明後日は大阪のLD学会の自主シンポジウムで、
アスペでLDの娘の劇的発達を体験した保護者として、
体験談をお話して、質疑応答にも参加します。
しかしながら参加者がメチャメチャ多そうだし、
一般の参加費も1万円と高額なので、
「皆さん来てね~」とは言えない状況です。
そんなわけで、
お話の内容を整理する意味もあり、
フライングでここに書く事にしました。
私は滋賀大キッズカレッジの保護者としてお話しますが、
私はキッズで啓蒙されて今のような子育てをしているのではありません。
娘が4歳で保育園に行けなくなり、
酷い二次障害に至って発達検査を受けた時、
「やっぱり私の娘だな」と思いました。
私は自分自身が発達障害であり、読み書き困難です。、
小学校では悲惨な体験をして酷い二次障害に至り、
中学と高校へは行かずに荒れ狂いましたが、
二十歳で大検に合格し、
一般入試で同志社大学に進学し、
4年間で大学を卒業しました。
卒業後、2年間中国に留学して語学を身につけ、
その後、イギリスに3年間留学し、
ロンドン大学の大学院を卒業しました。
今でもメモはとれず漢字も書けませんが、
英語と中国語を話せますし、
生命保険代理店として独立して仕事もしています。
ですから、発達障害やLDの困難さは骨身に沁みていましたが、
学校へ行かせないことに対する不安はありませんでした。
娘にアスペルガーでLDという診断が出たのは就学前ですが、
4歳で発達障害を疑われ、
読み書きと計算に著しい困難を認められたあの時から、
私には一貫した育児・教育方針があります。
それは、「黙る・待つ・信じる」ということです。
一般的な躾をやめ、嫌なことはさせず、好きなことだけさせておく。
声かけを極限まで減らし、危険なこと以外は黙って見守る。
皆さんにご関心のある学習については、
娘のストレスや自己嫌悪を避けるため、
一切、字を教えたり読ませたりしないと決めました。
集団に入れずに彼女自身の発達だけに注目し、
自己肯定感を育て、自尊感情を育めば、
私の娘は自分で生きていけるようになる、
自立した大人になるという確信をもって、
長い長い二次障害との闘いに臨みました。
自分自身の経験から、
とても長い時を待つことになるとわかっていました。
4歳で保育園を退園し、小学校へもやらず、
娘を家で育てるために、
私は実家に同居して仕事を続けました。
私には娘と私を支えてくださる、
たくさんの人が必要でした。
酷い二次障害で荒れ狂っている娘を、
人間社会に繋ぎ続けておくために、
私は私の子育てを理解して、
支援して下さる方々を探しました。
滋賀大キッズカレッジに出会ったのは1年生の時、
娘の小学校の養護教諭の先生の紹介です。
学習支援のための療育ということでしたが、
私は定型発達を前提とした、
義務教育には関心がありませんでした。
我が子の状況はそのような贅沢が望めるような、
生易しいものでは全くありませんでした。
キッズの指導方針に出会った時には、
これぞ私が求めていた療育だと驚きました。
決して無理に読み書きさせない、
一切、反復練習をさせない、
間違っていても直さない、
黙って見守ってくださる。
これなら、安心して預けられると思いました。
私が求めていたもの、
自己肯定感と自尊感情の育成、
安心できる他人との繋がり、
この基本方針を共有できたことは、
本当に幸運なことだと思いました。
キッズに出会ったころの私の娘は、
酷い二次障害で家に閉じこもっていましたし、
暴れて物を壊したり、大声で暴言を吐いたり、
長時間、泣き叫んだりしていました。
偏食のひどい時期には1年間ほど、
塩おむすびしか食べませんでした。
小学校の低学年の頃には昼夜が逆転し、
明け方に眠って午後から起きてくる生活をしていました。
私はその一切に目をつむって黙っていましたので、
自分自身もウツになってしまいました。
1年生から通い始めたキッズも、
3年間は基本カリキュラムにさえ取り組めず、
ひたすら先生方を相手に一方的なおしゃべりをしていました。
それが、9歳半になる4年生の春ごろから、
まるで別人のような成長を見せ始めました。
驚くべき落ち着きを見せ、
一人で外へ出られるようになり、
とてつもなく酷かった吃音が消え、
周りの人に気を使えるようになりました。
キッズの課題にも取り組めるようになり、
他の場面でも指示受けが出来るようになりました。
地元京都でも、学習系の療育に週2で通えるようになり、
ピアノとお絵かきを習い始めました。
自分の経験から反復練習を絶対させたくなかった私は、
娘には字を教えず、一切練習させずにきました。
それでも、娘は自分の欲求に従って字を書き始め、
今では、詩や物語を書くようになっています。
誤字や鏡字だらけですが、私は一切間違いを指摘しません。
