ち込むようになったのだろう。

小学校2年のとき、イルカの表紙の日記帳に稚拙な語彙で日記を書きはじめたあのころは、鉛筆で気持ちを書いていた。

濃淡のある、太かったり細かったり、削ってすぐに芯を折ってノートを汚したりして書いた言葉。

右利きで汚れる縦書き。

気持ちが乗って伝えたいことがあふれたときは、ハヤる気持ちに鉛筆が追いつかずさらさら走り書いて、言葉が出ないときは、芯をノートに乗せたまま時間をつぶした。

 

鉛筆で書いたものには、言葉以上の何かが残る。

 

「雲と鉛筆」の主人公は、ものをもっていない。

本棚と古い寝台、子ども用の机と椅子、それから父親が残した古い鞄。それだけ。

あとのものは、ぜんぶ自分の体のなかにしまってあるそうで。それらを取り出すには、書くしかないのだと。

 

書くということの、面白いところは、ここにあるんなんだろうな。

 

ものはそれほどたくさんもたないで、いろんなものを自分の体のなかにしまっておいて、取り出す作業を、わたしもしたい。

主人公がひじょうに好もしい生活をして性格をしていることがうらやましい、どきどきもわくわくもしないけれど、微笑んでしまう一冊だった。

そういうのが好きだ。

どきどきもわくわくもしないけど、微笑んでしまう暮らしがいい。

 

偶然手に取って気持ちをもって行かれた本との出会いは、うれしい僥倖だ。

amazonやメルカリで、ズバリの欲しい本を手に入れるのは簡単なんだけど、そこでは、こういう好い本との出会いはほとんどないでしょ。

 

だからわたしはときどき書店に行く。

 

 


なお、吉田篤弘さんについては、「つむじ風食堂の夜」が大好きです。

 

 

腹筋マッサージ、ふたたび

テーマ:
夏休み4日目。
計画なんてもんは大してない行き当たりバッタリ滞在。
でも昼と夜はあらかじめバッチリ決めてて。会いたい人に会うというね。
今日は、2か月前まで一緒に働いていた仲間と、焼肉に行きました。カンボジア独特の硬めの肉を噛むのかしゃべるのか、焼くのかもう大忙しの小一時間でしたけど、苦楽をともにした人々との肉は格別です。

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さて、午後。
肉を食べて大満足。あとは、夜の地ビール祭りまで時間がたっぷりある。
何しよう? 昼寝? 読書? フライングビール? 思いついたのが、肩こり。じゃなくてマッサージ。
カンボジアはマッサージがわたしにはゆるいから、フットしかほとんどうけたことないんだけど、この暇に任せて、久しぶりに行ってみました。宿から歩いてすぐにあったので飛び込みで。

以前、似たようなマッサージ屋で全身をお願いしたところ、太ももの笑いのスイッチを押されてえらく笑いこらえ苦しんだので、今日は安全策で、Back &sholder コースで。

甘かった。
わたしの笑いスイッチは、腰や背中にも散りばめられていました。
いやいやいやいや、もう、笑いこらえるのに必死で、というか、笑ってしまったり、ひくりくしたりして、気持ちいいというより、今日も腹筋鍛えて終わりました。
肌をオイルでやわらかくなでる、あの系のマッサージ、わたしには、どうしても合いませんです。
やはり、足の裏をぐりんぐりんやられて、イテテテテテ、いったいなこの野郎、くらいの方がいいですね。明日はフット行こ。

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ところで、この宿のまわり、猫がいっぱいいるんだけど、カメラを構えると、ことごとく逃げる。さみしい。

ある特定の帰るべき場所にたどりついたとき、日本人は「ただいま」と言う。

でも英語では、I'm home なんて、自分はhomeにいることを表現している。

homeは、別に家に限定せず、自分にとってのhomeなら、国であろうと、都市であろうと、人であってもいいのだと思う。

 

日本語の「ただいま」は、「ただいま帰りました」の略だという。英語の、いる、という感覚より、戻ってきましたよ、の感覚。

行動が伴っていて、日本語の挨拶の方が躍動感があって面白いなと思った。

 

昨日、わたしは、プノンペンにただいまを言った。

夏季休暇中の、ほんの1週間の滞在だけど、2ヶ月ちょっと前までhomeだったから、空港に降り立ったとき発したかった言葉は、ただいま。ただいま、帰りました、わたしの好きな場所に言った。好きな人たちがいる場所に言った。

