昨日、9/1に終わってしまう『ウィッチ』をシネリーブル梅田に元女子シネマクラブの面々と観に行きました。「魔女」がテーマ…前評判は今まで観たこともないようなホラーとのこと。確かにエンターテイメントのホラーものとは一線を画する作品でした。

 

観終わったとき「魔女」とは、「信仰」とは、についてが頭の中に渦巻いて、まったく映画の醍醐味であるカタルシスは得られません。ですが、その場限りのカタルシスはさーっと流れてしまい何も残らないことは、今までの映画鑑賞で実証済みです。ポスターにあるように、ダーク・ファンタジー・ホラー…ちょっと意味がわかりませんが、カテゴライズできないような作品であることは確かです。

 

イギリスから新天地を求めて、アメリカの大地に入植した仲間たちからはぐれた一家の話です。映像は、国は違いますが、この映画と同じ時代を生きたフェルメールを彷彿とさせるような雰囲気です。

最初に度肝を抜かれたのは、音楽です。なんとも気持ち悪い不協和音が不安を煽りたてます。音は映像よりもはやく、深く、ひとの感性に響くのではないでしょうか。映像は、観たあとに「理解する」という短いステップがあるような気がします。音が、心に「これは絶対に悪いことが起きる」という想念を抱かせるのです。

 

原始より異常な音を聞いて、素早く身を守ってきた人間のDNAがあるのかもしれません。すごくイヤな、気持ちが悪くて怖い…だけど「魔力」に魅せられるように惹きつけられてしまう。そんな音楽。

 

そして、その期待を裏切らないように、幸せな瞬間は微塵もなくこの家族は、壊れていきます。

 

 

以下映画.com.からの引用です。

「魔女」をテーマに、赤子をさらわれた家族が次第に狂気の淵へと転落していく姿を描き、第31回サンダンス映画祭で監督賞に輝いたファンタジーホラー。1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。第70回英国アカデミー賞で新人賞にあたるライジングスター賞にノミネートされ、M・ナイト・シャマランの「スプリット」でもヒロインを務めたアニヤ・テイラー=ジョイが、家族から魔女と疑われるトマシン役を演じた。監督はホラー映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイク版監督に抜てきされ、本作が初メガホンとなるロバート・エガース。

主人公のトマシンを演じた女優さんも素晴らしかったのですが、一家のなかでマトモに見えたまだ幼い長男の迫真の演技が目に焼きつきました。

 

果たして「魔女」はいるのか?

この一家がこんなに不幸になってしまったのは、「魔女」の仕業だったのか?

 

シネマクラブの仲間と駅へ向かう道すがら、モヤモヤしたものを吐き出しながら歩きました。恐らくわたしは以前『沈黙』の感想にも書きましたが、キリスト教の信仰をきちんと理解できていないし、何よりキリストに対する「感謝」を感じることができないので、本当の怖さをわからないのだと思います。

 

結局のところ、この一家の父親に問題があったという理解でスッキリしました。村を出て、森の近くで孤立して暮らす…自分の信仰心に疑いを持たない…裏返せば傲慢な父親。神への深い信仰の対極に悪魔や魔女がいるような気がします。心の中に神が住めば、常に悪魔もそばにいる。そんな感じです。八百万の神々にも災いをなすものもいますが、悪魔はそれとは異なるような気がしました。

 

でも、ラストで感じたのは、「もしかしたら、自分を深く邪悪だと認めた孤独な魂に寄り添えるのは、神ではなく魔女なのかもしれない」ということ。

人間は弱いから、必ず悪しきこともやってしまいます。神の裁きが怖い人は、悪魔によって救われることもあるのかもしれない。愚かな人を徹底的に愚かに描いた先に救いが見える可能性があります。

 

わたしは、ダークな小説や映画に否応なく惹かれます。それは、わたしの中に残酷なことを喜ぶ黒い部分があるからにほかなりません。