自身の経験から、
書くという行為がどれほどしんどいか知っているので、
「書く」という行為そのものを高く評価し、
褒めちぎり、こちらの読解力で正しく読み上げ、
「自分の書いたものが人に伝わる」
という喜びを体験させるようにしています。
私は娘を学校へやりませんでした。
もし、無理に集団生活をさせていたら、
これほどの自信と安心は手に入らなかったと思っています。
学校へ行くためにエネルギーを使い果たしていたら
この急激な発達を見ることもできなかったと思います。
最後に一つ、娘が字を読み始めた時のエピソードをご紹介したいと思います。
今年の夏のことです。
普段は中国と日本に分かれて住んでいる父親が、
帰宅して、ベッドに転がってiPadを眺めていました。
お父さんが大好きな娘は、父親にくっついて本を眺めていました。
本を読めない娘が、父親にアピールしたくて本を眺めていると思うと、
私には心が痛んで耐えられない姿でした。
部屋を離れて仕事を始めた私のところへ、
娘がその本をもってやってきました。
それは、1年生向けの世界の笑い話の短編集でした。
「お母さん、これホンマは笑えへん恐い話と思わへん」
というと、娘は音読を始めました。
映画のセリフなども暗記できる娘の事ですから、
知っているお話なら読み上げるふりをすることが出来ます。
私は話を合わせて聴いていたのですが、
その中に出てきた「水車」という言葉を、
娘が「みずぐるま」と読み間違えたのです。
物凄い衝撃でした。
確かに字を見て読んでいるのだと確認できました。
「ね。これって良く考えたら恐い話やろ」
と娘は笑っていましたが、
彼女の去った後、私は涙を押さえることができませんでした。
泣きました。声を殺して泣きました。
こんな日が来るとは、夢にも思いませんでした。
一生、本を読めなくても、
生きていく方法を身に着けさせる覚悟でした。
娘の発達は突然やってきました。
文字通り、化けたわけです。
今では、5年生の国語の教科書を音読しているそうですが、
焦らず、これまでの方針を守りつつ、
見守って行こうと思います。
娘の中に、自尊感情と自己肯定感が着実に育っています。
「生まれてきたことの意味なんて、
探す必要ないと思う。
生まれてきたことは凄く運が良かった。
生きてるだけでいいと思う。」
11歳になった娘の言葉が、私を支えてくれます。
この先も、彼女は「化ける」と信じています。
アスペでLDの娘の劇的発達を体験した保護者として、
体験談をお話して、質疑応答にも参加します。
しかしながら参加者がメチャメチャ多そうだし、
一般の参加費も1万円と高額なので、
「皆さん来てね~」とは言えない状況です。
そんなわけで、
お話の内容を整理する意味もあり、
フライングでここに書く事にしました。
私は滋賀大キッズカレッジの保護者としてお話しますが、
私はキッズで啓蒙されて今のような子育てをしているのではありません。
娘が4歳で保育園に行けなくなり、
酷い二次障害に至って発達検査を受けた時、
「やっぱり私の娘だな」と思いました。
私は自分自身が発達障害であり、読み書き困難です。、
小学校では悲惨な体験をして酷い二次障害に至り、
中学と高校へは行かずに荒れ狂いましたが、
二十歳で大検に合格し、
一般入試で同志社大学に進学し、
4年間で大学を卒業しました。
卒業後、2年間中国に留学して語学を身につけ、
その後、イギリスに3年間留学し、
ロンドン大学の大学院を卒業しました。
今でもメモはとれず漢字も書けませんが、
英語と中国語を話せますし、
生命保険代理店として独立して仕事もしています。
ですから、発達障害やLDの困難さは骨身に沁みていましたが、
学校へ行かせないことに対する不安はありませんでした。
娘にアスペルガーでLDという診断が出たのは就学前ですが、
4歳で発達障害を疑われ、
読み書きと計算に著しい困難を認められたあの時から、
私には一貫した育児・教育方針があります。
それは、「黙る・待つ・信じる」ということです。
一般的な躾をやめ、嫌なことはさせず、好きなことだけさせておく。
声かけを極限まで減らし、危険なこと以外は黙って見守る。
皆さんにご関心のある学習については、
娘のストレスや自己嫌悪を避けるため、
一切、字を教えたり読ませたりしないと決めました。
集団に入れずに彼女自身の発達だけに注目し、
自己肯定感を育て、自尊感情を育めば、
私の娘は自分で生きていけるようになる、
自立した大人になるという確信をもって、
長い長い二次障害との闘いに臨みました。
自分自身の経験から、
とても長い時を待つことになるとわかっていました。
4歳で保育園を退園し、小学校へもやらず、
娘を家で育てるために、
私は実家に同居して仕事を続けました。
私には娘と私を支えてくださる、
