物書きの大脳辺縁系~ライター・白土勉のブログ -7ページ目

物書きの大脳辺縁系~ライター・白土勉のブログ

【大脳辺縁系】脳の中で、感情や記憶、本能行動を司る中枢となる部分。
 サラリーマンから転身した脚本家、白土勉の感情(日々思うことや気になるニュース)や記憶(今までの仕事や経験談)、本能行動(執筆に関するあれこれ)などを書こうと思います。

祝なでしこJAPAN!澤穂希選手女子FIFAバロンドール受賞!
そして、佐々木則夫監督もFIFA女子最優秀監督賞を受賞!ヾ( ̄∀ ̄ヾ()/ ̄▽ ̄)/

なでしこ澤穂希選手がアジア初のバロンドール受賞

 国際サッカー連盟(FIFA)は9日、スイスで2011年の年間表彰式を行い、年間最優秀選手に与えられ..........≪続きを読む≫
このニュースに触れて、あの夏の日のことが、まるで昨日のことのように胸に蘇ってきました。

思えば、あの悪夢のような巨大災害から、まだ日本が立ち直れないでいる7月。
遠くドイツの地で、私たちに大きな勇気と力を与える奇跡が起きました。
日本サッカーが初めて世界の頂点に立った日。
私にはあの日、あのニュースが駆け抜けた瞬間を境に、日本中が良い方向へと向かい始めた
気がしてなりません。

私は常々、フィクション作品はスポーツにだけは勝てない、と感じています。
我々作り手は皆、現実には存在しない世界を構築し、人物を作り上げて、物語ります。
それは、現実と同じように作られていても、やはり虚構でしかありません。
勿論、虚構だからこそ語れる素晴らしい物語があるのは言うまでもないでしょう。
数多の“素晴らしい虚構”は、人類の歴史の中で、常に多くの人々を感動させてきました。
それは即ち、虚構であるが故に創り手が細心の注意を払い、リアリティを積み上げて創って
いるということに他なりません。

映画のことを語る時、『一つの大きな嘘をつく為に小さな真実を積み上げていかなければ
ならない』ということが、よく言われます。
現実は辛いことだらけであり、面白くないことが巷には溢れています。映画は夢であり、
だからこそ最後は嘘をつかなければならないのです。
けれど、小さなことまで嘘ならば、それはただの嘘、でしかありません。そんな世界には、
誰一人見向きもしないでしょう。
大きな嘘を信じさせる為には、観客がその世界を現実の世界と同じように認識し、その中
の人物をあたかも存在するように感じなければなりません。
それはつまり、その人物(特に主人公)に都合のいいことが唐突に起きたり、何の脈絡も
なく、ふいに不幸が襲いかかったりということを禁じ手としなければならないということでも
あります。
観客に気づかれないように、巧みに伏線を張ってこそ、それらの出来事が上手く機能する
のです。

けれども、スポーツにはそれが全く必要ありません。それどころか、“唐突に”“何の前触れ
もなく”展開していくのがスポーツであり、だからこそその感動は途轍もないものとなります。

第90回全国高校サッカー選手権大会でのあの結末を、一体誰が予想したでしょうか?
もし、あれと同じことをフィクションで“唐突に”“何の前触れもなく”描いたとしら、観客は
鼻白んで「嘘ぉ~」とドン引きしてしまうでしょう。
それを納得させる為に、勝者となった側(結果を知らない方の為に校名は伏せておきます)
の選手たちが汗水たらして練習に励む姿を描いたり、ぶつかり合う中でも強い絆を得ていく
彼らの姿を描いたりしなければならないのです。

けれど、現実のスポーツには、そんなシーンは当然ない訳で、サッカーで言うなら試合開始
から90分(或いは、延長を入れて120分)を見るだけで、サポーターは一喜一憂するのです。
スポーツには、伏線が要りません。何故なら、それは全て現実であり、真実だから。
これは、スポーツの持つ大きな力だと言えるでしょう。

