紙芝居師トンボの日記

紙芝居師トンボの日記

絵を描く事が好きで、たまに紙芝居を演ったり、スピリチュアルな事の研究をしたり、六甲山をよく裸足で歩いている人、私トンボのブログで御座います。

2019.4.7

 

 

 紙芝居わんぱく万博!!大大大成功でした。
当日お集まりのお客様、スタッフの皆様、そして全国の紙芝居師のたっちゃん、りさちゃん、たまちゃん、大谷さん、ガンちゃん、だんまるさん、なっちゃん、よしとさん、本当にありがとうございました。

 

大谷さんの紙芝居

 

 

「『絵』はものをいいます。
もしも皆さんが画廊等に飾られた『絵』を見られてもいろんな事を感じられるように私も感じます。

そしてじっと見ていますと『絵』が語りかけてくれます。 /坂本一房」
そんな「絵」が芝居する故に「絵芝居」と名づけれました。

 

 

たっちゃんの紙芝居


 僕が紙芝居師になって初めて他人の紙芝居を見た時に一人の演者さんに感動した。

その人の紙芝居の心に「絵芝居」を見たからだ。
それから僕は自分の中に「絵芝居」を完成させる事を誓った。
あの人の紙芝居は「絵が動いている」と言われたい。
その場所は手が届くのかもしれないし、未だ遠いのかもしれない。

たまちゃんの紙芝居


 さて今回は全国屈指の紙芝居師が大阪に集まり、朝10時から15時半まで交代交代で演目を披露していくお祭りでした。
ここからは自分の話になります。超、超個人的な主観的な感想や整理です。

 

 

 自分が用意した紙芝居にはクイズも用意していたのですが、全体の時間も押していたし、クイズ系が多いし、持ち時間が少なくなってもいいか。
クイズを止め、物語で勝負しよう!っと直前でクイズを止めました。
自分の紙芝居は「ピッピちゃん」「すっぽんぽん」「四次元はなの穴」の三本。

 

なっちゃんの紙芝居


 実感として自分の独特の世界観は異質で他の演者さんにはないものだと改めて思いました。
実は今日で紙芝居師キオナとしては最期の舞台。以後は改名して再活動しますが最期の最期に気づいた事が沢山ありました。
自分の作風の道というのが今まで曇って見え難かったのですが、それが晴れて来たような感覚です。
だから「変な紙芝居」でいいのです。ガンちゃんが言ってくれた言葉で納得が行きました。
「怪しい~」それが僕の味です。それが僕の紙芝居です。
この作風でいい。もう迷わなくていいと実感しました。

 

 

ガンちゃんの紙芝居

 

 さて僕はマイクを使わない主義です。
お客さんに聞こえなかったら自分のしょぼさを自分に突きつけたらいい。
自分の体を楽器として捉えて、どうやったら声が出るのかを体考・体現していかなければならないハンディが増えます。
それでいいのです。苦労が増えた分、必死になれます。
このキ○ガイ染みたものがないと正直、僕なんか人を惹きつけられません。

 

 

「遠音をさす」
音楽にある言葉だそうです。楽器をただ闇雲に鳴らすんではなく、その楽器の性能を悟った鳴らし方で音を響かせるのだと僕は捉えています。それを自分の体に求めればいいのです。

 

 

キオナの紙芝居

 

 喉を壊してしまうと話にならない。
日ごろから大きな声を出せる環境がないのでカブにのっている時などに大きな声で歌うようにしている。
前日に稽古をしている時に「あれ?」と突然気づいた事があった。
どうしてそうなったのか分からないけれど台詞がゆっくりとメロディのように出始めたのだ。

んんん?精神状態も安定していて、台詞をせかせかとまくし立てるような状態ではなく、とってもゆっく。
その物語の主人公の声になったというのか?それに追いついたというのか?

その主人公本来の台詞のスピードってひょっとしたら今、語っているぐらいゆっくりな状態なんじゃないだろうか?

 

だんまるさんの紙芝居

 


「語るように謡い、謡うように語る」という言葉が伝統芸能には残されている。
え?その入り口が見えたのではないだろうか?
台詞は自分でちょうどゆっくりと思うぐらいが普通であるとも言う。
だからもっと自分が思うよりもゆっくり語る必要があると教えてもらった事がある。
そうか。今まで自分はただ台詞をスピード的にとらえ表面的にはゆっくりの「つもり」だった。

気持ちもゆっくりと地に足がついていなければ心の余裕というか本心からの「ゆっくり」は出せなかったんだ。

やっとそれに精神が追いついたという事かもしれない。

 

よしとさんの紙芝居

 

 

