社会党の党本部の中には社青同出身の活動家が沢山いた。それは当たり前の話で、結局、社青同は本質的に社会党の青年組織であり、そもそも党活動に従事している人たちも属していれば、その後に党務に加わる人たちも沢山いた。

 

 この中には最初から過激派が含まれていたが、更に、この社青同の周りにはもっと過激化した集団がいた。彼らは共同でいろんな闘争を行っていたため、社青同は常に中核派や革マル等の革労協並に危険な組織と一緒に活動していた。

 

 これらの過激集団は左翼運動の中の極左であるが、彼らは左翼右派とも組んでいた。社青同の主導権争いする際に、主力の左派に対抗するため、極左である解放派は右派と頻繁に連携していた。彼らは共に社青同という器の中で存在する派閥というだけでなく、お互いに敵対しているわけではなかった。

 

 このような人たちが民主党の事務局のバックボーンとなっていた。それは民主党設立の際の党務の支援を社会党右派が担っていたからである。

 

 その事実がはっきりとした形で現われているのは民主党政権が奪取した際の政策INDEXである。それはマニフェストよりも多くの政策テーマを含んでいたが、そこには多数の極左的政策が潜り込んでいた。

 

 それはこのINDEXを作る作業に関わる党本部に多数の極左が紛れ込んでいたからである。それは同時に、一部の民主党主導の工作がこのような過激化した集団に支えられていたことを意味している。

 

 更に、ここで重要な事実があり、この母体となっている社青同解放派とは東大社青同が基礎になっていることである。それは革労協も同じであり、東大社青同が日本における左翼過激思想の理論的基礎になっていた。

 

 それは、社青同出身の人たちの中に過激思想を依然として持っている人たちがいるという単純な事実だけでなく、革労協という左翼過激派と東大出身の左翼の一部が同源であることを意味している。