(参考文献「毎日ムックフィギュアスケート07」毎日新聞社)

 浅田真央さんが、誕生日が遅いため、年齢制限でトリノ五輪に出られなかったことで、大騒ぎになりましたが、
1936年の冬季五輪、ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会(ドイツ)に、12歳で出場した日本人のフィギュアスケート選手がいる。
それが、稲田悦子さんです。
 26人中10位と健闘、オリンピック3連覇のソニア・ヘニーを、「いずれ彼女の時代が来る」と恐れさせていた。
 稲田悦子さんは大阪生まれで、当時、公務員の月給が30円だった時代に、
70円のコーチ代を投げ打つ母親の姿に、周囲から「クレイジーだ」と言われたそうです。
母親は、相場、博打、競馬、そして商売でお金を稼ぎ、父親はスケート場への送り迎えをしたという。
 母親譲りの明朗快活な性格で、「勝負事は、一番にならなきゃ意味が無い」が、稲田悦子さんの口癖だったという。

 4年後の1940年は、札幌で冬季五輪が開催される予定でした。
16歳になる稲田悦子さんは、札幌大会で、メダル間違いないと言われていました。
 しかし、戦争で、札幌オリンピックは中止。
再び、日本がオリンピックに参加が許されたのは、戦後、1952年。
この時、稲田悦子さんは28歳になっていて、すでに現役を引退していました。
戦争が生んだ悲劇です。
しかし、その間に稲田悦子さんは、全日本選手権を5連覇しています。
戦後、指導者に転身。
「日本は世界に遅れをとっている」と、海外のスケート技術や芸術文化を積極的に取り入れようとしました。
ミニスカートでアイスショーをし、「アマチュアから逸脱している」と警告を受けたこともあるという。
すると「ミラノでは、両肩はあらわ、胸はやっと隠す衣装でやっております。
型はまったフィギュアでは、大衆に飽きられますから」と言ってのけ、
また、「稲田悦子の名前で仕事をしているから」と、夫に稲田姓を名乗らせたり、女傑ぶりを発揮していたそうです。
そんな、先進的な感覚で、日本フィギュア界をけん引した稲田悦子さんです。
2003年7月に79歳で亡くなられましたが、そのわずか2ヵ月前まで、
神宮スケートリンクには、「よ~し、いったろ」という稲田悦子さんの声が、リンクに響いていたという。