FIFA女子W杯でなでしこJAPANが世界の頂点に立った時も、あの劇的な展開に多くの
人が釘付けとなって、勝利の瞬間には大いなる感動を覚えた筈です。例え、初めて女子
サッカーを見た人でも、同じ筈です。そこには、何の伏線も要らないのです。

フィクション作品とスポーツを同列に論じるつもりは毛頭ありません。ただ現実問題として、
同じ画面で同じ人々によって見られるものである以上、つい比べて考えてしまうのです。

スポーツの持つあの力強い感動を、フィクション作品に取り入れられないだろうか、そして
スポーツで感じるあの興奮を超えるには、どうしたらいいのだろう――サッカーを見る時、
K-1を見る時、フィギュアスケートを見る時、私はどうしても考えてしまうのです。

私が創り手のライフワークとして取り組みたいテーマです。勿論、ただスポーツものを
書きたいということではありません。そのジャンルが何であれ、スポーツと同様に、人々
を熱狂させる作品を書きたいということなのです。

可能なのかどうか分からないけど、この思いを胸に、これからもより一層面白い作品
を生み出せるように頑張ろう――そんなことを、思いました。

徒然なるままに綴ってきましたが、忘れていたことが一つ。
リオネル・メッシ選手、三連続バロンドール、おめでとう!(/ ̄▽ ̄)/♪


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今日は、主催するシナリオ塾の無料体験ガイダンスの日。二回実施する内の
初回でした。

塾の基礎科は今期で十期目となりますが、期が始まる前に行われる無料体験
ガイダンスはいつも待ち遠しく、毎回ワクワクします。

どんな方々が来るのだろうか? そして、どんな才能の原石と出会えるのだろう?

勿論、私が『シナリオの基礎の基礎』という講義をし、基礎科のご説明をするだけ
なので、実際に何かを書いて貰う訳ではありません。ですが、講義を聞くその姿勢
一つ取っても、才能の一旦は垣間見られるものです。

シナリオライターにとって、打ち合わせは非常に重要であり、そこで相手の話の中
から、1ではなく10を、更には100を感じ取ろうとする真摯な姿勢や集中力は必須
なのです。

そういう点では、今日ご参加頂いた方々は、パーフェクトでした。あまりにも熱心に
聴いてくださるので、つい話し過ぎてしまい、時間がオーバーしてしまった位です。
今日ご参加頂いた方々の中から、何人の方が入塾して頂けるのかはまだ分かり
ませんが、私の印象では、どの方もとても熱心に学んで、早く上達してくださるの
ではないかと感じました。

16日に二回目を実施し、そしてその翌週の月曜日、23日にはいよいよ基礎科が
始まります。二回の講義の後、実際に課題をやって頂くので、これもまた楽しみ
な瞬間です。この方はこういう物語を書くんだ、この人はとても良い世界を持って
いるな――毎回、新たな発見と驚きがあります。

12回の授業でシナリオの書き方をマスターして頂くのが基礎科。そして、その先に
選抜制(希望してもクラス担当の講師の承認がないと入れない)研修科があります
が、今期の塾生の中から、何人の方が研修科に進めるのか、これも楽しみです。

そもそも何故、この塾を始めたかと言いますと、私自身がデビューするまでに非常
に苦労をしたからです。どこに行って何を学んだらデビュー出来るのか分からない
まま、色々と試行錯誤しました。その結果、会社員をしながら独学を続け、ようやく
チャンスを掴んだのです。デビューはしたものの、体系立って教わっていない分、
実際の仕事をする中でも、苦労の連続でした。

幸い、私がデビューしたのがVシネマであり、映画やテレビという他のメディアとは
比較にならない位の作品を量産してましたので、仕事する中でも学ぶことが出来
ました。独学で学んだことを色々と試しながら、自分の中に独自のノウハウを編み
出すことが出来たのです。非常に恵まれていたと思います。

