健康は細胞から!
細胞からの若返り ヘルスコーチ 山中眞理子
椎体形成手術について。
そして、私を救ってくれた人たちのこと。
手術のために転院すると、まずベッドで横になったままコルセットの採寸が行われました。
「3日ほどで出来るので、それまでは病院の備え付けのコルセットを使ってくださいね」と言われ、食事の時にはコルセットをつけてベッドの背を上げるように指示されました。
恐る恐る背を上げる。まだ少し上げられる。そこで、ようやくお皿の中身を確認しながら食事ができるようになりました。
検査づくしの一日と、院長先生の説明
レントゲン、CT、MRI、骨密度…
あらゆる検査が終わると、手術は翌々日に決まりました。
執刀医の院長先生が病室に来られ、
「手術そのもののリスクは少ないですが、術後にリスクがあります。
ただし翌日から少し歩けるようになりますよ」
と丁寧に説明してくださいました。
ヤギ小屋の前で倒れて以来、初めてのシャワー
手術前日、ストレッチャーでシャワー室へ運ばれ、
山羊小屋の前で倒れて以来、初めて、寝たまま顔・髪・身体を洗っていただきました。
その時の気持ちは言葉にできません。
あの日以来、10日間は、本当に身体も心も“気持ち悪さ”でいっぱいでした。
水に触れるだけで、人心地が戻ってきた感じがしました。
手術当日。息ができない瞬間と、「終わりましたよ!」の声
手術当日、午後1時にストレッチャーで手術室へ。
全身麻酔が入った瞬間、酸素不足のような息苦しさが襲ってきて、
「このまま死ぬのではないか」と思ったほどでした。
その時に聞こえた声が、
「終わりましたよ!」
自分が生きている実感が、一気に戻ってきました。
手術後の回復病棟での夜
手術を終えた私は、点滴をつけたまま広い部屋へ。ふと時計を見ると午後4時を回っていました。
すでに私の前に手術を終えた患者さん、そして私の後にも入ってこられてその日の患者さんは全員で4人ほど。
その広い部屋には、ずっと大きないびきをかいている方もいて、
私はなかなか眠れず、睡眠薬のお世話になりました。
翌朝は移動式レントゲンがベッド横に来て撮影。
その後ようやく元の病室へ戻ると、
同室の方々が「よかったね!」と温かい声をかけてくださり、胸が熱くなりました。
手術翌日から「歩く」。そして尿カテーテルからの解放!
お昼にはコルセットをつけてベッドの横に腰掛け、
久しぶりにゆっくりと食事を楽しむことができました。
歩行補助機を使い自分の足でトイレまで歩けた時の喜びは忘れられません。
翌日には、かなり遠いCT室とMRI室まで歩いて行けました。
それから、骨粗鬆症の改善のために”イベ二ティ”の注射を受けました。これは骨芽細胞と破骨細胞の両方に効果がある、現在のところほぼ唯一の安心できる骨粗鬆症薬でこれから1年間、毎月1回注射を続けます。
朝晩2回のリハビリ
手術の4日目・5日目には、リハビリ室で正式なリハビリが始まりました。
朝晩2回のリハビリでは筋肉ほぐしのマッサージとできる動作の確認、杖を使っての歩行、起き上がり方などlに励みました。
本来なら、
私のように骨量が基準の半分以下の人は、2週間〜1ヶ月
入院
というのが一般的だそうです。
でも私は、
「自宅のほうがもっと歩ける。
水素も吸えるし、レッドライトも使える。」
そう思い、術後6日目に退院することを決めました。
先生は驚いておられましたが、承諾して下さいました。
退院の日。人の強さと優しさを思い知る
退院の日、病棟のスタッフの方々が皆で見送ってくださいました。
スタッフの方々の、その温かさに胸がいっぱいになりました。
そして、同室で数日間をご一緒した農家のご婦人。
お話しから垣間見える大変なご苦労の経験。それにもかかわらず、明るく、毅然と生きておられるその姿に、私は深い尊敬と希望を感じました。
周囲を支える人の存在は、
どれほど心強いものか——
改めて思い知った時間でした。
次回は「退院後の生活で気をつけたこと」「回復を早めた習慣」について書きます。
高齢者の骨折や入院を経験した方、またご家族の方の参考になるよう、
続けて丁寧にお伝えしますね。
次回はいよいよ転院して手術に向かい、そして手術後の日々についてお届けしますね
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私のストーリー
幼少時代~学生時代
私は1947年生まれです。
戦後2年目の夏です。
幼少時からとっても細くてひ弱でした。
よく蕁麻疹になっていましたし、学校の入学試験の日に風邪を引いて両親が希望する学校に行かれない。など親を困らせていました。
そんなでしたので小学校に入ってもお給食が食べられないでいました。
中学に入って2キロほど離れた学校に自転車で通うようになってからはだいぶ丈夫になりましたが体育の授業はたいていさぼっていました。バレーボールやバスケットなどのボールゲームが大嫌いだったからです。テニスは少ししましたが、全くセンスがないのは明らかでした。
勉強も好きなことしかしなくて、成績のことなどはあまり気になりませんでした。
とても神経質で内向的でかなりわがままな困った子供時代でした。
学校から帰ると音楽を聴いたり本を読んだりしていました。
高校を卒業すると美術史に興味を持つようになり、イタリアに憧れるようになりました。
それで、イギリスかアメリカに留学させたいと思っていた親は猛反対しましたが、結局許してイタリア留学が叶いました。
憧れのイタリアでの生活は想像以上の変化をもたらしてくれました。
第1に変わったのが、神経質で内向的でははいけない、という点です。社交性を身につけなければ誰も相手にしてくれないし、それでは面白くない、ということに気づいた点です。
第2に変わったのは勉強を好きになったことです。新しいことを学ぶのはとっても楽しいし刺激的だということ。それから、多少、いやでも面倒でも学んだことは何かの役に立つ、と分かったことです。
世界各地のお友達が沢山できて楽しかったです。