 今日の本番以外でお客さんの呼び込み時には声を6部ぐらいにセーブして出していた。

自分の本番以外でも他の演者さんやこのお祭りにちょっとでも協力したい。そうなると自分には呼び込みしかない。

売り声を飛ばしての集客。

あるインド絵巻物師の方を思い出した。その方はお祭りで自分の出番以外でも呼び込みや来る人々に挨拶などをしていた。

こういう人の事を縁の下の力持ちと呼ぶと思っている。その方はもうなくなってしまった。

その人の背中が見える。

僕は今、何が出来るのだろうか?そんな事を思いながら呼び込みをしては、立ち見のお客さんがいたりすると椅子を用意したりしていた。

真似をすればするだけその人の背中は遠く心からの行為ではないと自分の中でこれは嘘なのか?と問う。

 

 

 さて声の話しに戻って、本番には結構、大きな声が出た。
というか口演中に自分の体内の背骨。腰椎から仙骨部分が内観的に見えた。
その骨たちが動いて大きな力を口から出している。

「衆人は喉で、哲人は背骨で、信人は踵で呼吸する」。
という言葉が呼吸法に関する大事なポイントで残されています。
発声で大事なのは呼吸法だと思っています。この言葉を体現したいとも思っています。

ひょっとしたら僕が口演中に分かったのは哲人の呼吸のような状態ではないだろうか?
2015年の臨死体験後、独学で瞑想を日に30分から6時間程やっております。
独学で1年3ヶ月続けました。
独学での成長はここまでかと思い去年からクンダリーニヨガを習い始めた。
カリキュラム化された瞑想を日々繰り返しています。
要するに身体的に言えば尾骶骨からエネルギーを背骨に伝わせて脳天から出す。それを喉に出したという事だと思う。
発声時、尾骶骨のムーラダーラから喉のヴィシュッダにエネルギーが出たという事だろう。
瞑想を続けていけば身体に強張る力がもっと抜け、足の力も抜けていくのかもしれない。

それが信人の踵の呼吸法=発声法になると思っている。
これが絵を動かすという絵主体の紙芝居に繋がる一つの要素になると信じている。
そしてもっと台詞を削る事。
説明などの余分なものは絵に任せたらいいのだ。
字数が少なくなるとそのワンフレーズにもっと呼吸とエネルギーを乗せれる。
だからもっともっと僕自身、演技中は「動くな!」だ。
僕が動く限り絵は動かない。
僕が出しゃばるかぎり絵は生きない。
もっともっとそこを掘り下げて行こうと思います。
今後は紙芝居師トンボとして活動して行きます。
応援よろしくお願い致します。

 

「『絵』はものをいいます。
もしも皆さんが画廊等に飾られた『絵』を見られてもいろんな事を感じられるように私も感じます。

そしてじっと見ていますと『絵』が語りかけてくれます。 /坂本一房」
そんな「絵」が芝居する故に「絵芝居」と名づけれました。

 

 

2019.4.1

 

 新年号が発表されました。

令和という響きが美しく思いました。

終わりも始まりもきっとありません。

けれど自分の中の区切りとしての終わりや始まりはあって、丁度自分の生まれ月の春に重なりました。

 

 

 さて今日の現場で使った紙芝居はクイズと「鶯と蛙」という紙芝居でした。
今から約10年前ぐらいに絵本の読み聞かせボランティアの活動に嵌って、その頃からこの施設で各月に活動させてもらっていました。 
絵本の読み聞かせの活動を自分で出来ないか?と思い始めたのが紙芝居でした。この施設でデビューさせてもらったのを思い出します。
8年前に「紙芝居師キオナ」として活動をスタートさせてもらいました。

 

 

 さて日曜日の4月7日には自分にとって紙芝居で大きな大きな舞台があります。
何をもってプロと言っていいかわかりませんが、僕自身紙芝居でプロだった時期もありました。

今はセミプロに降格しても細々と活動を続けています。
2011年から「紙芝居師キオナ」と名乗って活動してきましたが、一旦この2019年4月7日で活動を終えます。
終えると言っても改名するという意味で続けてはいきます。
この8年間は一言で言えば色々なものを「ぶち壊してきた」8年だったと思います。
それは全部、自分の責。でもそれで良かった。嘘はなかったと思う。それらの経験が全部自分の礎になった。全部宝物である。

 

 その集大成が2015年に倒れてからの臨死体験だったと思う。
あの日から自分の中で何かが変わった。
その頃からもう紙芝居に興味がなくなった。本当に辞めようと思った。
けれど信念には「生まれ故郷の道成寺を紙芝居で創るまで辞めない」という志はあるし、ワークショップが何よりも今は楽しい。
何よりも絵と離れたくないし、絵を通して語るというコミュニケーションから離れたくなくなっている。
8年の区切りとして、たまたま新年号にもなるし、今年が本厄だし、紙芝居はやめませんが、また新しいジャンルにも飛び込もうとしています。
4月7日以降から改名し今まで通り細々と続けていきます。

 

2019.2.12

 

