57.神との対話【解説】P109~111人生が上向く方法③「死は本当にわざわいなのか」 | 心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

20年以上前に出会ったニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」を、わかりやすく解説します

前回、「悪い」と考えられる状況をいかにして素早く離れ、改善させるのかということが語られました。

 

「悪い状況」と考えるよりも「ただひとつの問題」としてとらえ、改善するよう行動していくと、問題だと思っていたことがビッグチャンスとなり得ます。

 

考え方を変え、言葉を変え、行動を変えることで──神(宇宙・創造主・ハイアーセルフ)である自分として在ることで──私たちは人生を向上させることができるということでした。

 

ここでニールさんが、”病人が信念をもって病気が良くなることを考えて言葉にもしていたのに、六週間後に亡くなった場合、プラス思考や積極的な行動をもってしても望みが叶わなかったのはなぜか”という質問を神さまにしました。

 

確かに、すべての人々に訪れる「死」というものを考えると、どれほど強く願っても信念をもっても、叶わない望みというものがそこにはあるように見えます。

 

神さまは以下のように答え、そして「死」についてお話されました。

 

「山をも動かす」信念の持ち主が六週間後に死んだのなら、そのひとは六週間、山を動かしたのだ。
彼にとっては、それで充分だったのだろう。
彼はその最後の日の、最後の時間に、
「オーケー、もう充分だ。つぎの冒険に進もう」と決めたのではないか。

 

神との対話1 P109

 

スピリチュアルを学んでいると、死に対する考え方が変わってきます。
以前は私自身も、死は大変恐ろしくて、忌まわしくて、絶対に避けなければならないことで、悲痛な「喪失」をもたらすものだと、思っていました。
けれども、本当にそうでしょうか。

 

もしかすると重くて痛みのある肉体を脱ぎ捨て、軽く空中に飛び立てる素晴らしい瞬間かも知れません。
もしかすると、時空を超えて会いたい人に会いに行けるチャンスがやってくるのかも知れません。
もしかすると想像以上の安らかさで、この世では経験したことがないほどの愛と平和の気持ちに包まれるのかも知れません。
またもしかすると、新たな肉体を得て、新たな人生を創造するプロセスとして存在しているのかも知れません。

 

私自身はそれが真実だと学んでいます。

そうだとすると、前述の病人が、痛みが続いて動くこともままならない場合、美味しい食事も楽しい旅行も思うようにできない状況の場合、最後の日に命を閉じて「次の冒険に進もう」と思うのは、自然なことです。

 

けれども、普通に生きている健康な人たちは、当人の死にゆく決意を受け入れることが難しいのです。
なぜなら、私たちが作り上げている社会は、「死ぬのはよくない」という社会だからです。
また、死を怖れて避けようとすることは、地球に命を授かった私たちのエゴがもつ自然な観念でもあります。

 

死にゆく人たちももちろん、そのような健康な人たちがもつ思いを知っています。
残された人たちの悲しみや寂しさも、もちろん知っています。

 

死にゆくひとは、まわりのひとが死を受け入れたがらないことを知っている。
部屋にいるひとたちが、自分の決意をどう受け取るかを感じる。

 

部屋に誰もいなくなってから死ぬひとが多いのに、気づいたことがあるだろうか?
愛する者に「さあ、向こうへ行きなさい。何か食べていらっしゃい」とか、「行って少し眠ってきなさい。わたしはだいじょうぶだから。明日の朝、また会おう」と言うものさえいる。
そして親衛隊が去ると、魂はまもられていた身体から離れる。

 

神との対話1 P110

 

医療関係者にとって死は失敗であり、また死にゆく人を愛する人たちは「喪失」の痛手を負って悲しみにくれます。
私たちのエゴにとって、死は、禍(わざわい)なのです。

 

ただ、魂にとってだけ死は救い、解放だ。

 

死にゆく者への最大の贈り物は、安らかに死なせてやることだ。

 

神との対話1 P110

 

と、神さまは言われました。

私たちは、肉体や脳や精神だけが自分だと思いがちですが、もっとも力を持っている真実の自分は肉体をおおっている魂です。
日本人の多くの人が、そのことをどこかで知っているのではないかと、私は思います。

 

自死以外の死というものは、自分自身の”魂”が肉体を離れること…手放すことを決めて、私たちは(肉体の)死を迎えることになります。
生まれる日、亡くなる日は私たちが生まれる前に決めてきているという説があります。
また余談になりますが、ほぼすべての自死はエゴがもたらす選択であり、結果だそうです。

 

二十数年前、この部分を読んだとき、三つの思いが私の中に生まれました。

 

一つめは、死は本当は怖いものではないという安心感。
二つめは、死が恐ろしくイヤなものではないと知ったために得られた、神さまへの信頼感。
三つめは、このことを安易に人に知らせてしまうと死を望む人が増えてしまうかもしれないという危惧。

 

今、三つめの心配は、ただ私のエゴが私(の考え方)を現状に引きとめるために思いつかせた発想だということがわかっています。
変化を怖れさせることが、エゴの仕事だからです。

 

20年数年前は、それでもとても安心することができました。
ここを読んだとき、ようやく自分が全知全能で完全無欠の神さまに守られていることを信頼することができたからです。

 

私たちは生命の尊さや生きる喜びを知るとともに、死という概念ももっと優しくてやわらかなものに変えていく時代に入ってきているように思えます。

 

次回は、私たちの魂の目的について、お話します。