ダ・ヴィンチ・コード(06・米) | no movie no life

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・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

私は天邪鬼なので、どんなに見たいなーと思っていても、ここまで注目されてる作品だと、公開初日とかその翌日には観に行きません。混むからです。

で、本日見たのですが、会場も空いてるし、ポイントが丁度たまってたんで、タダで観て来ました。

実は私、大学時代は美学美術史を学んでいました。

卒業論文は、イタリアルネサンスの巨匠、ティツィアーノの「悔悛のマグダラのマリア」をやりました。

そういう勉強をしてたんで、普通のキリスト教徒ではない日本人よりは、キリスト教や神話には自然と詳しくなります。やはり昔は、絵画や彫刻の題材になるのは宗教画や神話だからです。

今、卒論を読み返したりして、結構?立派なことを書いてるので、昔は真面目だったなあと思いつつ(笑)。

で、マグダラのマリアなんですが、やはり彼女のキリスト教会におけるポジションは聖母マリアの次くらいに高かったと思います。でもやっぱり、キリスト教って女性蔑視的なところが根底にありますから。そもそもイブのせいでエデンを追われてますし・・・今でも女性は神父や牧師になれませんよね。キリスト教で出てくるのは聖母マリア以外、みんな悪いイメージを身にまとっています。マグダラのマリアも元娼婦と言うイメージが定着してます。

で、内容ですが・・・ご存知ベストセラー「ダ・ヴィンチ・コード」の映画化。大学時代、レオナルドのことを「ダ・ヴィンチ」と言うのは日本人くらいである。「ヴィンチ村の」と言う意味しかなさないから、「レオナルド」と呼ぶように、とわざわざ言われていた。しかし、本作は原題もそのままなので、あれ?と思っていた。しかし、注意して聞いていると、レオナルドと言っているシーンもある。特に、聖杯研究者のサー・リーはそう言っている。

映画ですが、本を読んだ人間からすれば、謎解きと言う点からすれば物足りないだろう。あれでは、ソフィー・ヌヴー(オドレィ・トトゥ)が「ただの人」である。完全に教授のラングドン(トム・ハンクス)に引っ張られている素人である。しかし、原作を読んでない人はアレはアレで理解できたのではないかと思える。所詮、2時間半で描くには無理な内容だ。「ダ・ヴィンチ・コード」といいながら、レオナルドの作品が出てくるのはほんのちょっとだけで、まあいいところで「最後の晩餐」くらいか。「岩窟の聖母」とか、もっとじっくり見たかった。

ところが、最近はこの書籍の「盗作問題」からキリスト教の根幹をも揺るがすようなものにまで発展してしまってるので、別な意味で話題になってしまってますよね。

映画観て、最後のコメント「この作品はフィクションであり、出てくる~は全て架空のものです」え!!!それでいいの?私の最大の驚きはココでした。本には、「実在する」って書いてあるんですよね。「オプス・デイ」も。

玉虫色の決着?しかしちょっとこれはどうなんでしょうか。まあ、映画が封印されるよりはマシと言うことなのかな・・・?

最後に、サー・リーの研究者魂はすごくよく分かる。真実の発見、公表こそが何よりなのだ。しかし、同じ学者でありながらラングドンは、真実はどうあれ、信仰と言う、人々が信じてきたという歴史そのものに重きを置いている。信仰や宗教とは、どちらかというと教祖よりも信者が作り上げていくもの・・・しかもあそこまで肥大化した宗教の教義をひっくり返すと言うのはとても大変なこと。天動説に反して地動説を唱えたガリレオなどもそうですし・・・でも、もしもイエスの血流が今も続いているとしたら、ホントにすごいなって思う。全然不思議じゃない。イエスが結婚して子どもがいても。

まあ、賛否両論あれど、個人的にはこういった書籍や映画で、美術への関心が高まってくれればいいと思いますし、多くの日本人には異文化であるキリスト教に触れる機会ではあったのかと思います。