(096)

佐藤のことを思い出した際に気付いたことだったが、店町はかつて恨んだ彼の行為を今は許していた。それだけでなく、佐藤に対して感謝の思いまでも芽生えはじめていた。佐藤との出会いがなければ宗像や刈谷との出会いはなかった。怒りや恨み、そして復讐心。それらにブレーキを掛けているのは、間違いなくその感謝の気持ちだった。

 

しばらくして店町は佐藤に会いに行った。彼は和歌山で小学校に隣接した小さな文房具店を経営していた。大きなランドセルを背負った学校帰りの児童たちが店町の側を歩いていた。

 

『佐藤文具店』の看板が掲げられたその店先には、回転式の判子スタンドが三台置かれていて、その横の台には様々なサイズのファイルが山積みされていた。スライド式のドアを開けて店町が中に入ると、来客を知らせるチャイムが鳴った。

 

奥から人が出てきた。佐藤正照である。店町の記憶にある姿よりも少し痩せていた。佐藤は店町の顔を一目見てすぐに気付いたようで、少し気まずそうな表情で「いらっしゃいませ」と小さく言った。

 

「お久しぶりです」

 

店町のこの言葉には、様々な思いが込められていた。学生実習で指導を受けていた頃から事件発生の頃、そしてお互い会うことなく過ごしたこの四年間。お互いの頭の中には様々な思いが渦巻いた。

 

店町は佐藤に案内されて奥のスペースの丸椅子に腰を下ろした。店の中は整っていた。佐藤の几帳面な性格は健在のようである。

 

「お店はおひとりで……」

 

「ええ、アルバイトがひとりいますが、今日は休みなんです」

 

佐藤は遠慮がちな話し方だった。かつて自分が起こした事件が店町の人生をどのように変化させてしまったかを気にしている様子が伺えた。少し不自然に作ったその表情は、目の脇の小皺が四年前より深くなっていた。

 

佐藤は電気ポットの湯を注いでインスタントコーヒーを入れた。電気ポットを無表情に眺める店町の視線に気付いて佐藤はこう言った。

 

「大丈夫。アジ化ナトリウムなんて入ってませんから」

 

店町はこの冗談に笑うことができなかった。

 

しばらくの沈黙の後、佐藤がテーブルの上にカップを置いて店町の前に座った。

 

「店町さん。四年前、私はとても悪いことをしてしまいました。それからずっと反省の毎日で今日まで過ごしてきました。その間にも何人かが私の様子を見に来てくれました。でも、今日ほどうれしいことはありません。私をとても慕ってくれていた店町さんが会いに来てくれたのですから。いつか皆さんに直接謝らないといけないと考えていました。多くの人たちの人生に悪い影響を与えてしまったわけですから。店町さんがどのような思いで来てくださったのかはまだわかりませんが、私はあなたの顔が見れてとてもうれしいです」

 

そう語る佐藤は目にはうっすらと涙を浮かべていた。

 

「確かにあの事件は、反社会的行為だったかも知れませんが、私はあの事件が残したものは悪い影響だけではなかったと思っています。少なくとも私に対しては悪い影響だけではありませんでした。あの事件以降、私は多くのことを学びました。あの事件がなかったとしたら、私の人生は違うものだったと思います。でも、その違った人生が本当に自分にとって良いものだったかを想像すると、そうとは言い切れない何かがあると思えるのです」

 

佐藤は店町のほうをじっと見つめて静かに聞いている。はじめ緊張気味だった表情も次第にやわらかくなっていた。

 

「失礼を承知で伺いたいと思いますが、実際のところ、あの事件の意味は何だったのですか。佐藤先生のことですから、何か深い意味の込められた行動だったのだと私はあの日からずっと感じているのです」

 

「先生だなんて呼び方、もうよしてください。私は犯罪者なのですから。……私は、間違ったことをしました。周りの人たちにとても大きな迷惑をかけたわけですから。確かに私の行動には、私なりの意味がありました。あの行動でしか成し得ない意味もその中にありました。ただ、その行為は社会的には許されない行為だったのです」

 

佐藤はコーヒーを一口飲んで話を続けた。

 