 

到着早々、一緒に仕事をしていた後輩が、わたしの滞在先の安宿(安くてもとってもフレンドリーで清潔な宿なんですが)に駆けつけてくれた。

会った瞬間、ただいまを言った。これは、人に言った。

 

いま、スターバックスコーヒーにただいまを言った。日本と同価格の安くないコーヒーに言った。

ここよく来たな、休日の暇つぶしに来たな、ブログ書きに来たな、手紙書きに来たな、心地よいこの空間に言った。

 

ところで、何をしにプノンペンに来たかというと、酸味より苦味のきついコーヒーを飲んだり、通勤時間ではすぐ飽きて眠くなってしまうような少し難しい本を読んだり、更新頻度の低いブログの更新をしたり、ビールを飲んだり、のんびりしに。

ちょっと前まで忙しく働いていたこの場所で、仕事をしないで好きなように過ごすためにきた。

 

結局わたしの好きなことって、コーヒー飲んで、本を読んで、書きものして、酒飲むことか、と思ったけど、その通りらしい。

どうせやるなら、ただいまが言える場所で、やろうと思って、来たのであーる。

 

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この前の井の頭線吉祥寺駅のスターバックスより居心地のよいプノンペンのそこより。

 

 

ちょっと真剣に考えて書くべきことがあったので、居心地がよさそうで静であろう喫茶店に入ってみた。

そしたらパソコンは禁止なんです、と言われ、まぁ静かなところはそうか、と納得し、結局の目が回るスターバックスに来た。

壁に向かえば目も回りませんが、改札に向かう人たち、車両から吐き出される人たちが交差する場所の真上にある井の頭線吉祥寺駅のスターバックスでは、いつも眼下がくるくるする。




しかし、このくるくる感が、わたしの動きの悪い脳に刺激を与え、いい感じに作用して、結果、なかなかいい出来栄えになった。

エッセイなる宿題を書いていたのです、それも英語。これは、あの狭苦しく誘惑の多い、物を食べるかさもなくば四六時中動画を見てしまうようなワンルームではムリでしょう。わたしもここまで生きてきて、自分の習性をよくわかっているので。

何ヶ月も、どうにかせねば、と思っていた宿題をなんとか終えて、もやもやしていたストレスがひとつ消えた夏。

これじゃあまるで夏休みの宿題を最後まで放置する小学生と一緒だね。

この宿題の提出日は9月1日、なるほど、新学期感満載じゃないか。

 

ストレスが消えたといえば、昨日、髪を切った。

むずむずしつつも、肩にのった髪を、乙女のように、流してみたり、毛先をつまんで痛みチェックなどという仕草をしてみたり。いや、そうではなくてリュックを背負えば肩に挟まり、汗をかけば首にくっつく自分の髪の毛に知らず知らずストレスを感じていた、この酷暑。

結べばいい、と気楽に言わないでおくれ。わたくし、髪を結ぶというスタイルが、究極に似合わないのです。自らの研究の結果、この顔の形は、すっきりした髪型が似合わない、ということが判明しています。軽く論文も書けます。

切ってからの爽快感。鏡を見るとお馴染みに人物が映っとる。わたしは、オカッパです、小さいときから、オカッパです。かっこつけません。

こうしてキーボードを叩いていても、落ちてこない横髪、首を吹き抜けるエアコン風。

わたしの場合は、髪を切るというよりはストレスを切るという感じ、そう、それ。

 

そろそろ冷めてきたコーヒー。

「マグカップで召し上がるお時間はありますか? 本日のコーヒーはケニアの豆です。トマトのようなすっきりした酸味が感じられますよ」

この店員さんのすばらしい言葉。

「ちょっと長いしてもいいんですよ! 」的な意味を含み、客を安心させつつ、コーヒーには単に苦い、酸っぱい、というだけではない美味しさがあるという気づきと楽しさを与える。

居心地がよさそうで静であろう喫茶店に行かなくてすべての結果オーライだった日曜の午前。今週の出だしは最高です。

 

 

カレーは飲み物だ。ってうまいこと最初に言ったのは誰ですか。
夏になると、バテてくると、食事のメニューがカレーかそうめんかの二択になる。
インスタを見ると、どうやらわたしだけではないらしいですけどね。