かつては撮影所の中で新人を育てる体制があり、しかも、プログラム・ピクチャー
(メイン作と併映する為の作品)が量産されていたので、新人はその中で育つこと
が出来ました。けれど、今はどうでしょうか? 例えコンクールで運良く賞を獲って
デビューし、一作書かせて貰ったとしても、次の仕事がいつ来るかは分かりません。

これは、よくアマチュアの方がよく勘違いされているところなのですが、受賞をして
デビュー作を書きました⇒映像化(発売)されました⇒仕事の依頼の電話が殺到、
という夢を見てしまうのです。勿論、こういう方も中にはいるのでしょうが、それは
ほんの一握りの運のいい人たちです。むしろ、デビュー作が映像化(発売)された
後、次作を書く予定が全くない中で不安な日々を過ごして、忘れた頃に次の依頼
が……という方が一般的でしょう。或いは、結局は仕事の依頼がないまま、一作
だけで終わってしまう人も、当然のことながら居ます。

物書きの仕事は、デビューすること以上に、生き残ることが難しいのです。

せっかく才能のある新人がそんな風に消えていってしまうのは、とても勿体ない
ことです。だからこそ、既に実績のある者たちが、自分の経験を新人たちに伝え、
育てることが必要だと思う訳です。

私が、現役のシナリオライター、それも、ある分野で実績のある方を講師に選ぶ
理由はそれなのです。ただ単に書き方を教えるだけではなく、自分自身が生き
残ってきたノウハウを教えて貰えると思っているからです。それも、何十年前の
廃れてしまったノウハウではなく、現在進行形で日々、仕事をしている中で得た
情報や今の業界動向などを取り込んだ、現代に相応しい、生き残りのノウハウ
を。つまり、デビューしただけという塾生を量産したいのではなく、五年後も十年
後も逞しく生き残っていける物書きを育て上げたいのです。

今期の塾生の中からも、きっとそういう人が出てきてくれるだろうと、大きな期待
を胸に抱いています。そしていつの日か、『塾が母体のクリエーター集団を作り、
業界に一石を投じる』という私の野望が実現することを、信じてやまないのです。

本日、ガイダンスにご参加頂いた皆様、本当にありがとうございました。また、
16日のガイダンスにお申し込み頂いた皆様、会場でお会いできるのを楽しみに
しております。


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昨夜も更新しようとしたのですが、企画書を書き上げたところで力尽きました……。

昨日は一日中、某ルートに提出する漫画原作の企画書(難産プロットとは別物)を
書いておりました。4ページの短いもので、以前から大方の構想は出来上がって
いましたが、いざ書き始めると色々な問題が見えてきて、すんなりといきません。
それが、今まで手がけたことのない器(漫画原作)のものですと、尚更です。

私は今まで単館系映画やVシネマを中心に書いてきており、それなりの数の作品
を生み出してきましたが、器(映画、テレビ、Vシネマ、アニメ、小説等)やジャンル
(SFやサスペンス、アクション、ラブストーリー、任侠など)では、かなりの偏りが
あります。Vシネマの任侠ものが圧倒的に多いのです。

創り手として、一つのジャンルをとことん追求し、その大家となるという生き方も、
勿論素晴らしいことだと思いますが、私はそれを目指してはおりません。様々な器
で、幅広いジャンルの作品を手がけられる創り手でありたいのです。

俳優は特にそうだと思いますが、創り手も自分のイメージを考え、築き上げること
が必要だと考えています。企業でいうCI(Corporate Identity)と同様、創り手のCI
(Creator's Identity)とでも言うべきものでしょう。それをハッキリと打ち出すことで、
発注側(プロデューサーや監督)もその創り手がどんな世界観を持っており、何
をどこまで書けるのかが判断し易くなると思うのです。

