日本人は、はっきりと
「NO」と言えないのですね。

狂気のような、WAZAに
日本が従うなんて、

主体性の無い日本人の
特徴です。

だから、日本人は、世界からバカにされ、

世界から、いいように
操られるのです。


新国立競技場も、はっきりと「NO」と言えば、
こんなことにならなかったのです。

安藤忠雄氏の決定に
「NO」と言う人がいなかったのです。

それが、日本人の特徴です。



●livedoorニュース
●ビートたけしがイルカ漁に反対する国際世論に反論

 5月24日11時13分

23日放送の「新・情報7daysニュースキャスター」(TBS系)で、

ビートたけしが、イルカ漁反対を訴える各国に反論した。

この日の番組では、JAZA(日本動物園水族館協会)が、

和歌山県太地町の追込み漁で捕獲したイルカの入手を取り止めると発表した話題を取り上げた。

ことの発端は、WAZA(世界動物園水族館協会)がJAZAに対し、

日本のイルカ漁は残酷で倫理規定に反するとして、会員資格を停止すると通告したことにある。

JAZAはWAZAに残留するため、

太地町の追込み漁で捕獲したイルカを入手しない決定を下したのだ。

番組VTRに登場した東洋大学の山田吉彦教授は、

WAZAが実施した通告の背景には環境保護団体の

強い圧力があると解説し、

JAZAの決定が意味するところを

「日本自体が現在行っているイルカ漁を

残酷として

認めたということになってしまいます」

と指摘した。

さらに山田氏は

「この延長線上にはクジラ漁、そしてマグロ漁が追い込まれてしまう可能性があると思います」

と警告している。

イルカ漁だけでなく、クジラ漁やマグロ漁にも同様の事態が起こり得るというのだ。

VTR後、スタジオの東京大学の池谷裕二教授は、

日本の情報発信力の

弱さを問題視した。

本件について「インターネットで日本からの発信が

もうほとんど日本語なんですよね」

とコメントし、

日本の主張が世界に理解

されていない可能性を懸念した。

これに関連してたけしは、

潜水艦のソナーなどがクジラにもたらす弊害を問題視した。

たけしによると、クジラは低周波を発して互いを察知するため、

潜水艦のソナーの音でトラブルを起こしてしまう可能性もあるという。

たけしは、大量のクジラが浜に打ち上げられて死ぬ問題について、

そういったものが原因である可能性を指摘した。

追い込み漁を批判するならば、

そちらについても議論すべきでないかと訴えた。

(トピックニュース)



●livedoorニュース
●これが国家プロジェクト?

