無門会空手 福岡本部道場 ブログ

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「未来を創造する理想の武道空手道」
   無門会空手 福岡本部

無門会空手 福岡本部道場の稽古ブログです。


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7年前の拳…砂袋を叩き、モノを叩き、人を叩き…

「剛」の力で、目の前の壁(障害)を超えようとしてきた。体を鍛え武器化して乗り切っていくことが、ひとつの自分のアイデンティティでもあった。


その頃に、突然クラッシュしてしまった体…

余命宣告までされ、医学の力でギリギリ一命は取り留めたものの、今後空手は不可能(禁止)とドクターから言われて7年が経つ。


そんな中でも、いつも側にあって決して(心から)離れることがなかったのが無門会空手。

昨年10月の(想定外の予期せぬ)移植により、どん底状態にあった体は、普通の生活ができるレベルまで回復した。


それから1年が過ぎ、おかげさまで組手が出来る(闘う体になれる)までになった。


今、拳から発せられる波動は、自分を見つめ直す…まわりへの感謝…自己のイノベーションとなっている。

  より広く、より高く、より深く…そう在りたい。

書は心画」(心の絵であり、心操の投影)

と言われるように、

武(空手道)もまた、「心道」と言えるでしょう。

一本一本の突き,蹴りという形象に込めた己の心を正し、直していくのです。

 

前向きな時もあれば、心が後ろ向きな時も・・

楽しい時があれば、苦しい時も・・

仲間がいる時もあれば、孤独に耐える時も・・

希望に燃える時もあれば、絶望に打ち消される時も・・

 

森羅万象は諸行無常です。万物も人間の心も、常に流転しています。

その中で、一挙手一投足に現れる心の状態を正していく・・

これが、稽古であると考えます。

自己満足的な強さの先にある(人間的,社会的)責任こそが、

己を尊び、人に及ぼす意義と言えるでしょう。

己の肉体と技術、精神を駆使して臨む無門会空手の試合は、

日常を超えて非日常の世界へと深く入り込んでいきます。

それが「深化」と呼ばれるものです。

コンフォートゾーン(居心地の良い場所)に居続けていても、人間は成長できません。

楽を望めば望むほど、何でもないようなことまで苦痛に感じるようになります。

ようするに、自分の生きるゾーンが狭くなるわけです。

そうなると色んな環境にも適応できなくなります。

苦難,苦痛,屈辱・・は、誰の人生にもやってきます。

その試練を体感する(学ぶ)大切な場が、試合(組手)でもあるのです。

 

「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、

其の筋骨を労せしめ、其の体膚を窮餓せしめ、其の身行を空乏せしめ、其の為さんとする所を払乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり。」

(天が重大な任務をある人に与えようとする時に、必ずまずその人の精神を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、

その肉体を飢えさせ、その行動を失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものだ。

これは、天がその人の心を発憤させ、性格を辛抱強くさせ、こうして今までにできなかったことも出来るようにする為の貴い試練である。)

 

という、孟子の有名な言葉があります。

苦難に出遭った時に、どういう心構えで乗り越えて

いけばいいのかを、孟子は解答を示してくれています。

私は無門会空手を始めて30年超になりますが、

稽古、組手(約束自由1本からの受けの訓練)を通して、

この孟子の言葉の意味を理解するようになりました。

唯物的な強さを求める技術の進化もそうですが、

至難に立ち向かう「受け(受即攻)の訓練」では、

唯物史観を越えて、唯心史観へと入り込みます。

その経験,積み重ねが、「人生哲学」として、自分の生きる支柱となっています。

これもひとえに、富樫宜資十段(宗主会長)が人生を懸けて築かれた無門会空手の、

またひとつの真価であると感じています。

無門会空手の稽古,組手、そして試合というものは、

人生を生き抜く為の武器を築いてくれます。

 

武器(身体,スキル,精神,知恵,哲学・・)というものは、自己防衛力であり、止揚発展することに、武道の意義があります。

(色んな意味での)仕事も、人生にも、

締め切りというものがあります。
それまでに終わらせないといけない任務、

使命があります。
期限がはっきりしていれば、まだいいのですが、

人生の期限は誰にもわかりません。
だから、「今」を後伸ばしには出来ないのです。
やろうと思ったこと…
やらなければと思ったこと…
それが出来るのは、「今」という次元だけです。