これは、俳優や創り手だけではなく、どんな人でも同じですね。自分のイメージを
把握し、更には自分で築き上げていくことは、周囲がその人を理解し易くなって、
結果として周囲とのコミュニケーションを取り易くなるのではないでしょうか。けど、
『言うは易し、行うは難し』で、意外と周囲に与える自分のイメージというのは意識
しないもので、気がつくと、自分の中にある自分のイメージと、周囲が考える自分
のイメージにギャップが生じていることも多いのではないかと思います。

話がそれましたが、そのような考えの下、私は元いた世界から離れ、新たな世界
を開拓する方向で、この数年、執筆活動を続けてきました。“常にアグレッシブに”
をモットーに、今までに手がけたことのない器やジャンルばかりに挑戦をし続けて
きたのです。勿論、そう簡単に上手くいく訳もありません。ある器、あるジャンルで
実績があったとしても、他のジャンルではそれが認められないということが、往々
にしてあるものなのです。私の場合も、それが障壁となり、立ちはだかりました。

けれど、障壁があるからと言って逃げていては、面白くありません。オリジナルに
こだわりながら、常に新たなことに挑戦し続けた結果が、自分の作品歴の中にも
徐々に現れてきました。

初めてアニメ作品を手がけた「黒塚~KUROZUKA」や子供向け実写ドラマの
「満福少女ドラゴネット」、ノスタルジックな青春ドラマの「さよなら夏休み」、ほぼ
一年がかりで取り組んだ連載小説「レイブン―漆黒の悪魔―」など、それぞれ
紆余曲折はあれど、様々な作品を生み出すことが出来たのです。

その流れの中で、昨日は漫画原作を書いていたのです。その企画書が通るか
どうかはまだ分かりませんが、漫画原作は予算などの制約がない為、他の器
で描けない作品を描ける貴重な器であり、継続して挑戦し続けたい魅力的な器
なのです。

又、本職の映像分野でも新規開拓しており、今年は新たにホラーに挑戦します。
完全なオリジナル企画でして、近々に書き始める予定という段階ですので、まだ
詳細情報は書けませんが、風変わりなホラーに仕上げようと考えております。
もっとも、企画は既に通ってはいるものの、映像作品はいつ何どき停滞するか、
或いは頓挫するか、全く分かりません。一昨年~昨年にかけて手がけていた大
規模劇場公開映画が二作連続で頓挫したなどということもある位です(片方は
某有名ベテラン監督が、もう片方は某映像派鬼才監督が参加されていました)。
なので、“ケ・セラ・セラ”の気持ちをある程度持っていないと、神経がもちません。

そんな訳で、色々な挑戦をしながら様々な作品を仕込んでおりますので、作品
が世に出た暁には是非、ご高覧頂ければ嬉しく思います。

ほな、新たなプロットに取りかかるとするか( ̄~ ̄*


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仕事が徐々に始まりつつあり、いつも通り電話やメールの着信を気にする日が
訪れる中、今日は日帰りの里帰り。今帰らないと、また帰りそびれてしまうので、
プロットが一段落した隙を見計らって帰ることにしたのです。

行き先は神奈川県某所。車で片道約二時間。やはり、帰るには思い切りが必要
な距離です。

途中の風景

私は東京生まれの神奈川育ち。いわゆる『田舎』というものはなく、子供の頃は
盆暮れに田舎に帰る友達を、とても羨ましく思っていました。

山々に囲まれて、見渡す限り、周囲には青々と茂る草むらや清らかなせせらぎ
しか見えないような一本道を、虫取り網を持って駆け回る夏休み。

雪深い中に佇む家に近所の人々や親戚が集まり、囲炉裏を囲んでにぎやかに
過ごす年の瀬。

そんな風景を思い浮かべると、体験したことなどないのに、ふと懐かしさを覚え
ます。このノスタルジーは、一体、どこから来るのでしょう?

