引っ越し屋と中心帰納② | 母体武道 合気道 無元塾

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成田伝合気道で唱えられた母体武道をさらに洗練させて、武道のみならず、セラピー、ボディワーク、普段の立ち居振る舞いなどの根元となる普遍的なものをお伝えしております。

 
前回のブログの続きです。
 
 
あまりにもブラックな引っ越し屋だとしても、
依頼して来られるお客に関しては関係ない話ですので、純粋に営業で人と話すことを唯一の楽しみに続けることにしました。
 
そしてまた、わかったことがいくつか、、
 
先程は楽しみにしたと言いましたが、決して楽し可笑しい、、の楽しみというのではなく、様々な家庭の事情を見ることができ、いろんな意味で自分を見つめ直すキッカケにもなるような経験にしていこうという考え方にしました。
 
 
どうしても印象に残っているのは、ゴミ屋敷に関することです。
 
たまにテレビなんかでやるアレですが、さすがにテレビに出てくるものは群を抜いてますが、
 
そこまでいかないまでも、実は思っている以上にゴミ屋敷は多いということを実感するのです。
 
1ヶ月で必ず数件あったような気がします。
 
おそらくどの営業でも同じ状況だということでしたので、
全国の引っ越し屋の営業の人数を想像しても
そうとうな数だと思います。
 
程度も様々で、グループ分けすればタイプいくつかに分かれるかもしれませんが、人の性格同様100人100様な感じです。
 
 
1例を挙げると、
 
家族全員がゴミ屋敷を許容しているパターンでした。
 
夫婦と小学生くらいの子供が二人。
 
 
子供は生まれ育った環境なので逆にかわいそうなのですが、夫婦共々片付けようとしていない感じ。
 
最初引っ越し先の新築の家に行き、大きい物が運べるかとか、階段で運べない場合は外からクレーンで吊るして運ぶんですが、そのクレーンが近くまで来れるスペースがあるか、、など結構緻密な確認が必要な場合があるんです。
 
そこで家主と一緒に確認作業をしている分にはさほど違和感はなかったのですが、
 
そんなに離れていなかった住んでいるところへ行ったところ、見事なゴミ屋敷。
 
すべての部屋、、リビング、台所、廊下にも無分別なゴミが堆積していて、
人が居る部屋の真ん中あたりがやっとウッスラ底が見える状態です。
 
つまりゴミが部屋をスリバチ上に堆積しているのです。そして無分別というのは、食材関係、書類関係、衣類などが、無秩序に置いてあるか、捨ててあるという意味です。
 
リビングであろうその場所には奥さんがいて、いろいろと説明をされましたが、その足の踏み場もない状況を全く気にした様子はなく、そのうち奥の部屋の方から、小学生くらいの子供が二人、本当にゴミの中からゴソゴソと出てきたのです。
 
その無分別なゴミの中に布団があり、そこで寝ていたということです。
 
ふとその日は週中の日なのになぜ家にいるのかと思ったのですが、この状態であるが故のやはり何かしら家庭が機能不全状態であり、そこに子供の不登校の要因があるのではないかと想像してしまうのです。
 
話の中で、新居に移ることでこの状態をリセットしようとも思ってるというようなことをおっしゃってましたが、何かもっと根本的なことを解決しなければ、または夫婦それぞれの心の中の闇に対してちゃんと向き合わなければ、結局またその新居も同じ状態になるだろうなと考えてしまいました。
 
例をあげたら沢山あるのですが、
意外に女性のゴミ屋敷が多いという印象でした。
きっと、なにかそこには個人の資質意外に、
なにか大きな枠での理由があるのだと思います。
 
では、そういう状態のお客に対して営業をしていているとどういう心境になるかというと、
拒絶か同情のどちらかに偏るのです。
 
まず、汚いし、臭いし、生理的な拒絶が起こります。
しかし、同時にこの奥の部屋はどのような状態なのだろうと怖いもの見たさの好奇心も沸き起こります。
 
しかし、何よりも、拒絶という感情がおこる意味としては、
 
一言でいうと面倒な気持ちになるのです。
 
まず、引っ越しの営業の重要な役割は、物量を正確に把握することです。ところがゴミ屋敷となっている家は、あまりにもゴミが沢山で正確に測れないのです。どれがゴミで、どれがそうでないかの基準が不明確なので時間がかかります。そしてその物量に即してトラックを選定していくのですが、それが合わないと積み残しなどトラブルになるのです。いわゆる言った言わないの話の類です。
 
そうは言っても、その日、割り当てられた限られた時間の中の一件ですので、嫌々ながらも一連の作業に入るのですが、
短いながらもコミュニケーションを取っていくうちに、人によっては、その人の境遇というか、生き方とか、考え方などがわかってきて、とても苦労されてきたんだなとか、かわいそうだとか、そういう状況を少しでも自分の出来る範囲で助けてあげたいなどと考え始めるんです。つまり同情し始めるんです。
 
そうなってくると、相手からもある種の好意を持たれ、仮に競合が何社かあっても誓約が成立することになった場合、相手の好意は場合によっては執着に変形していき、また、あらぬトラブルの一因になるのです。
 
その時期は、ここの合気道のまさに中心帰納が、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスというセラピーのある質感に合致するという仮説を、押切さんという執筆家(当時は整体院もやってらっしゃいました。)と荒巻さんというセラピストとで打ち立てて模索している最中でした。
 
日常生活の中にも、中心帰納を試行錯誤していたので、いわゆる、人と接するとき中心帰納を心がけるようにしたのです。
 
そうすると、どうなるのか、、
 
例えば、先ほどの場合でいきますと、
こういう感じになるのです。
 
ドアを開けて相手の存在が現れた瞬間に、相手の状況には、例えばビックリするようなゴミ屋敷でも意識はそこには置かず、自分の中の在る(中心)を感じるようにする。話しているうちに相手の同情を誘うような内容の話をがあっても、自分の中の中心(在る)
を感じるようにする。
 
自分がどちらかに振れそう(崩れそう)になる毎に、自分の中心を感じるよにする、
 
つまり中心帰納をするのです。
 
そうするとどうなるか、きっと相手にとっては、
違和感のある過剰な介入でもなく、事務的な冷たく感じるような対応でもなく、むしろ不思議と静かな、落ち着いた感じになる。
 
なぜ相手のことがわかるのか?
 
なぜならそれは、
 
自分自身がそういう感じになっているからです。
 
ニュートラルに、相手の存在を認めつつ、対応として過剰にもならず疎遠にもならない、
それは自分の中の調整、修正に他ならないのです。
 
そして自分に正直でいる。
 
中心帰納とは、なにも武道の中で相手を崩すための手段としての意識遣いではなく、普遍的に人とコミュニケーションをとるための、ひとつの指標となる言葉であり質感であると僕は信じていますし、実践しているのです。
 
意識を自分の中心に置いて、目の前の処理の瞬間に没頭する。
 
そして、それを連続させるのみ。
 
 
ある意味、その延長線上で無元塾は発足したとも言えるのです。





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