以下は「対少子化政策の論点」第9章から抜粋。

 

 

対少子化政策を考える上で

 

対少子化政策を考える上で前提となることが一つある。それは逆コースが難しいということである。日本の歴史を振り返ると、今の時代以外は少子化という問題を抱えていなかった。そういう意味では、いつの時代に引き戻したとしても、過去と同じ状況になるのであれば、少子化問題は解決することになる。しかし、いつの時代を理想化したとしても、その時代に戻れば、国民の生活は大きな抑圧を受けることになる。それは社会が変化し、国民のものごとに関する感受性が変化しているためである。

日本人の心のあり方や日本の国としての気概を過去から未来に向けて引き継いでいくことに大きな意味があるとしても、少なくとも少子化問題に関しては、過去の家族関係を形式的に続けることは難しい。変化していく社会に合わせる形での日本的な答えはあるはずである。日本の発展や進化と共に、現状にふさわしい答えがあるはずであり、それを模索することが求められている。

 

そして、社会保障政策は必要である。一般的に、自助が全ての前提にあるとは言え、日本を維持するためには出生率を人口置換水準にまで戻す政策が必要であり、それは自助以上のものを提供する社会保障政策である。晩産化や子育てを支援する制度を再構築し、日本は少子化から脱却しなければならない。

 

ただし、出生率を引き上げる社会保障政策には限界がある。一つには、それがまだ確立した政策として成り立っていないために、それぞれの施策にどれほどの効果があるか分からないことである。しかし、しっかりとそれぞれの要因を分析し、海外の事例等に依拠する中で、ある程度の合理的な政策形成は可能である。また、それぞれの政策の費用対効果をしっかりと調査することによって、常に政策を合理化させていく余地がある。そうすることで、将来のいつかの時点では、日本は少子化から脱却できるはずである。

しかし、そこにはもう一つの問題がある。それらの出生率を引き上げる政策は、人のあり方、家族のあり方、自由のあり方と鋭く対立する可能性がある。国の政策が国民を強制する可能性を秘めている。そのため、政策は十分に議論し、常に見直される必要があるだろう。

 

とはいえ、誘導的な政策は可能であると思われる。一定の価値観を誘導する政策になったとしても、それ以外の価値観や選択肢を容認することは可能である。例えば、結婚を支援するような政策をとったとしても、それは結婚をしたくない人を強制的に結婚させることとは異なる。その意味において、その政策はある価値観を支持することになるものの、強制性を持ったものではない。結婚することに価値観を置いてない国民にとっては、結婚を支援する政策を実施することは行政の無駄に感じるかもしれないが、日本を維持するという前提においては、それらの政策は正当化されるはずである。もちろん、それらの政策も十分に費用対効果を判断されるべきではあるが。いずれにせよ、日本の社会保障制度は国民の多様性を前提としたうえで、それぞれのライフコースにあった社会保障のあり方に再調整される必要がある。平均的な国民を対象にすることはもちろん重要であるが、ライフコースに多様性がある以上、それに合わせて再調整されなければ、制度自体が意味を成し得ない。

 

また、対少子化政策は倫理的な問題も孕んでいる。特に、それは生命倫理の問題であり、不妊にどう向き合うかという問題である。日本は宗教的な制約が弱い国であり、生命倫理に関しても多くの価値観や観点が存在しており、倫理的な制約が実質的な制約となることは困難である。その状況は欧米の先進国とは異なる。倫理的な制約が効かない以上、日本は法的な制約をしっかりと議論すべきである。何が正しくて何が間違っているかは先天的に決定するのではなく、法的な議論の中で、現状の一定の解を出すべきである。特に、家族関係を中心として、一定程度の立法的議論が必要な局面にあると言える。

この倫理的制約と法的制約の議論に似ているが、日本の子育て支援制度の中には、制度は整備されているものの、実質的に機能していないものがある。それこそが、日本が子供を産み育て易い国だと認識されていない理由であると思われる。制度の存否だけではなく、制度の利用度が重要であり、それは制度の利用し易さの問題であると言える。制度をより利用し易いものにすることは日本の少子化問題を解決するための重要な柱であり、行政がそもそもそれらの制度のあり方を担っているので、具体的な解決を図り易いものでもある。

 

日本の対少子化政策を考える上で、これらの留意点がある。とは言え、全ては乗り越えらえるものである。これらを全て乗り越え、最終的に出生率が回復し、日本という国が維持されることを期待したい。