 今年からベジタリアンになりました。
魚介類と卵は食べるのですが、一気にしたので体が冷えます。

というか背中の古傷が関係していると思います。

背中が常にしびれているので血流的な流れが上手くいかないのではないかと思っています。

それと体についている余計な筋肉がかなり細くなってきてます。

 


 先日、紙芝居ワークショップがあって呼び込みで少し声が枯れています。
声帯も筋肉というので今後、声に変化が起きてくるのでしょうか?
それとも弱くなるので痛め易くなるのか?
力みが取れて張りのある冴え渡る声になるのか?体を使っての実験だ。

 

 

 

 今日は現場に行くまでに時間があったので随分と使っていない紙芝居を引っ張り出し選んでみた。
声出しの稽古をする。久しぶりに使う紙芝居。
いつもそうだけど今の感覚だったらその台詞は使わない。
ここが長過ぎると自分で突っ込みをいれる。
そうこういていると時間が経つのが早い。
とりあえず「ピッピちゃん」「包丁」「宝船」にした。
また引いたり足したりする作業が必要である。

 

キオナ紙芝居「宝船」

 

2014072523550000.jpg

キオナ紙芝居「ピッピちゃん」

 

 今日の現場はご年配の方が多く、比較的静かな場になりました。
対話しようとしてもあまり引っかかりません。

紙芝居だけになると時間が余ってしまう。場が持たないというか時間が持ちません。
こんな時は改まり口調の言葉より体験を喋る方がいい。
それを喋っている時、自分も時間を忘れている。
キャラが声に乗るというか自分の声で語る。

 

キオナ紙芝居「包丁」

 

 紙芝居の稽古をしない限り言葉を使うという事がかなり少なくなって来ている。
活舌もそうだし、説明する時に言葉が出なかったりする。
だから稽古は必要だ。当たり前の事である。

 

2019.2.10 かみしばいがいっぱい~見て、作って、演じてみよう~

 

 

本日、キッズプラザ大阪にお集まりのお客様、スタッフの皆様、紙芝居師の皆様ありがとうございました。

約100名ぐらいのお子様が受けてくれました。

 

 

 キッズプラザでの手作り紙芝居ワークショップも今回で何回目でしょう。
第一回目の時は本当に大変でしたが、回を重ねるごとにパターン化してくるのでかなり今回はやりやすくなってきているのを実感しました。
開催40分前から拍子木を鳴らして館内で呼び込みをします。

大きな声だ出すのですが、声出しの運動不足を感じました。

これ以上張り上げると壊れてしまうだろうなっと思いながら声帯に気を配りながら張り上げる。

マイクなしの紙芝居師という触れ込みはどこへ行った?と自分に鞭を打ちながら呼び込んだ。

売り声は本当に大事だ。今回は3回とも満員にするのに10分も掛かりませんでした。さすがマイビックヴォイス。

もっと声出しを練習して全盛期に戻さねばなりません。

 

 

 さてさてワークショップで毎回思うのは描き進めるのに時間が掛かってしまう子を気持ちから描いてもらうにはどうしたらいいのだろう?

という事です。
描き進められない子の前に絶対に着こうと思っています。
それはやっぱり絶対に作って欲しいからです。
今回も描けなかったお子さんはいなかったはずだと思っています。

 

 

 間合いを計りながら何に興味があるのかその子との会話の中から探る。
話しかけている講師という自分らの存在自体が目の前で悩んでいる子に緊張を与えていないだろうか?

そんな事も常に気にしながらアドバイス。
この時もアドバイスという上からの意見というのか、そんな言葉で接すると途端に子供は離れてしまう。
アドバイスも情報量が多すぎやしないか?どんな言葉に食いつくのか?
完璧に描いてもらおうとすればするほど自分の頭が思考に縛られてしまう。
完璧をその子に求めるのでなく、ベストを目指すのではなくベターを目指す。
だからワークショップで子供の前に立つ時は、僕がその子の「守護天使」のつもりで立っている。

 

 

 

 

 描き進められない子に「何か好きなもんある?」と聞く。
「ない」「わからん」「しらん」と即答で言われると困惑する。
でもめげずに根気よく会話。

 

 

 そして他の描き進めれている子の絵も観て、声をかけたりします。
描き進めれている子にはもう殆ど何もする事はありません。その感情まっしぐらのエネルギーを利用するのです。

そんな子はエネルギーに満ち溢れていて、そのエネルギーにこちらが乗るという感じでしょうか。
描き進めれていない子に描けている子を横目で見るように気をそらしてみる。
ただそのエネルギーを見せると影響されたりして乗って来る場合があります。
描き進めれていない子が白い紙に青ぺんで一点だけ描いて「はい!終わったー」と終わり告げました。
けれど「うおーなんじゃこれー。何々?」と大げさに聞き返す。
するとそこに丸い顔を描き、ころころと転がって水溜りに嵌って、実はそこは海でそこで住むようになりました。