「私は、アメリカのバイオベンチャー企業で理想的な研究システムを目にして日本に帰ってきました。アメリカと比べて日本の研究分野はとても古臭いシステムで動いていましたから、私は日本の将来に危機感を抱くようになりました。その思いを周りの先生たちにも訴えかけ、働きかけもしました。でも、誰も動かないのです。誰も私の話を聞こうとしないのです。それどころか、旧態を大切にする若手たちがどんどん昇進していくではないですか。権力志向が強く、どこか歪な世界です。店町さんも気付いていましたよね、きっと。そんな中、全国で劇物毒物事件が多発しました。君が座っていたパソコンのすぐ横にアジ化ナトリウムのビンが置かれていたのですよ。あれだけ世間を騒がせた物質がですよ。青酸カリだって、鍵の壊れた棚の中に無防備に置かれていたのですよ。私は、学部、大学を挙げて管理の見なおしを図るべきだと教授会に提案しました。するとどうですか。現状でも問題が起こってないのだから、今のままでいいでしょう、と平気な顔で答えるじゃないですか。私はこのときほど危機感を覚えたことはありません。大学内のずさんな管理体制を世に示して訴え掛けるしか方法はないと考えました。その結果があれです。その後、全国の大学や研究機関で管理体制の見なおしがなされたと聞いています。でも私は間違っていた。間違ったことをした……」

 

「あの事件で佐藤さんが失われたものと相応の意味があったと今でもお考えですか」

 

店町は率直な質問を投げ掛けた。

 

佐藤はしばらく考えていた。

 

「意味はあっただろうけど、やり方を私は間違っていたんだろうな。タイミングを間違ったんだと思う。上まで上り詰めてから、文部科学省に自分の声が届く立場になってから、別の方法で行動を起こすべきだったのかも知れない。でも、不器用でありながら口うるさい私には教授まで上り詰めていくまでの道も絶たれていたに等しかった。だから、何が正しい答えなのかは、正直なところ今もわからないのです」

 

今の店町には、佐藤があの事件を起こして何を訴えようとしていたのかが理解できる。かつて佐藤は、店町に対して情熱と冷静さについての話をした。その二つのバランスを崩した結果があの事件だったのだと理解できた。

 

特急白鳥号で福井駅まで宗像を追いかけた店町の行動が会社と社長を思っての正義感あふれる情熱によるものであったとするならば、朝礼記録文書を手に軽はずみな行動に出なかったことが、平常心と冷静な判断によるものだったと言えるかも知れない。そのとき佳音が「もういいよ」と止めてくれていなかったとしたら、店町は間違いなく行動に出ていたはずである。平常心と冷静な判断は周りの手にゆだねられていた。運命を左右するブレーキは、店町の外に存在していた。

 

「それと……」

 

佐藤は言葉を詰まらせながら続けた。

 

「あのころ、私が望んでいた国立大学の法人化が今実現しようとしている。それまで強く反対していた文部科学省までもが法人化を後押ししはじめている。私がかつて願っていた姿に、確実に変わっていこうとしている。だから、私は気付いたんだよ。私がいなくともその動きは止まらない。たったひとりで大きなものを動かすことは所詮無理なことだったんだよ。すべてはタイミングなんだよ、私が何もしなくとも、時期がくれば、なるべき姿に変わっていくんだよ」

 

しばらく佐藤は黙って、そして、

 

「私の願いは届かなかった。けれども思いは通じていた。そう思うんですよ」と静かに言った。

 

沈黙が続いたあと佐藤は、「もしも、私が……」と言って言葉を詰まらせた。

 

その様子を見て店町は「もしもなんてこの世の中には存在しないと思います。それを考えるのはもうよしましょう」と言った。

 

店町のその言葉を聞いて、佐藤はレジ横のショーケースの一点を見つめたまま黙ってしまった。

 

ショーケースの中には、小学生向けの顕微鏡の横に、数十万円する生物顕微鏡が飾られていた。店町はA4のファイルを一冊手に取り、レジで代金を支払って佐藤の店を出た。

 


長編小説ランキング