漆間巌と石川重明の大きな差は左翼過激化していたかどうかにあり、石川が長官になれなかったのは左翼過激派シンパではなかったからである。

 

自分に対する工作のことを考えても、電波工作自体は90年代半ばまでには左翼過激化した警察官僚に支配されていたはずである。石川重明が裏理事官であったのはそれよりも前の時期であり、彼自体は元々左翼思想を持っていなかったはずであり、左翼過激化しようがなかった可能性が高い。

 

 つまり、当時の電波工作を支配していた左翼過激派シンパの警察官僚からすれば、身内を長官にしたいはずであり、だからこそ、漆間が選好されたと考えられる。

 

逆に言うと、公安の左翼過激化は漆間巌からスタートしたのではない。彼は1969年卒業であり、左翼学生運動のピーク時に学生であった。その年をピークとして前後に多くの左翼傾向を持った人たちがおり、その中に過激化した人たちがいる。

 

 左翼過激派全体についても当てはまるが、そもそもの過激派指導者は1960年安保の経験者が多い。学生運動においても1960年の学生の中に左翼過激化のリーダーがおり、来たるべき1970年安保闘争に向けて過激活動を活発化させていた。

 

1965年入学で1969年卒業の漆間巌はかなり後の世代で、公安内部の左翼過激化のリーダーもやはり1960年前後に学生をしていた人物のはずである。彼らこそが電波工作を通して、この長官人事に影響を与えていた。

 

 もし、当時の佐藤次官が林刑事局長や金重警備局長のように入院した後に退職していれば、石川重明がそのまま次官に昇格し長官になった可能性が高い。それは彼が官房長だったからであるが、同時に、彼が佐藤と同期だったからである。

 

 警察の組織運営上、同期が長官を連続して担ったことがない。おそらく、警察庁長官に権力を集中させるためだと思うが、長官人事が決まる時点までには、ほぼ全ての同期は退職する。石川重明が長官同期にも拘わらず警視総監になったのすら例外中の例外と言える。警視総監や内閣のポストのように警察庁内部のランクに入っていない官僚として残ることはあるが、そのケースも頻繁にはない。

 

 つまり、佐藤次官に対する電波工作を強化するか、そのまま継続していれば、石川重明が次官になり長官になっていたはずである。そして、彼は電波工作を行う側におり、その能力を完全に理解している一方で、佐藤次官は倒される側にいた。

 

しかし、佐藤がずっと入院し続けることはなく、そこには別の何らかの意思があり、結果として、石川重明は警視総監になり、漆間巌が同時に警察庁次長になった。