という物語になっていった。紙芝居が一気に出来上がった。

青い点だけでこちらがアクションしなかったらその子にとってワークショップは終わっていたかもしれません。
何がきっかけでどうなるのか?どう導けたのかも不思議ですが、根気よく接っする。
その場を去ってから他のグループで苦戦している子がいないか僕は移っていきます。

 

 

 

 今回はクリエイティブな紙芝居を作る子が凄く多かったと思います。
その一枚に描き込む量が凄かったり、素晴らしいアイデアとか。
最期のミーティングでも紙芝居ワークショップは作るという作業と発表という作業の二つがあるからとても特別な存在なのだと思いました。
紙芝居を作る作業だけなら内にこもる作業ですが、それを発表するとなると全世界を相手に自分を発信するわけだからダイレクトに他人の反応が本人に伝わる。それが本人にとっての宝物になる。
紙芝居を作るのに問題がない子にどんな言葉掛けをしたらいいのだろうか?とそんな課題も表れました。

子供の気持ちを見ながら描き進めてもらうという作業は「焚き火」に似ている。

その子のやる気の種火を点けたり、消えないよう囲いになったり、扇いで焚きつけたりと・・・

 

 2018.12.26  かみしばいがいっぱい~見て、作って、演じてみよう

 

 

 さて今日もワークショップでした。
合計60人ぐらいの小学生がおられたと思います。

 

 今回のワークショップでは描きたくない子供というのが何人かいました。
そうかこれは小学校の学童の企画なので、個人がやりたいという意思があるとは限らないのだ。
まだ何を描いていいのか分からないというのであれば、解決案を導き出せる。

けれど「やりたくない」が始めにあればやりようがない。
そうなるとその子達にとっては自分の存在が時間潰しの相手だけになってしまう。
集中出来ない裏側に何が原因としてあるのだろうか?

それは絵が描けなくて、笑われてしまうのが嫌なのかもしれない。

こんな時は自分にどれだけ引き出しがあるのかが問われる。

その席で絵を描いてみせる。そしてそれに色を塗ってもらったりする。

まずはペンが進まなきゃ。その子は絵は描けなくても色塗るのにはとても集中していた。

だからこっち側の決め付けで、先入観を入れてはいけない。色塗りだけでもいいじゃないか。

この体験が何かになるのかもしれない。

 

 

 それでも描けない子がいる。

もう単純に遊びたいのだ。それに付き合うとなるとこのワークショップの意味が大きく違って来る。
それとも最初、見本の紙芝居を見てもらった時に心を掴めていないのかもしれない。

 

誰かが描き終わった紙芝居があった。

もちろん要らないそうだ。

どうしても僕にかまって欲しい子がその絵を取り、破ると言い出した。

どうぞと言うと本当に破った。それでも放っておくと後ろから思い切りサンプルのダンボール紙芝居で頭を叩かれた。

思い切り叱った。
その子は叱られるとは思っていなかったからかなり驚いて誤って来た。もちろん許した。

もちろんガチガチの講座ではないから楽しくおかしく出来たらいいけれど。

この甘えたいという奥には何があるのだろうか?みんなの中で講師を独占したいという気持ちなのだろうか?

じゃあ何故そう思うのだろうか?何かブロックがある。

 

 

 描き始められない子を探す。
描き始められない子の席について、どうしたら描き始められるか話しをしていく。
とりあえずペンを動かす事だ。
本当にそうだけれど悩んで考えてても埒があかない。
とりあえずトライ。この場でも僕が描いた絵に色塗りをしてもらう事にした。
これでいいのだろうか?
僕がこの席から離れた方が自分らで自由に描き始めるんじゃないだろうか?
僕がここにいる限り、遊んでくれる大人=考えなくていい時間になってしまうんじゃないだろうか?

と色々と頭の中では錯綜する。

 

 

 

 

 色塗りのサンプルを描いていると他の席の子からも描いて欲しいと言われた。

体は一つしかないから無視だという「描けえ!!」と怒鳴ってきたので、その言葉使いにも叱ってやった。

叱るのは本当に今の教育現場では鳴りを潜めてきているようだ。

 

 

 そんな中でもサンプルで見せた僕のレッドドラゴンの紙芝居の絵に挑戦してくれる子が沢山いた。

ドラゴンチャレンジと読んでいる!