滑稽としか言いようがない新国立競技場建設

 5月24日12時00分

 8万人収容のスタンドの一部(1万5千席)を仮設にする。

屋根付け工事を後回しにする。

先日、新国立競技場の建設規模を縮小する見直し計画が発表された。

 この2ヶ月前には「新国立競技場を、ハイテク技術のショーケースにする」との構想が打ち出されたばかりだというのに、だ。

 トイレに座れば、体温や血圧等、健康状態を測定してくれるーーとか、

観客席にモニター画面を設置し、それを通して試合を多彩なカメラアングルで楽しめるーーとか、

そのモニター画面を操作すれば、ドリンク等がデリバリーされるーーとか。

 いずれも、スタジアムが備えていなくてもいい、

スポーツ観戦の本質から

外れた枝葉末節の設備だ。

液晶モニターは経年劣化するし、

システム的にも、1、2年で新鮮さはなくなるまさに家電だ。

恒久的な設備ではない。

その役割はスマホやiPadでも十分こなせるにもかかわらず、

メディアは「凄いですねー」と、それを胸を張るようにそのまま伝えた。

五輪景気の渦の中に、身を投じようとした。

 そのタイミングで飛び込んできた今回の見直し計画。

物作りを間違った順番で進めようとする、

まさに本末転倒が、

白日の下に晒された格好だ。

滑稽としか言いようがない。

メディアも情けないが、

建設の音頭を取る人たちはもっと情けない。

 建設コストが嵩むから。

期限までに建設が間に合わない恐れがあるから。

理由はそういう事らしいが、

その

欠如した

計画性には驚くばかりだ。

本体工事だけで約1700億円。

解体や周辺工事も含めれば、2000億円に達しようという国の威信を懸けた国家プロジェクト。

にもかかわらずこの有様だ。

 工期の遅れは、これまで外国から伝わってくる話だった。

日本ならあり得ないと、それを怠け者のエピソードを聞くような

上から目線で、うすら笑ったものだ。

それがいま、自分たちの身に起ころうとしている。

一転、ダメな国に成り下がろうとしている。

この現実に、ショックを受けている人は多いと思う。

 しかし、スタジアム作りに関して言えば、

日本はいまだ世界に胸を張れる満足なものを作ったためしがない。

2002年W杯のために建てられたスタジアムがよい例だ。

そうなってしまった理由は、よいスタジアムとは何か、そのあるべき姿、

理想像について、語られてこなかったことにある。

2002年のスタジアムにダメ出しした人は少ない。

語られるのは、せいぜい費用対効果の面に限られる。

 語るだけの知識を持つ人が少ないこともその一因。

優れたスタジアムで観戦した経験を持った人もわずかに限られる。

いいか、悪いか、評論できる人の絶対数が足りていない。

それをリードすべきメディアも、

海外サッカーの試合結果や選手の活躍は大きく報じるが、

スタジアムを初めとするその背景にまでは、

積極的に迫ろうとしない。

ネット社会、すなわち見出し社会になって、ますますその傾向は強まっている。

いわゆる世界のスポーツ文化について語られる機会が

ほとんどないのが実情だ。

 スタジアムはそのド真ん中に位置している。

その国のスポーツ文化のレベルは、スタジアムから推し量ることができるといっても言い過ぎではない。

新国立競技場は、つまり、

日本のスポーツの

文化レベルそのものと言うことになる。

 一度建てられたスタジアムは、50年は存在する。

取り壊せないものとなる。

最悪のスタジアムは、延々、

生き恥をさらすことになる。

失敗は許されないものは、世の中に数多く存在するが、

スタジアムはまさしくその筆頭。

スタジアムほど建設に、細心の注意が求められるものもない。

 にもかかわらず、日本には、

スポーツ文化のレベルアップに貢献して

いないコンクリートの塊が数え切れないほど点在する。

チェックが甘いことをいいことに、

時代の流れに逆行するものばかり建てられてきた。

スポーツの進むべき方向を示唆するような進歩的なもの、

画期的なもの、メッセージ性の高いスタジアムに遭遇することは滅多にない。

 新国立競技場には、そうした意味で注目していた。

世界に誇れるようなものになって欲しいと願っていた。

だが、これまでのところ、

建設の音頭を取る人たちから、

日本のスポーツ文化の発展を願うような声は

聞こえてこない。

「斬新なフォルムだから」と言ったのは、

コンペで審査委員長としてザハ・ハディドさんの案を最優秀作品に選んだ

安藤忠雄氏だが、

メディアは、それを傍観するように眺めてきた。

あのようなフォルムのスタジアムは、

神宮の杜に景観を損なわないのか。

自然破壊には繋がらないのか。

一部建築家たちの間からは、

改築でも十分優れたスタジアムに変貌できるとする声も挙がったが、

それぞれ議論は深まっていかなかった。

陸上の国際大会を開くために不可欠なサブトラックが併設されないことについても、

問題視する声はほとんど挙がらなかった。

 とはいえ、20代、30代の人に、スタジアムはスポーツ文化の象徴だと言ったところでピンと来る人は少ないと思う。

ビッグスタジアムの建設が行われるのは、何年、いや何十年かに一度。

建設の瞬間には、ある程度、長く生きていなければ、立ち会うことができないのだ。

先述の通り、若者には外国の実情を知る機会も少ない。

経験を生かすことができるのは、この場合、

年長者に限られる。

文化は築き上げるものだとすれば、年長者の責任は重くなる。

 新国立競技場建設問題で、問われているのは

年長者の力。

大人の力だ。

 繰り返すが、スタジアムの寿命は最低でも50年。

一度完成したら消せない、まさに後世に残す産物になる。

いい大人がどれほどいるか。

スタジアムの善し悪しは、その数に比例する。

50年後、まず生きていないであろう人たちが、

スタジアム作りを

無計画に進める姿はかなり見苦しい。

僕はそう思うのだ。


(杉山茂樹のBLOG)