前世で見た風景? それとも、遺伝子の片隅に刻み込まれた記憶?

見たことのない風景だとすれば、何故、郷愁を感じるのでしょうか?

現代科学では、きっともっともらしい説明がなされるに違いありません。けれど、
前世などない、或いは、遺伝子に記憶が刻まれることなどないと、本当に証明
出来るのでしょうか?

人類の歴史は二千余年。現生人類は25万年前に登場したと言われています。
46億年と言われる地球の歴史に比べて、極めて一瞬であり、人類が科学を生み
出したのは更に短い期間に過ぎません。それだけ短い期間しか経ていない学問
が、森羅万象を解明したと思う方が大いなる驕りでしょう。

私がよく疑問に思うのは、「科学的にあり得ない」などという風に決めつける文脈
です。幽霊やUFO、UMA(ネッシーや雪男など未確認生物の略称)といった話
になると決まってこの文言が登場しますし、他の話題でも何かにつけて「科学で
は(或いは学問では)」という言葉で、ありふれた結論を導きがちです。更には、
それが元でこれらの話は『トンデモ話』として扱われてしまいます。けれど、人間
はそれ程、全てのこと(人体のことも、自然界のことも、宇宙のことも)を把握し、
理解しているものなのでしょうか。

UVER WORLDの「クオリア」という歌の中で『心臓にもない 脳にもない どこ
にも見当たらないココロ』というくだりがありますが、現代科学においてまだ心の
問題は解決されていません。これだけ医学も生物学も心理学も他の学問も発達
しているにも関らず、何故、人間が感情を持ち、様々な事を考えられるのかが、
いまだに分からないのです。

それなのに、「輪廻」はないと言い切れるでしょうか? 地球以外に生物はいない、
或いは、地球に来る可能性はないと言えるのでしょうか? 太古の生物が地球の
片隅でひっそりと生きながらえていないと証明できるのでしょうか? それはただ
単に、地球の歴史の一瞬のまた一瞬を生きる現生人類の、ちっぽけな常識の中
で導いた結論でしかないと思うのです。

話を戻しますが、体験したことのない原風景を心に抱き、それを懐かしいと思える
ことを考えると、そこには果てしない可能性が産まれます。その風景を辿ることで、
一体何に辿り着けるのか。もしもある日、その風景に自分が遂に巡り合った時、
それは何を意味しているのか。単なるデジャ・ビュとして片づけては面白くも何とも
ない。もし、それが前世の自分の生きていた場所との遭遇だとしたら、自分はその
時何を思い、どう行動するのでしょうか。

私は別に、輪廻も幽霊もUMAも心から信じてるという訳ではありません(かつて、
卒業旅行でネス湖に行ったことはありますが)。「科学」という錦の御旗を振り翳し、
様々な事柄を否定することに抵抗を覚えるだけなのです。疑わしきことであれば、
それを否定するのではなく、もっと謙虚に「現在の人類の科学やテクノロジーで
いまだ解明できない」とするべきではないでしょうか。それこそが、謙虚な姿勢と
言えると思うのです。人も、元を辿れば単なる生物の一種でしかないのですから。

実家でひさしぶりに父と会い、ゆっくりと色々な話をした後、遅くに車で戻って参り
ました。残念ながら、その往復の途上で原風景に出会うことはありませんでしたが、
いつか自分の原風景を探す旅に出てみたいと思います。少しでも自分自身をよく
知り、自分の中に眠っているものを感じ取るために。


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現在取り組んでいる仕事の参考の為、昨夜、録画してあったある映画を観ました。

「[リミット]」です。

私は、映画の話をする時にネタバレさせたくないので、ざっくりとした紹介だけ。

真っ暗な画面。男の呻きが聞こえる。やがてライターの炎が点き、男が棺桶の中
に入れられたまま、埋められてしまったことが分かる。口に嵌められた猿轡を
外して、手探りで辺りを探ると、見慣れぬライターと携帯電話があり……。

