司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズは、日本の歴史のみならず、世界中を自らの足で旅をして、帰国されてから紀行文として書かれているものが多い。
たとえば、今回紹介する三浦按針ことウイリアム・アダムスや東京駅の八重洲の元になったヤン・ヨーステンなどのオランダ人なども相当面白い話ではある。
で、徳川家康が江戸に城下町を開くにあたって、秀吉の助言が元になったことは真実のようである。
『街道をゆく1』の湖西の道、甲州街道では小田原の北条早雲が小田原の山塊に城を築城して、何代かに渡って関東平野を守っていたが、あまりの広大さゆえに関東地方の真ん中に首府を置かず、西のすみのそれも箱根大山塊を後ろ盾にして城を堅固に設け、その天嶮にかくれつつ、へっぴり腰で関東に手をのばしては経営していたような印象がある。(原文ママ)
太田道灌が室町時代、足利義政が将軍のころに江戸という漁村に小さな城を築いた。
武蔵の国のこの武人は、歌人としても高名であったがゆえに、寛正五年(1464年)に京にのぼり、将軍義政に拝謁し後土御門天皇にも拝謁がかなうという栄誉も得た。
「武蔵の国とはいかに」という帝からの問に
「露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原」 と道灌は歌をもって答えたそうである。
帝も歌人として『紅塵灰集』という歌集までもたれていたと、司馬遼太郎氏は解説する。
で、秀吉が家康に「あなたに関東をさしあげよう」
と言ったのは天正十八年の小田原攻めの時らしく、石垣山一名笠懸山でのことらしい。
「大納言どのこれへ候え」と秀吉が家康を呼ぶ
そして崖っぷちにゆき、小田原城を見下ろしながら小便をした。
「破れ家のつれ小便と申し候」
というもので、家康にも小便をしろというのである。小便をしながら、関八州はあなたにさしあげる、といったらしい(原文ママ)
要は先祖伝来の三河という地から根こそぎ引き抜き、家康というおそるべき者を縁もゆかりもない関東の新地に移し変えたかったのである。と遼太郎氏は分析する。
ー 府城は小田原はよろしからず、武蔵野国江戸なる村に置かれるがよろしかろう
秀吉は家康をおそれていた、とともに、自分の知恵誇りをするきらいがあったそうで、実際
ー 大領域をおさめる城下は海港をもつべし
というのが、秀吉の国土経営の新思想であったかと思える。
それまでの勢力圏の首地というのは、海から離れている。奥州藤原氏の平泉、大内氏の山口、上杉氏の春日山、長曾我部氏の岡豊(おこう)、京都など、わざわざ内陸に府都をもうけた。
海に面した土地へ意図的に進出してそこに大城郭をつくった最初の人は秀吉であった。(原文ママ)
海路を持つことにより、政治情勢や通達の迅速化が図れり、内外貿易の商利もこの海浜城下に集めることができる。実は秀吉の親切心からでたものであるらしい。
しかし、当時の江戸城は「城は、かたちばかりにして、城の様にもこれなく」
と『慶長見聞集』にある。
屋内は雨漏りし、敷物も腐っている。部屋は土間がほとんどで畳すらない状態。
しかし家康は天正十八年八月一日(1590年)に江戸入りした。