11時半より参議院外交防衛委員会で質問する。
茂木外務大臣に「なるべくしてなった外務大臣就任」の決意を伺い、最初に首里城復元に向け全力で、しかも与党、野党もなく協力すべきと話させて戴いた。
 30分の持ち時間なので日露平和条約、北方領土問題に絞って質問し、共同経済活動で観光パイロットツアーが実施されたことを評価しながら、「来年から船だけではなく、飛行機の利用を進めるべき」と進言した。茂木大臣から前向きな答弁があった。
ゴミの減量化対策、増養殖水産事業を進めるよう求め、特に北方領土隣接地域、根室市・中標津市・別海町・羅臼町・標津町が関わりを持てるよう強くお願いした。
 さらに国後、択捉を世界自然遺産にすべく、文化の面で日露協力すべきと進言した。いずれも茂木大臣からは前向きの話を戴いた。
平和条約締結に向けては、外交は積み重ねであり、信頼関係、歴史の事実に基づいて解決するしかなく、昨年11月14日、シンガポールでの日露首脳会談で安倍総理が決断した「1956年の日ソ共同宣言を基礎にして平和条約の締結に向け交渉を加速する」で合意したが、これに沿って交渉するしかないと申し上げ、11月16・17日チリでのAPEC(アジア太平洋首脳会議)が中止となり、日露首脳会談が出来なくなったので早急に首脳会談をセットすべきであり、22・23日のG20外相会議で、ロシアのラブロフ外相との会談で話をすべきでないかと質した。茂木大臣はさまざまな機会で話をして参りたいと言われた。
私は委員長はじめ委員の皆さんに、1941年12月の不幸な戦争開始、その後1943年12月のカイロ宣言で「1914年第一次大戦で日本が奪取占領した領土の返還」
1945年2月、ヤルタ協定「南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡す」、当時これは密約で日本は知らないでポツダム宣言を受諾したが、一年後、アメリカから通報があり公になった。
1945年6月、国連憲章ができ、日本は敵国条項に入った。
1945年7月、ポツダム宣言入貢に「カイロ宣言の履行、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、諸小島に局限」となっていること。
1945年9月、ミズリー号でポツダム宣言に署名戦争終結。
1951年9月、サンフランシスコ講和条約、第二条Cで「日本国は千島列島並び日本国は1905年9月ポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」
1956年10月、日ソ共同宣言9項で「ソ連は日本国の要望に応え、かつ日本国の利益を考慮して歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」
1956年12月、日本国連加盟、ソ連の協力によるもの。
1960年、日米安保条約改定によりソ連は「外国軍が駐留する国とは領土問題なし」となり、日本は四島一括返還と強く出た。その後、東西冷戦の激化。
1973年10月、田中総理の訪ソ、平和条約交渉の継続で領土問題については進展なかった。
1991年、ソ連が崩壊しロシアになり、9月エリツィンロシア共和国大統領は、「戦後の国際社会の枠組みは、戦勝国、敗戦国にわけられているが、私はその垣根を取り払う。クリル諸島については、法と正義に基づき話し合いで解決する」と発表され、10月中山外相が訪露し、これまでの四島一括返還の旗を降ろし、四島の帰属の問題を解決して平和条約の締結と大きな方針転換をした。
その後、1993年10月東京宣言、1997年11月の橋本総理によるクラスノヤルスク合意、1998年11月、小渕総理の訪露でモスクワ宣言、2000年プーチン大統領が登場し、2000年9月訪露した際、「1956年宣言を日本の国会、当時のソ連の最高会議も批准したもので有効」とソ連、ロシアの最高首脳として初めて認めた。
2001年3月26日、森‐プーチン、イルクーツク会談、この時が一番島が近づいたが、2001年4月小泉政権が誕生し、その後2002年から空白の10年となり、7年前、安倍政権が再登場し今日(こんにち)に至(いた)り、昨年11月14日シンガポールでの日露首脳会談で安倍総理は大きな決断をされた。
安倍総理が決断した「1956年宣言を基礎にして平和条約締結交渉を加速する」これしか北方領土問題解決、平和条約の締結はないと委員長、委員の皆さんに安倍総理の決断に支持、応援をお願いした。
歴史の事実をこれからもしっかり訴えて一日も早い平和条約の締結実現に向け、環境整備を図って参りたい。

※参議院外交防衛委員会で質問