たくさんの人が必要でした。
酷い二次障害で荒れ狂っている娘を、
人間社会に繋ぎ続けておくために、
私は私の子育てを理解して、
支援して下さる方々を探しました。
滋賀大キッズカレッジに出会ったのは1年生の時、
娘の小学校の養護教諭の先生の紹介です。
学習支援のための療育ということでしたが、
私は定型発達を前提とした、
義務教育には関心がありませんでした。
我が子の状況はそのような贅沢が望めるような、
生易しいものでは全くありませんでした。
キッズの指導方針に出会った時には、
これぞ私が求めていた療育だと驚きました。
決して無理に読み書きさせない、
一切、反復練習をさせない、
間違っていても直さない、
黙って見守ってくださる。
これなら、安心して預けられると思いました。
私が求めていたもの、
自己肯定感と自尊感情の育成、
安心できる他人との繋がり、
この基本方針を共有できたことは、
本当に幸運なことだと思いました。
キッズに出会ったころの私の娘は、
酷い二次障害で家に閉じこもっていましたし、
暴れて物を壊したり、大声で暴言を吐いたり、
長時間、泣き叫んだりしていました。
偏食のひどい時期には1年間ほど、
塩おむすびしか食べませんでした。
小学校の低学年の頃には昼夜が逆転し、
明け方に眠って午後から起きてくる生活をしていました。
私はその一切に目をつむって黙っていましたので、
自分自身もウツになってしまいました。
1年生から通い始めたキッズも、
3年間は基本カリキュラムにさえ取り組めず、
ひたすら先生方を相手に一方的なおしゃべりをしていました。
それが、9歳半になる4年生の春ごろから、
まるで別人のような成長を見せ始めました。
驚くべき落ち着きを見せ、
一人で外へ出られるようになり、
とてつもなく酷かった吃音が消え、
周りの人に気を使えるようになりました。
キッズの課題にも取り組めるようになり、
他の場面でも指示受けが出来るようになりました。
地元京都でも、学習系の療育に週2で通えるようになり、
ピアノとお絵かきを習い始めました。
自分の経験から反復練習を絶対させたくなかった私は、
娘には字を教えず、一切練習させずにきました。
それでも、娘は自分の欲求に従って字を書き始め、
今では、詩や物語を書くようになっています。
誤字や鏡字だらけですが、私は一切間違いを指摘しません。
自身の経験から、
書くという行為がどれほどしんどいか知っているので、
「書く」という行為そのものを高く評価し、
褒めちぎり、こちらの読解力で正しく読み上げ、
「自分の書いたものが人に伝わる」
という喜びを体験させるようにしています。
私は娘を学校へやりませんでした。
もし、無理に集団生活をさせていたら、
これほどの自信と安心は手に入らなかったと思っています。
学校へ行くためにエネルギーを使い果たしていたら
この急激な発達を見ることもできなかったと思います。
最後に一つ、娘が字を読み始めた時のエピソードをご紹介したいと思います。
今年の夏のことです。
普段は中国と日本に分かれて住んでいる父親が、
帰宅して、ベッドに転がってiPadを眺めていました。
お父さんが大好きな娘は、父親にくっついて本を眺めていました。
本を読めない娘が、父親にアピールしたくて本を眺めていると思うと、
私には心が痛んで耐えられない姿でした。
部屋を離れて仕事を始めた私のところへ、
娘がその本をもってやってきました。
それは、1年生向けの世界の笑い話の短編集でした。
「お母さん、これホンマは笑えへん恐い話と思わへん」
というと、娘は音読を始めました。
映画のセリフなども暗記できる娘の事ですから、
知っているお話なら読み上げるふりをすることが出来ます。
私は話を合わせて聴いていたのですが、
その中に出てきた「水車」という言葉を、
娘が「みずぐるま」と読み間違えたのです。
物凄い衝撃でした。
確かに字を見て読んでいるのだと確認できました。
「ね。これって良く考えたら恐い話やろ」
と娘は笑っていましたが、
彼女の去った後、私は涙を押さえることができませんでした。
泣きました。声を殺して泣きました。
こんな日が来るとは、夢にも思いませんでした。
一生、本を読めなくても、
生きていく方法を身に着けさせる覚悟でした。
娘の発達は突然やってきました。
文字通り、化けたわけです。
今では、5年生の国語の教科書を音読しているそうですが、
焦らず、これまでの方針を守りつつ、
見守って行こうと思います。
娘の中に、自尊感情と自己肯定感が着実に育っています。
「生まれてきたことの意味なんて、
探す必要ないと思う。
生まれてきたことは凄く運が良かった。
生きてるだけでいいと思う。」
11歳になった娘の言葉が、私を支えてくれます。
この先も、彼女は「化ける」と信じています。