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店町は駅のベンチに静かに腰を下ろした。雨が降り続くホームを快速電車が少し速度を落として通り過ぎていった。

店町はレジ横の顕微鏡を見た瞬間から言い知れぬ寂しさを感じていた。

 

佐藤は、できることなら研究の世界に戻りたいと考えている。今でも研究の道をあきらめ切れないでいる。レジ横に飾られた顕微鏡がその気持ちを物語っていた。佐藤は自分が起こした事件のことを悔いている。店町は「もしもなんてこの世の中には存在しないと思います」と自分が言ったとき、佐藤がショーケースの一点を見つめたまま黙ってしまった佐藤の気持ちを思って、しばらく動けなくなった。店町の前をまた電車が通り過ぎていった。

 

四年の歳月は佐藤に反省の時間を与えたが、その対価として限られた許ししか与えなかった。佐藤はその間、社会的制裁を受けると同時に自ら自分に対して制裁を加え続けていた。真面目さからくる罪の意識がそうさせている。佐藤はこの先も自分を許すことはきっとないだろう。そのことが店町の心に痛かった。

 

店町は再び公平な制裁というものについて思いを巡らせた。いくつもの答えが浮かんでは消え、また別の答えが現れては消え、店町を混乱させた。はっきりとした答えなど見つからなかった。

 

被害者が加害者に対して公平な制裁を与えることなどあり得るのだろうか。いったい何をもって何に対して公平であると言えるのだろうか。制裁を与える過程で必ず心が邪魔をする。感情的になれば過剰な制裁を与え、感傷的になれば本来与えられるべき制裁を与えることができなくなってしまう。

 

今回のセクハラ事件で、店町は軽はずみな行動には出なかった。過剰な制裁を与えずに済んだ反面タイミングを逃してしまった。本来許されるべきでない行為を自然に許してしまう心が、宗像に対する忠誠心という形で知らず知らずのうちに店町の中に根を下ろしていた。

 

法の定めるところに判断をゆだねればいい。確かに表向きの処理はそれで済むかも知れない。しかしそれは人の心を軽視した解決としかなり得ない。被害者が本当に望むもの、それは外部からの制裁ではなく、加害者たる本人が自らを責め苦しむ自己制裁、つまり反省という名の制裁ではあるまいか。

店町はそう考えるようになっていた。

 

時間の経過が店町の呪縛を軽くした。時間が記憶を薄れさせたとともに、過去の出来事を冷静な目で見つめることができるようになったのである。

 

あの日宗像が発した言葉は店町の理解の範囲を超えていた。驚きの感情は、わずかの間をおいて怒りの感情へと変化した。裏切りに対する怒りだった。その怒りが悲しみに変わるのにもほとんど時間を要しなかった。尊敬していた人物に裏切られたという深い悲しみだった。怒りが直接悲しみに変化したのではなく、怒りが落ち着いていく過程の中で、店町は悲しみを人間社会のはかなさとして理解したのだった。一時的な感情的感覚は、時間の経過とともに別の思いへと変化した。理解はおよそあとからやってきた。その過程には一種の苦悩が伴った。

 

理解のあとにやってきたのは、苦悩を克服したという爽快感だった。しかしその理解は、また新たな苦悩を店町にもたらした。理解してしまった、理解できてしまったという苦悩だった。過度の理解は罪悪なのだろうか。

 

表面上では、あんなやつのことと否定していたが、それは店町にとって強がりでしかなかった。かつて尊敬していた人間に対する非難の叫びが自分を締め付け責めるのである。これを悲しみ以外の何と呼べるだろうか。

 

やがてその悲しみは、もうひとつ形を変えて店町の中にとどまった。復讐心である。一時的な怒りを抑えることはそれほど難しいことではなかった。しかしこの復讐心は店町を疲れさせ、そしてときに力を与えた。

 

店町は誰かに共感を求め、慰めを求め続けている。

 

表面上の共感や慰めでは意味がない。かといって、いまさら宗像が非を認めて反省するとも思えない。反省してほしいといくら願ったとしても、店町程度の影響力では宗像の心が動くはずがない。

 

店町は米光会長に手紙を書こうと何度も試みた。しかし書き上げることはできなかった。宗像の名前で決算報告の手紙を書いていたときのように筆はすらすらとは動かなかった。宗像を取り巻く環境のすべてが霞んで見える店町にとって、返ってくる答えを待つことがひどく恐ろしかったのである。答えなど知らないほうが幸せかも知れない。尊敬する人物に裏切られた無防備な心の傷はそれほど深かった。