サンプルを見て、それを真似してくれる率が高いのは不思議と竜やユニコーン、天使、妖精などのいわゆる幻視の世界のキャラクターが人気だ。

 

 

 

 

 

 

 

幻視の世界という言い方にしておきますが、それが想像する世界と結びつくのが面白い。

想像するエネルギーって不思議とスピリチュアルな世界と繋がっているのだから・・・
過去一番考えさせられた回でした。

 

 

2018.12.11

 

 

 本日は、さんぽくらぶさんのクリスマス会での紙芝居でした。
使った紙芝居は
「クイズ紙芝居」と「四次元はなの穴」とおまけの「ぐらぐら」。

 

 

今年度で活動を一時休止するそうです。
僕は以前、さんぽくらぶにスタッフとして所属しておりました。
活動時間は週一回の3時間ですが、12人の2~4歳児を預かり、自然活動するとなると本当に本当にそれは大変でした。
それをすべて吹き飛ばしたのは子供たちとの喜び以外ありません。

 

 

 活動時間は180分。
保護者さんから引き取って、6キロぐらい歩いて、時間内にまたこの場所に戻ってこなければなりません。
この活動をしている時は、常に「作戦・・・作戦・・・」と頭で練っていました。

 三学期、最期の山登り。約一年間で上れる体力になるのか?
一年間を望遠鏡で観るようにして、逆算してプログラム作り。
だから一学期内にこれだけの体力をつけてもらおう。
二学期はこれっと大きな設定をします。

トレーニングという遊びからかけ離れたもので子供と付き合いなくなかったので、「遊び」を通して付き合う。

 

 

 その日のプログラムが長距離さんぽだったら子供の体力に個人差が出てしまう。

早く歩ける子も入れば遅い子もいる。
遅い子も自分で歩いてもらう為に、「遊び」という魔法を使う。
自分で言うのもなんだが、それが僕は上手かった。
結果的に7~8キロの長距離でもみんな歩けた。

 


 この遊びという魔法も「作戦」である。
1回、1回の活動は顕微鏡で観るようにして、現場での反応を元に作戦を練る。
今から思えばその子がワクワクするような事だ。
その子がヒットする短い言葉で誘う。
天使を胸に舞い下りて、その子の守護天使になる姿勢。
活動が終わってからひたすら自問自答。
こういうアプローチでよかったのだろうか?
今度はああしてみようか?

 

 

 説明が長いと子供は聞かない。
というより聞けないのかもしれない。
それは紙芝居で嫌というほど体験している。
出来るだけ短い言葉で、出来るだけ子供が想像しやすい言葉でアプローチ。

 僕のこどもの紙芝居ワークショップの礎はこのさんぽくらぶにあると今、書きながら気がついた。
さんぽくらぶでの研究が本当に活かされているのだと思った。
真剣にやった事って自分の身になる。
人から見たら馬鹿にしか見えないし、真剣さが足りないかもしれない。
けれど真剣に嘘はない。
その真剣を経た上にまた違う真剣にならないと渡れない道がある。
それだけだ。
本当にさんぽくらぶに関わったスタッフや保護者の皆様本当に有難う御座いました。

また復活したらよろしくお願い致します。

 

2018.12.10

 

 

  今日は隔月で行かせてもらっているふれあいサロンでの紙芝居でした。
前回、クイズ紙芝居が好評と聞いていたので今回はクイズの紙芝居のみにしてみました。この現場は年配者の方のみなのです。
ここでの紙芝居はいつも読み聞かせ時代の先輩と組んでやらせてもらっています。そういえばその方は読み聞かせ以外で、なぞなぞやその季節のものを交え言葉遊び的に仕込んできたりしていました。
僕はそんな事も考えずにただ自作の紙芝居を披露するだけです。
年配者の方の事を考えないオリジナルだけの紙芝居と年配者の方の事を考えた上での絵本の読み聞かせと仕込み。

だからバランス的にはいいのかもしれません。

 

 

この現場では僕自身、読み聞かせ時代からすると約10年は通っております。
だから自分が今まで見えてなかった先輩の苦労というのが見えて来たという成長かもしれません。
紙芝居をやりながらでも色々な事から吸収して、紙芝居に活かそうとする時期がありました。
完全に紙芝居はやめませんが、形は変わっても「紙芝居」は続けて行こうと思っています。「変容」です。
全然、違う事をしていてもその中で「紙芝居」にふと出会う事があります。

 

 

 教わるという事は?
今年で40歳です。
どんな習い事でも、道しるべになる人から金言を受け取ったりする場合も20年前の自分だったら、ぼけっとしてそれを口を開けて待っているだけで、その価値も分からず咀嚼できず自分の栄養に出来なかった。
でもあれから20年経ち、自分なりに命をかけた事も何度かあった。自分なりに・・・

だから体験が経験となって、その価値が少しだけでも分かるようにはなったと思う。

 

 

 絵本の読み聞かせの先輩は僕に教えようという姿勢は一度も取った事はありません。

自分が今まで出来ていなかった気遣いに今、僕が気づいたのです。
だからその部分のいい所は真似をしたらいいのです。教えられたって事です。
何を?誰を?どの部分を見本にするかです。

「自分が自分の先生に成れ!」
20歳の時に私に言ってくれた人からの金言です。
今も胸に生きております。

 

 

 教えるという事は言葉だけではなく。姿勢だと思った。
自分が人に教える時もそうです。

これが背中で教えるという事かもしれません。

何でもそうだと思います。バックボーンが大事なのだと思います。

 