私にとって武道の根幹を為す「組手」は、

空手という概念を超えて、

生きる(生き抜く)訓練であり、

精神の浄化であり、

相手の方への敬意と感謝です❣️

何の為に…
己を鍛える、戦う…そこには、肉体的精神的苦痛もあり、困難苦難もあり、物理的に厳しい問題にも直面することもあり、平穏な日常とは違った場にいることになります。
しかし、そこで学ぶものこそ、生きる武器であり、自己防衛力です。



何も考えず、社会(政治、教育、情報媒体…)の流れに寄り添い進んでいたら、危機的状況になる未来が目の前まで来ています。
防衛は、決して人任せにしてはいけないのです。
情報、(幅広い意味での肉体的精神的)武器、そして行動です。
個人でも、国でも同じです。

自ら学ばざるして、未来は築けません。

私にとって、武道(無門会空手)は、実践して創る自己防衛力(生き抜く力)であり、哲学であり、道徳倫理です。

「武道の本質」は、単なるスポーツとかではなく、競技でもなく、

技術(実践)とかけ離れた精神論の世界でもありません。

そこに在るのは、積み重ねて深化していく技術であり、

万象万物に通ずる心の在り方であり、生きる支え,軸です。

年齢,体力等を超え、自らの実践により証明できる「極意の世界」が、ここにあるのです。

それが、富樫 宜資十段(宗主会長)が人生を懸けて築かれた無門会空手の真価です。

 

 

「汝の足下を掘れ、そこに泉湧く」という言葉があります。

物事の本質・真理は外にではなく、自己自身の内に求めよという意味です。

それには「気付く」ことが大事で、気付きによって考えが深まり、

行動が変わり、その人の生き方が変わる。

つまり、人間は気付くことによってのみ、自分を変えることができるということです。

 

人により、立ち位置も違うし、置かれている環境も違います。

何かをやるにおいても、(環境が)満たされている人もいれば、そうでない人もいるでしょう。

しかし、満たされているから出来る、

満たされていない(環境が悪い)から出来ないで決めつけたら、

そこに成長,創造はありません。

自分に与えられている立場に気付き(それを受け入れ)、

そこでどう考え、どういう行動をしていくのかが、

「泉が湧く」かどうかということです。

 

30年数年前に、無門会空手を九州でやっていこう!と決意したときは、

まわりに人は皆無でした。

稽古相手もいない・・大会に行くのもいつも一人・・おまけにお金もない(笑)・・

しかし、志(夢)だけは高く掲げて、

今自分に出来る最大限のことを積み重ねたつもりです。

5年・・10年・・15年と、足下を掘り続けた結果が、

泉が湧いてきて、夢が現実のものとなりました。

こうして歩んできた道が、自分の空手道であり、人生の哲学となっています。

 

無門会空手の稽古は、自分の人生に寄り添って支えとなります。

 

  そして必ずや大きな力となり、生きる軸として寄与していくと確信しています。

 

2020年からの未曾有の事態により、社会活動、経済活動、学校・・全てが滞り、大打撃を受けた世界中がパニックに陥りました。

自粛・・マスク・・ソーシャルディスタンス・・

人々は、恐怖に心を支配され、行動の自由を失い、経済は低迷しました。

 

兵法で有名な『孫子』の一節に

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」

という言葉があります。

事の本質を理解せず、情報に洗脳され行動が抑制される前に、

自分で調べ考えることが大切です。

その上での行動なのです。

 

この現象が人工的なものであろうが、政治的意図のものであろうが、

まずは自分がどう捉えて、どういう行動を取るかが問われます。

 

武道を志す者としては、非日常の時でも、平常心で淡々と事に当たりたいものです。

 

 

スポーツは、ある一定条件下(環境,ルール,対戦相手)において競い合うものですが、

武道は、与えられているものが全てです。

不平等もあり、不利な条件もあっても、それを己の力で超えていかねばなりません。

自ら考えて、努力精進していく、厳しい世界です。

満たされていないからこそ、努力,創意工夫でそれを埋めていかねばならないのです。

 

そうして先人たちは、不自由を克服して、人生の軸をつくってきました。

 

我々もその恩恵に胡坐をかいているだけでなく、

常に現状を打破していく精進を積み重ねていかねばなりません。

 

 

  それが、「武道の実践」だと、心得ております。