 

影響力の強い人間を動かすには、それ以上の影響力を持って挑むしかすべはない。そのことに気が付いたとき、店町は待つことにした。時期が来るのを待つことにした。

 

店町は信じることをあきらめない。それが愛する人間に対してならなおさらである。人を愛するということは信じるということである。たとえその結果、再び裏切られ、悩み苦しむことになったとしても、店町は信じることをあきらめない。それが愛するということだからである。

 

店町はそれまで宗像に対して持っていた感謝の気持までを否定してしまうことをやめにした。努力してそう心掛けるのではなく、そのほうが自分にとって自然だということに気付いたからである。それまで怒りや悲しみの影に隠れていた感謝の気持ちが、数年の年月を経て顔をのぞかせたのだった。

 

この事件の周辺で人々の発言や行動を狂わせたのは、優越感に対する憧れ、一度手にした優越感を維持したいという人間の欲望である。

 

ときに権力は優越感そのものとなり、金も優越感そのものとなる。美しい女性は他に変えがたい優越感を男にもたらす。

 

それらを手にするため人は努力を惜しまず、人を蹴落とすことも辞さない。優越感への憧れはときに大きな力を与えてくれる。しかし手段を誤れば人生を誤ることになる。

 

優越感を手にしたとき人は幸せを感じる。それ相応の幸せを手にするためには、それ相応の努力と忍耐が必要である。宗像泰造という男はその両方を持ち合わせていたからこそ今の立場までたどり着けたはずである。

 

しかし調子が良くなると、彼は楽をしようとした。権力とお金を利用して、努力を怠り時間を短縮しようとした。自分で決めていたルールを自ら破ってしまったのである。企業家の素養として最も必要だと認識していたはずの自制心を忘れてしまったのである。

 

野生動物は社会ルールに誠実である。ルールを破ったものに対する制裁も平等である。群れを押しのけて進もうとする白鳥は、周囲からくちばしでつつかれ、やがて群れの中から孤立する。横柄な態度は平等に制裁を受ける。

 

しかし人間社会は不平等である。それは心という人間特有の、人間が生まれながらにして備えた本能の上に位置する精神作用が邪魔をするからである。

 

店町の社会人としての第一歩は、君だけは特別扱いするよ、というメッセージとともに心は宗像というひとりの男にゆだねられ、握手という手段によって、それは確固たるものとなっていった。

 

特別扱いという待遇を自らの力で覆すことができなかったとしたならば、その立場に流され溺れ、そしてもはや後戻りできなくなっていただろう。緩やかでしっかりとした本流にいたはずが、いつの間にか流れの速い不安定な支流に入ってしまう。やがてたどり着く海の様子は明らかに違う。支流に入りかけたときに気付かなければ、もはや本流に戻ることはできない。その機会はおそらく一度きりである。

 

宗像のことを信じ続けていた総務部長は、店町の口から真実を知らされたとき、宗像の裏切りに対して涙を流した。しばらく姿を消して苦しんでいた。しかし今だその立場に居座り続けている。直接的被害者でなかったために飛び出すことができなかったのである。

 

彼には部下を守るべき立場と、上からの命令に背けない立場ゆえの苦しみがあったに違いない。その心理も今の店町には理解できる。そうせざるを得なかった気持ちも理解できる。彼が悪いわけではない。その彼の名誉のためにも、店町は被害者たる自分が戦い続けなければならないと固く心に決めた。

 

店町が転職して二年ほど経ったある日、アランドリーと栄陽電機との間で続いていた特許訴訟問題の一審判決の記事が新聞紙面をにぎわせた。その判決は、アランドリーの製品が栄陽電機の持つ特許を侵害すると認定し、賠償金二十億円の支払いと、製品の製造販売の差し止めを命じていた。

 

さらに裁判長は、アランドリーの訴訟態度について、他社の権利を尊重し、信義誠実な取引を心掛けるという法令順守の観点の欠如が甚だしいと批判していた。

 

そのニュースを知った店町は、なんとも表現のしようのない喜びを覚えた。そして自分の中に未だ消ええぬ復讐心が宿っていることを知った。

 

アランドリーのホームページには、その一審判決は到底納得できるものではなく、即刻上訴する旨書き記されていた。問い合わせ担当窓口は総務部長となっていた。

 

宗像は最後まで自分の意志を貫くつもりなのだろう。店町は離れた場所からその結末を見守ることにした。

 


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