2018.11.25 かみしばいがいっぱい~見て、作って、演じてみよう~

 

 

 さて本日はキッズプラザ大阪での紙芝居師たちによるワークショップでした。
本日も3コマとも満員御礼の大盛況でした。

スタッフの皆様、お客さまそして紙芝居の先輩方有難う御座いました。

 

 

 この企画は単独ではなく数人の紙芝居師たち開催する催しです。
しかしキッズプラザは大きな場所なのでとても大変です。
この場でのこの形のワークショップは今回で僕は三回目になります。
暖房の暑さはTシャツと2リットルの水でカバー。あと1コマ目が終わると次が始まるまで時間が本当にありません。
それと多くの忘れ物もあったのでそれを開催するまで仕込まなければなりません。もしこれが単独開催での忘れ物となると時間も手もないので修正はできないから気はひきしめておかないといけません。

 

 

 定番で人気のサンプルの一つ「たまご」。
これを今回はレッドドラゴンが生まれるように作りました。というのも昨日、龍雲を見たからです。

 


男の子たちで好きな子たちは竜という印象が残り、描き始める子が何人かいました。サンプルは一度見せるとホワイトボードに貼り付けます。
一人、竜の書き方で悩む子がいたので、見本をホワイトボードから外して、目の前に置いてあげるとそれを真似ながら描き進めていました。
作りあげた後も僕の絵を手にもってずっと見ていました。本当はプレゼントしたかったんですが、サンプルは次の回でも使うのであげれなかった。仕方がないですね。でもその子が心にある好きと僕が提供したサンプルの中の好きがリンクし、それらが引き寄せ合うのは本当に嬉しいですね。

 

 

 

※僕のサンプルを見本に龍を描く子!

 

 

 今日は朝からの仕込みの時間が少なかったので、サンプル作りも男の子よりでささっと描いてしまったけれどここに例えば妖精とかペガサスやユニコーンの可愛い系のキャラクターが登場させれてたら女の子たちの影響下にも届いたのにと少し反省しました。自分はどうしても男なので、当たり前ですが女性性がない。
それが分かった今、中性性でバランスをとって行くともっとワークショップがやり易くなると思った。

 

※それでも妖精やペガサス、ユニコーンを物語に導入していた女の子たちの絵

 

 

 そして今回は本当に本当に描き進めるのに時間が掛からなかった。
けれど二人だけ描き進めれない子がいました。
一人は女の子でした。白紙の紙を前に中々進められません。
どうアプローチしていいのか、考えます。
実はその子の前に僕が立っているだけで緊張となってそれで描き進められないっという事もあります。その時は離れます。

けれど過剰な放任にもなります。
その辺の間合いの詰め方は文章化できません。
経験と現場での感覚しかありません。
その女の子と何気に喋ってました。そうです。会話は緊張なく出来るのです。
何が描きたいかだけが透明なのです。
なんてない会話をしながらその子の指にバンソーコーを発見しました。

 

「その指どうしたん?」

 

「昨日、学校からの帰りにこけて。指切ったんよ!」

 

「え?学校からてくてく歩いて、躓いてこけたんか?ていう紙芝居はどう?」

 

その子がこけた事を文章化して言ってあげるとその子の自分の頭の中に没頭し始めました。

昨日、体験した事の映像を頭の中で見てるのです!

 

「わかった!自分がこける紙芝居が嫌なんやな~!好きな動物おる?」

 

「うさぎー」

 

「じゃあうさちゃんが学校帰りにこける話はどう?」
その子は黙ったまま頭の中の映像に向かいました。
その場を離れると本当にうさちゃんがこける話を作ってました。

 

 

 この女の子にしたら僕というおっさんはその日初めて会う人で、紙芝居を作るという事は非日常的であり、あまりにも普段からかけ離れた場面に来てしまったという事態なのです。
そこを如何にこの場所はキッズプラザであっても「その子の日常へと導かせる」事が講師のテクニックであり、腕の見せ所かもしれません。
いきなりその子の日常である指のバンソーコーに気づいたのがよかったのかもしれません。
つまり「あらたっまお話を描かなければいけない」というブロックがなくなり、
この子が体験した昨日の事に意識が動いた。
その体験がこの子の下地としてあって大好きなうさぎが出てくる話になったのだ。それを見つけれた事が大きな収穫でもありました。

 

 

 そしてもう一人の男の子。
描き始めからぐずってしまって一向に進まなかった。
色々と進めてみるけれど駄目で、試みるというこの姿勢自体がこの子に違和感を作ってしまう。

こちらの意図がいやらしいのだ。その場を離れて、仕切り話すも進展はなかった。

過剰放任だけは絶対したくないし、このままこの子が出ていくとつまり「面白くなかった」=「紙芝居が面白くなかった」という印象を植え込んでしまう。
気長にそこに重鎮する事にしました。

