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店町は手渡された分厚いマニュアルを開いた。目次の記されたページに目がとまった。几帳面な刈谷らしく、章立てからきっちりとされている。マニュアルは十章から構成されていて、最終ページは一五〇頁となっていた。裏表紙のポケットには、宗像の経歴書面がはさまれている。目次ページの前に、もう一枚あった。そのページにはタイトルの下にいくつか名言めいた言葉が書き記されていた。

 

『謙虚にして驕らず、さらに努力を』   (K&Y 米光会長)

 

『全体的破滅を避けるという目標は、他の

あらゆる目標に優先しなければならない』 (アインシュタイン)

 

『チャンスは心構えのある者を好む』    (パスツール)

 

『秘書たるもの、社長の視界を遮るべからず』 (刈谷)

 

一つ目に記されている米光会長の言葉は、店町が毎朝目にしている言葉だった。社長朝礼で店町が座る真正面の壁に掲げられた額縁に入れられている言葉だったのである。

 

「今月末までということは、あと一週間ですか」

 

「いや、明日が最後」

 

「えっ、明日。ですか……」

 

「そう」

 

「じゃ、明後日からの私の仕事はどうなるのですか」

 

「大丈夫。店町君だったら大丈夫だよ。社長も頼りにしているし。それに、既に決まっている予定の進め方については全部マニュアルの中に詳しく書いておいたから」

 

店町が何を言っても状況が変わるわけではなかった。その日刈谷は、店町を残して定時終了のベルとともに帰っていった。

 

「今日、刈谷さん帰るのずいぶん早いよね。何かあるのかな。店町君、知ってる?」

 

「さぁ、わからないですねえ。宅配便が届くとかじゃないですか」

 

「もしかしたらそうかもね。刈谷さんってひとり暮らしだもんね。さすが、店町君。上司の行動はすべてお見通しってわけだ」

 

周りの様子からも、刈谷が辞めるということをまだ誰も知らないようである。重要人物が退職する際には盛大な送別会が開催されるものだと考えていた店町は、刈谷の唐突な発言と行動にすっきりしない何かを感じた。

 

翌朝、刈谷は始業時刻直前に出社してきてデスクの荷物を片付けはじめた。前日の早い退社といい、翌朝の遅い出社といい誰の目にも刈谷の行動が不自然に映った。我慢できない様子で山田が言った。

 

「刈谷室長。どうされたのですか? まるで退職されるような荷物のまとめ方じゃないですか」

 

「そう。あとで話そうと思っていたのですが、私は今日でアランドリーを辞めます。正式には今月末まで雇用契約が継続しますが、私がここに来るのは今日が最後です」

 

「えっ、マジですか」

 

「どうして」

 

北野もパソコンのキーを打つ手を止めて驚きの声をあげた。顧小燕ともうひとりの女性社員もあっけに取られて刈谷のほうを見ている。前日にその事実を知らされていた店町は複雑な表情を浮かべていた。

 

「下の階から挨拶に行ってきますから、このフロアの皆さんには最後に改めて挨拶しますから」

 

刈谷はそう言い残して秘書室を出ていった。いつも手にしていた革の手帳はデスクの上に置いたままだった。刈谷は下の階に下りるのにエレベーターを利用した。

 

刈谷の決心を聞いた各階では驚きの声があがった。社内の誰からも信頼されている刈谷の挨拶は長くかかった。ましてや今日が最後で会社を去るという話だったからなおさらだった。

 

店町が社長の処理済書類を七階の管理本部に届けに行くと、そこに刈谷がいた。

 

「どういうことですか、刈谷さん、困ります。会社の仕組みを刈谷さんだってよくご存知でしょう。どうして人事部を通らずに社長決済で刈谷さんのような重要人物の人事が決まるのですか、しかも今日で退職だなんて」

 

刈谷に向かって人事部長が声を大きくしていた。

 

「社長には、ちゃんと一ヶ月前に申し入れしましたよ。辞職願も受理していただいていますし。私の直属の上司、担当役員といったら社長なのですから、社長から人事部に話がなかったのだったら、それはそういう社長の意向なんでしょう。私が辞めることは手続上なんの問題もないと思いますよ」

 

「困ったなぁ……」

 

人事部長は漏らすようにつぶやいた。周りにいる社員たちは二人のやり取りを静かに見守っていた。人事課長代理の小竹は、ことの次第をまだよく理解できていない様子である。

 

「今後の社長秘書業務はどうなるのですか。店町さんはまだ入社して半年ですよ。正式な引継ぎも必要でしょうし」

 

「それなら大丈夫です。彼はしっかりしていますし、既に引継ぎも完了していますし。なぁ、店町」

 

総務部のほうに立っていた店町に向かって刈谷が声を掛けた。

 

「ええ、まぁ。でも……」

 

「昨日、マニュアルを渡したでしょう。あれさえあれば、店町君だったら大丈夫」刈谷はそう言って笑った。

 

店町は書類の配付を終えて刈谷よりも先に最上階に戻った。

 

人事部長ですら刈谷の退職のことを当日まで知らなかったとは……。店町が感じていた違和感はさらに大きなものとなった。

 

各フロアでの挨拶を終えて刈谷が最上階に戻ってきたのは、お昼休みの十分前だった。最上階のメンバーは席から立ち上がって刈谷を迎えた。刈谷はひとりずつに短く丁寧に挨拶をして頭を下げた。そして最後に店町に握手を求めて、「よろしく頼むよ」と言った。店町に向けられた刈谷の表情は心なしか寂しげだった。

 

そして刈谷は紙袋の荷物を手に秘書室をあとにした。昼休みに社長と鉢合わせするのをまるで避けるかのような去り方だった。

 


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