34 天狗党の乱における大発勢の顛末 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

天狗党の乱とは、藤田小四郎ら尊皇攘夷の志士たちが中心となって、幕府に攘夷の決行を促すべく、筑波山に挙兵したのが始まりであり、幕府から、賊徒として、鎮圧の命が下った。幕府の田沼意尊(若年寄)が追討軍総括となって、戦いが始まったこと。那珂湊の戦い、水戸城での戦いがあり、約千名が京都に向けて行軍していき、とうとう敦賀において投降し、大きな犠牲を払って終結したと思われている。

しかし、内実は、水戸藩内の九代藩主斉昭の改革を断行した改革激派の筑波勢や潮来勢と市川三左右衛門を中心として、幕府と結びついていた門閥派が弘道館の藩士達を組み入れた諸生派との内乱状態が発端であった。

その内乱状態を鎮めるべく、幕府の要請により、水戸藩主慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ派遣された。しかし、頼徳の護衛の藩士は約30名に過ぎず、何とか水戸の内乱を治めるべく、そこに同行した一団が「大発勢」と呼ばれる人々である。彼らは、改革鎮派と呼ばれ、水戸藩執政(家老)の榊原新左衛門を中心としていた。また、そこに水戸藩の重鎮である武田耕雲齋や山国兵部たちも加わり、1000人以上にふくれ上がっていた。

 この大発勢については、那珂湊の戦いの中で、幕府追討軍と戦うのを放棄し、投降、その後、賊徒一味として、下総(千葉)銚子の寺預けとなり、更に、いくつかの藩預け(幽閉)の後、幕府は11藩預け替えとして、大発勢は最後を迎えた。ほとんどが重い罪を着せられ、処分されたのであるが、天狗党の乱の中で、あまり語られてこなかった気がする。彼らが、天狗党、諸生党、幕府追討軍をどのように見ていたのか、この戦いをどう感じていたのか、その史料は少ないのではないか。手元に1冊の和綴本がある。















 上の古文書は、『惟知集』と名付けられ、漢文や草書体で書かれた詩歌を集めたもので、手書きで書かれている。塙正の序文が載っており、日付は、干時慶應元年乙丑秋八月である。89名、全ての作者の一覧も最後に載っているのだが、水府系纂やインターネットで調べても、ほとんど分からなかった。しかし、慶応元年に書かれたもので、水戸藩士の怨念や憤りが散りばめられており、ずっと気になっていたものであった。しかし、このブログを書き始め、その中の一人の検索から、全員が一気に分かった。一瞬にして霧が晴れた気がしたのである。

 それは、上記の大発勢が投降し、幕府の処分を受け、二百有余人が川越藩預け(幽閉)となり、城中に禁固という文字が序文に見つかったからである。その序文の一部を抜き出して見る。


・・・我邦奸徒蜂起大乱国家、殆至揺干戈矣、於是乎忠義有志之士民、殉國難者若許人也、或罹賊鋒而致死者、数十人矣、或就禁錮而幽居者、千二百有餘人矣、今吾輩二百有餘人禁錮川越藩之城中也、数月矣、各賦詩詠歌而述忠誠奮悶之情也、集而為一巻矣、嗚呼為此集也・・・


 幽閉されている中で、一人ひとりから、それぞれの詩歌を集めた苦労は大変なことであったろう。彼らの詩歌を、しっかりと読んでみたい思いである。