 

「家で何飼ってる?」

 

「そらちゃん(犬)」

 

「え?そらちゃんって何?猫?犬?」

 

「犬」

 

「犬飼ってるんや!あっそうや。犬って羽生えて空飛ぶよね?」

 

「飛べへんわ!」

 

「嘘ー!」

 

「犬って腕77本あるよね?」

 

「ないわいっ」

 

「ちょっと待って、ほんなら犬描いてみるね」と言って、紙にそらちゃんという犬を想像で描き始めました。

 

「違う!違う!」という突っ込みがバンバン入りました。

 

そこで「じゃあ描いて見て?」とペンを渡すとペンが走りました。
色々と説明してくれます。絵は分かり難いんですが、それでいいんです。
共同でそらちゃんが描けました。
決して紙芝居を仕上げたのではありません。
妥協案のお絵かきだけになったかもしれませんがこれでいいのです。
この関係以上のものはありませんからベストなのです。
そしてその子からみんなの前でこのそらちゃんを発表してくれっと僕が頼まれました。
二人でしようよと持ち掛けますが嫌だといいます。
僕が発表しました。それがとても嬉しかったみたいです。

僕自身オシッコを我慢してまして一瞬、ワークショップを抜け出して便所にいきました。

その子が追いかけてきて、わあああっとびっくりさせられました。
それから他の子の発表の為に舞台で対応しているとその子がそのそらちゃんとの絵を持ってきてプレゼントしてくれました。

有難うね!またねっと言いました。
もう絶対に描かないと思った時点から起死回生しました。
その現場に居られた保護者のおばあさんからこの企画の責任者さまに感謝の言葉が届いたぐらいでした。
僕自身、本当に嬉しいです。

 

テクニック的に言えばその子が買っているわんちゃんをわざと羽が生えていたりと間違って言ったから「そうじゃないっ」という気持ちに火が点いたのでした。

 

 

 僕がワークショップで心がけている事は基本的に絶対に作って欲しいのです。
いやはっきりと言えば私キオナが中途半端に紙芝居というものに出会って、ワークッショップという形であれ参加や開催させてもらう時間内でお子さんが描き進められなかったら「紙芝居は面白くない」という強烈な印象を残す事になってしまうからです。

それは実は紙芝居に関係なく、講師の腕がないだけなので紙芝居は悪くありません。

 

 

 僕自身は紙芝居に命を懸けてる訳でもなく、愛している気もありません。
でもせめてそれは自分が自分の人生でその時間だけでも講師として、ワークショップを受けた子供が楽しくなかったら自分に対しても人に対しても「失礼になる」という信念だけです。
だから「3歳児でも作れる4コマ紙芝居って何だろう?」っと、その普遍的な追求は24時間しております。
プレイヤーとしてはほぼほぼ引退状態なのですが、ワークショップの講師としての方が自分にあってます。
これも若い時から子供に教えるという事で本当に恥ずかしくて言い出せないぐらいの失敗と恥を積んでいるからそれが肥やしになり花が開いたのだと思う。

 

 

 ペンを握ったまま描き進められない子供の前では「さっさと描かないとあっという間に人生終わってしまうぞ」と言ってしまう講師もいます。
そういえる関係柄を築けているのならそれでいいですが、子供の気持ちを察する事なく言えてしまう不干渉の大人が大嫌いです。
紙芝居ワークショップを受けたものの描き進められない子供はまるで難しい宿題を前に手が止まってる状態にいます。

これは勉強じゃないし、誰からも責められる事もない楽しい時間じゃないといけません。

紙芝居がどうのこうのという方向性も意思も僕は正直わかりません。

そんな事よりもその環境を作れる・提供出来るよにするその現場での姿勢と精神が私の仕事なのだ。

 

2018.10.28
 

  本日は大阪西区区民センターさんのハロウィンイベントでの二回目となる単独紙芝居ワークショップでした。
結果的に大大大成功でした。延べ約50人のお子さまが受けてくれました。
西区区民センターの皆様、お客様本日は本当に有難う御座いました。

 

 

 さて僕は短時間紙芝居ワークショップで一番気をつけているのは「描き進められない子でも作れる4コマ紙芝居」を目指しております。
そのために今回、思いついたのはハロウィンのイベントだったのでサンプルの見本を紹介時にハロウィンネタを盛り込みました。
これは結果的に大成功でした。
背景のお祭り全体の後押しもあり、それが見本として刷り込めるのです。
だから描き出しで悩んでしまう時間を大幅に減らせました。

 

 

 そして今回、もっとも効果的だったのは紹介するサンプルの中にクイズ紙芝居を入れた事です。
クイズ紙芝居は作る段階から起承転結を考えずにすみます。
一枚目の題名の紙を一瞬、抜いて、二枚目の絵は何でしょう?と演じる専門の紙芝居になります。

