どうしてもマスコミに対して言いたいことが1つだけある。

 

世の中にはいろいろな考え方や思想的立場があって、それぞれが言論の自由の中で認められるべきである。そのため、ある意見に対して賛成反対はあり、その立場が本質的に間違っていたとしても、その意見表明自体は制限されるべきではない。自分は本質的にそのように考えている。

 

ただし、拷問が行われているのを知りながら、違法行為を続ける警察に投降するように主張し続けた人たちがマスコミの中にも存在し、その考え方は全く理解できない。そのような国家主義的な考え方も1つの考えとして社会では受容されるべきかもしれないが、犯罪を続ける国家組織に対して無見識に従うことを進めるような意見をマスコミが主張するのは自分の理解を超えている。

 

そもそも、自分は犯罪を犯しておらず、警察に出頭しようにもそんな理由はどこにもなかった。治安が大事なのか、何を求めているのかは知らないが、国家権力と共に自由を抑圧するような考え方をマスコミが支持するのは間違っている。それは法治国家を根底から否定している。

 

同じ紙面でえん罪を大きく否定しておきながら、全く同じ紙面でえん罪を受け入れろという主張を繰り返した人たちの考え方は自分の理解を超えている。その機関は権力に従ったのではなく、権力と共犯関係にあって、その結果としてそのような自由や民主主義を否定する考え方を主張していたのかもしれないが、それは重大なことを意味している。その主張は同時に、ここまで書いてきた全ての拷問や犯罪に対しても共犯関係であったことを意味している。ここまで述べてきた暗殺やマニピュレーションを共犯者として実行したのか、あるいは権力の奪取に関わってきたことを意味している。

 

そこまで主張するのであれば、潔く全ての犯罪を紙面で認めれば良い。自分たちは自らの理想を実現するために、多くの人を物理的に殺し、多くの人を社会的に抹殺し、それら全ての行為は崇高な理想のためには必要な犠牲だったと言えば良い。

 

当時は、ここまでのことだと知らなかったと言うのであれば、普通に反省すべきである。国のリーダーを含めて、ほとんどの人たちは工作がどこまで深く行われていて、電波工作がどれほど危険で、どれほど国を歪めてきたかを知らなかった。知っていたのであれば別だが、知らなかったのであれば、このような狂った工作の責任を負う必要はなく、ただ反省すれば済む範囲だと思う。

 

念のためであるが、自分と政治信条が全く合わないグループのマスコミの人たちの中にも、自分に対して同情的な人が沢山いた。どちらかと言うと、そのような人が大多数であった。2012年当時は多くの人がまだ電波工作について理解していなかったと思うが、それでも、そこに拷問があったことは理解しており、警察による暴力や国家による暴力は何にも増して排除されるべきだと思っていたからである。それは、ある意味、日本の歴史に対して真摯に向き合うことでもある。

 

いろいろな理由で国家の介入を受けざるを得ない場合はあるだろうし、その屈辱に耐えなければならない時もあるだろうが、嬉々として国家による暴力の片棒を担ぐのはいつの時代でも自殺行為である。もちろん、それも1つの意見と言えるかもしれないが、それが具体的な形を持ったときは犯罪であり、それは現代の民主主義の中では、あるいは法治国家の中では許容される行為ではない。