詳細は、こちらをご覧下さい。 ⇒ 映画「[リミット]」公式サイト

原題が「BURIED」。直訳すると「埋められて」といったところでしょうか。

作品の批評は色々な方が既にレビューとして書いていらっしゃるので、私は普段
物語を作る仕事をしている人間の立場から、簡単な感想を述べたいと思います。

舞台は一つで、登場人物は一人だけ(声の出演は別です)。これは物語を作る者
からすると、とても高いハードルだと言えます。殆どの映画は、場所を変え、人物
を何人も出すことで変化を生み出しているという部分がありますが、この作品は端
からそれを放棄している訳です。こうすることで、観客はあたかも自分自身が地中
に埋められているような臨場感を味わえます。けれど、作り手としては非常に困難
なことにチャレンジしてる訳であり、スタッフは様々な仕掛けを施し、更に撮影方法
を工夫することで、その高いハードルを見事にクリアしているのです。

彼は何故、埋められたのか? 彼はどのようにそこからの脱出を試みるのか?

この二点を大きな柱として、物語は進んでいきます。感じ方は人それぞれなので、
決めつけはしませんが、私は全く中だるみを感じませんでした。むしろ、ぐいぐい
と引き込まれたと言ってもいいでしょう。このように、全体を通し観客が追い続ける
興味の対象(=その結果を是非とも知りたいと思う事柄)を明確にしていることが、
この作品の完成度を上げていると言ってもいいと思います。

特に、後者の問いかけに沿って物語が進められていくという、非常にシンプルな
構成が、この映画の力強さに繋がっていると思います。彼の行動は全て、この
「生き延びたい」という極めてシンプルな(そして誰でも共感できる)動機によって
生み出されており、観客が共感できるからこそ主人公の行く末が気になるのです。

物語を作る際、主人公が何故、その行動を取ろうとするのか(=動機)は非常に
重要なのですが、これに観客が共感、或いは納得できないままに、観客を置き
去りにして進んでしまう物語も多々あります。その点で、この作品はとても成功
していると言っていいでしょう。

この映画でもう一つハードルを高く掲げている点は、冒頭から主人公を絶体絶命
の危機に陥らせている点でしょう。通常、このジャンルの映画では冒頭で主人公
は平穏な日々を過ごしていますが、何かが起き、次第に巻き込まれていき……と、
どんどん危険に晒されるように進んでいきます。

ですが、本作の場合、最初から主人公は危機の真っ只中で死に直面しているの
です。この作品を一言で表すならば、「全編に死の臭いが充満している作品」だと
言えるでしょう。冒頭から主人公が死と隣り合わせの中、一歩間違えば即、死亡
というシチュエーションが全編を貫いているからです。

主人公が究極の危機に陥っているこのシチュエーションで、一体どのように物語
を盛り上げるのかと興味津々に観たのですが、結果として、とても上手く物語が
展開されていました。だからこそ、最後まで飽きずに観られたのだと思います。

このような設定で物語を作れることは、創作者として、とても勉強になりました。
映画やテレビの現場で低予算化が進む昨今ですので、こういう特殊な(けれど、
いかにもありそうな)のシチュエーションのアイデアを生み出して勝負する作品は、
日本でも望まれている筈であり、私はそこに大いなる可能性を感じます。

サスペンス・スリラーが好きな方にはお勧めです。又、シナリオライターや小説
家など、物語を作る仕事に携わっている方や、目指している方も必見でしょう。
但し、90分の間、息苦しさから逃れられないのは覚悟して下さい。加えて、閉所
恐怖症の方は、決して観ない方がいいでしょう。

この作品に絡め、「死生観」についての話も書きたいと思っておりましたが、長く
なってしまいましたので、またの機会にしたいと思います。

「[リミット]」
監督 ロドリゴ・コルテス
出演 ライアン・レイノルズ


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