だから絵を描く段階から何を描いてもいいのです。思いついた端から描き殴ってくれればいいのです。
だから演じる楽しさというのが誰でも体験できるもっとも普遍的な形の紙芝居だと思いました。

段取りは大事です。この効率化がアクシゼントに対応できる余裕の時間を作ってくれます。

 

 

 

 さて会場の12席の机を大型ラップでくるみ落書き対策もバッチシです。
しかしワークショップの時間になっても全然、お客様は来なかった。えー!?
そのまま30分経過。もう今日は駄目かもと思っているとそれから怒涛の90分間でした。

何とそれから入れ替わり立ち代り役50人のお子様が受けてくれました。
サンプルを一人一人紹介して、そして紙を渡して描いてもらう。
紙も問屋で1000枚裁断してもらったので十分あります。
一番、大事なのは作るという「始め」があれば完成したという「終わり」を見逃さない事です。
完成したら出来るだけみんなに発表してもらう。

それが嫌という子には僕だけに発表してもらう。この時の僕の反応が一番子供にとって大事になると思います。
媚ずにそのままおかしけりゃ笑う。これは僕の感性のままの感想を言います。

 

 

 芋の子を洗うような状況でも絶対に心がけているのは一人一人の子供の目を見て向き合う事です。

向き合うからそこに共同した時間が生まれ、そこに笑顔が溢れます。
絵が完成した子供が発表したいとやってきます。
その後ろから紙芝居作りた~いっと別の子供がやってきます。
その横から完成したーと違う子供が行ってきます。
一見、僕の頭の中はパニックですが、一人に向き合っている時は頭の中はクリアになります。

 

 

向き合っているのは目の前の一人なのですが、視界の端で次の段取りが分かり、体がどうしたらいいか分かります。
若い時に武道をやっていました。

その時「多人数掛け」という1VS多人数の約束組手の稽古を思い出します。

何人いても向き合うのは一人一人です。
その稽古の大事さが自分の生きてる場面で直面しました。有難う御座いました。

又、この忙しさの中で本当に不備はなかったのか気配りは本当に出来ていたのか?

一人、一人目を見ての対応とか言っているがそう思い込んでいるだけじゃないだろうか?

しかもこれで忙しいと思っていたらいけません。それはまだ自分の実力がその忙しさに追いついていないからそう思うのです。

ヒトリは本当に責任も嬉しさも全部、自分に返ってきます。真剣だから勉強になります。

真剣だからこの時間も全部、自分の人生です。だから生きていけます。

 

 

 そして今回のワークショップで一番嬉しかったのはこの区民センターさんで1回目にワークショップのリピーターさんが来られた事です。
しかも絵本の読み聞かせや紙芝居の活動もされていて、僕の影響を大きく受けたと言ってくれたのが本当に嬉しかったです。

今はプレイヤーよりも教える側に重きを置いているのですが、プレイヤーの活動報告もきちんとしなければなりません。
本日は本当に有難う御座いました。

 

 2018.10.22

 

 今日の現場は年配の方が居られる施設での紙芝居でした。

ここでは出来るだけコミュニケーションを取ります。

ですので本編の紙芝居に入るまでお客さんとはよく喋ります。
クイズの紙芝居をしながらそれにまつわる話から広がって個人さまのエピソードなどあれば語ってくれたりします。

この場ではこのやり方が理想だと思ってます。

 

 

 紙芝居が終わるとその施設の方から年配の方にはやっぱりクイズ紙芝居をするほうが好ましいと言ってもらえました。
その要望を頂いたという事です。

この場でのコミュニケーションがもっと必要だという事です。

 

 

 紙芝居を始めたばかりの頃、こんな事を考える事も思う事もなかった。
絶対に物語を届けるという強い意思の元、自分の作った紙芝居は絶対だと信じていた。

けれど実際、お客さんの前で演じてみれば打ちのめされる。
不完全だという事を思い知る。だからまた作る。だから稽古をする。

100時間ほど作っては、何時間も何時間も台詞を覚える為に声出し稽古をしていた。
今はもう不完全でもいいと思っている。
その突っ込み所を作る事でお客さんとコミュニケーションが取れるし、自分を完全という袋小路に追い込めば追い込むほど八方塞になっていく。

 

 

 不思議だ。

そこまでやって、もういいやっと手放した時に頭からも体からも力が抜けてちょうどいい塩梅になってくる。

今まで作った紙芝居もすべて捨ててやろうと辞めてやろうと思った時にワークショップの話が来て、それが上手い事いっていたりする。

人生って常に逆であり、反対だなってしみじみと思う。

それを欲している時は運命というものはこちらを見向きもしない。

諦めようと思った時、それらが微笑みながらやってくる。

だから

「ちょっとまてよ。どんな形でもいい。続けとこう」。

 

禍福は糾う縄の如しという諺がありますが、幸せと不幸は順番にやってくるような心境であります。