プノンペンでは、これでもか! ってそうめんばかり食べていたけれど、日本の夏は、プノンペンよりバテる。バテ度のメーターが振れたとき、駅前のコンビニで、炭酸水とカレールーを買ってしまう。
辛いカレーを、ビリっビリの炭酸水で流し込む。いや、飲み物なのだから、飲み込むという感じか。



夕食にカレーを食べると、朝ごはんもカレー。実態としては朝の方がうまくなってる。
昼のお弁当も自ずとカレー弁当、で3連続。
カレーが好きだから、死ぬ前最後の食事は? と聞かれたら、カレーと即答する準備はいつでもできていた。
最近はここにラーメンという強敵現れ、ただいま2強が接戦を繰り広げております。

カレーラーメンでいいじゃん。
なんて、野暮なことは言わないでよね。

さて、ただ今昼休み。
3食目のカレー弁当(冷たいけどおいしい不思議)を食べ終えたところで、大満足。
先日の村上レディオをタイムフリーで聴きながらのカレーは盛りに盛り上がりましてん。

でももし、今夜もカレーだったらどうか? これはノーですね。大好きなカレーはわたしの場合3連続までが最高値。

去年、スリランカに1週間出かけ、朝昼晩、朝昼晩、そして朝昼晩カレーを食べた。
3日目くらいまでは、ニッコニコ顔で食べたけど、7日目のわたしは、カレーのカの字もきつくなってきた。
あのとき、プノンペンに戻って、普通の、ホントに普通のナポリタン食べて、おいしくて泣きそうになった。

好きなものは、どっぷりいっちゃダメよ。何事も。

今日もカレーがおいしかった。
気分もいい。
次のカレーのお楽しみは数日後。

暑くて暑くて、暑いよ、暑い

テーマ:

日本の暑さが、すごいことになっていますね。

ただ、暑いなら、夏なんだからいいんだけど、毎日ニュースで、熱中症で搬送された方々が2000人だとか、10人死亡したとか、そんなのを聞くと、これは異常だと感じてしまいます。

 


さっきラジオで福山雅治さんが、仕事で「世界中の暑い場所」に行くけれど、東京の暑さは人間の生活によくない暑さですね、と言っていました。

御意。

そう、これって太陽の暑さじゃないですね。

今日も洗濯ものを乾すのにベランダに出た瞬間、いや、出る前に窓を開けたら、ぶはっ! と声に出してしまいそうな(もしかしたら出していたかもしれない)熱気。

ぶはっ!

ベランダには、それぞれエアコンの室外機が並んでおりまして、わたしの住んでいる個々狭いアパートメントの場合は、その数も等間隔で多数。だからアパートを取り囲む空気が、相当ぶはっとしているんです(日本全国どのアパートでも同じだけど)。

あと、わたしのビーバー室外機(ビーバーエアコン、懐かしくないですか?)低音でブルースを奏でます。ずっと聴いてると、うるさいです。ロックになった時点で大家さんに言おうと思ってます。

 

わたしは1年中夏の暑さのカンボジアに1年中暮らしたけど、暑かったけど、この東京の暑さとはぜんぜん違います。

太陽の暑さでした。

日の当たらない場所、木陰とか家の庇の中とかに入れば、暑さも和らぎ、風が吹けばエアコンもいらず。ハンモックをぶら下げてゆらゆらお昼寝、あー、気持ちいい。

けど、それをいまの東京でやったら、即熱中症、日陰なめんなよ、状態でしょう。

 

もう、ロマンティックは止められても、エアコンが止められない。

来月の電気代の請求書がまんじゅうより怖い。

あ、それはわたしだけではなく。

 

エアコンを止めた時の、もうろうとした頭で考えてしまうのは、2020年の東京オリンピックが心配、という頼まれもしない余計な心配ごと。

どこかの大学の生命科学者が言っていましたけど、「思い切って時期を変更しないと、死人も出てしまうだろうし、世界中の人が嫌い国になりますよ、ニッポン」。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れる日本の政府は、秋になれば、そんな議論は忘れてしまうのだろうけど、7月開催は報道権を一番握っているアメリカの陰謀だそうですね、本当ですか?

金髪ファースト、自国ファーストではなく、地球に住んでいる人間の生命のことを優先しましょうよ。

 

もう暑くて、なんのこと書いているブログかわからなくなってきたいというね。

 

この夏のドラマで一番好きなのは「極道めし」以上!