【「大田 南畝(なんぽ)」の生家跡に建つ「肉まん屋」】

尊敬する「磯田道史」が司会の「英雄たちの選択」で、「蔦屋重三郎」の
狂歌仲間のリーダーの「大田南畝」についてやっていました。

(「大田南畝」/四方赤良(よものあから))

私が「大田南畝」の名前を知ったのは、「中山道踏破」の途中の「本山宿」の
蕎麦屋でした。


そこにこの蕎麦屋の宣伝文句を書いた「大田南畝(蜀山人)」の掛け軸が
下げられていました。
何故こんな山奥に、江戸の狂歌師の歌があるの?、大田南畝って何者なの?
という訳で、今日は、神楽坂の「大田南畝宅」を見に行きます。

地下鉄大江戸線の「牛込神楽坂駅」で下車します。

先ず、最高裁判所長官公邸を目指して急な坂道を上って行きます。

急な坂道を上り切った牛込のこの辺りには、江戸時代には幕臣の家が
立ち並んでいました。
そして、「大田南畝」の属する「御徒方」が暮らすこの辺りは、下級武士の小さな家がぎっしりと並んでいました。

最高裁判所長官公邸に着きました。
黄土色の長い塀の中央に入口があり、警察官が監視しています?
そう言えば、建物になんの表示も無く、初めての人は何の建物か分かりません。
念のため写真の監視の警察官に「ここは誰が住んでいるのですか?」と聞いて
みたら、「偉い方です。それ以上は答えられません」とのこと。
最高裁判所長官は、裁判で逆恨みをされて命を狙われますからね、なるほど!

この公邸は、江戸時代の旗本の「大久保甚四郎」の屋敷だった建物を
そのまま使用しています。

最高裁判所長官公邸から少し戻って、「大田南畝宅」へ向かいます。
大河ドラマ「べらぼう」では「大田南畝役」を「桐谷健太」が演じるらしいです。

「大田南畝宅」の跡に建つ「肉まん屋・目黒五十番」の前に「南畝の業績などを
説明したパネル」が下がっていました。



(中央の四角の青色が肉まん屋、ピンク色(当初)と茶色(後に引越)が太田南畝宅)
肉まん屋の女将さんの話では、このパネルは「南畝の大ファン」だというお客さんが勝手に作ったそうです。
なるほどね、さすが江戸に狂歌の大ブームを起こした南畝、今でも熱心な信奉者が
いるんですね!





肉まん屋から少し戻って、交差点を右折し、写真の「光照寺」に立ち寄ります。

この立派な構えの光照寺は、戦国時代の「牛込城跡」だそうです。

(大田南畝)
大田南畝は、1749年、ここ牛込中御徒町で、幕府の最下級の役人である
「御徒(おかち:いわゆる歩兵)」の家の長男として生まれました。
本名は大田直次郎と言い、勉強好きで、とびきり頭が良い少年でした。
15歳で、同じ牛込に住む「内山椿軒」に入門して、和歌、漢学、漢詩、狂詩を学び「南畝」と名乗ります。
南畝の名が広く世間に知られる様になったのは、19歳で刊行した処女作の
「寝惚(ねぼけ)先生文集」でした。
この本の序は、南畝の才能に感嘆した「平賀源内」が書きました。
また、大田南畝 は「四方赤良」と号して、「四方連(狂歌の会)」を主催しますが、
その会に「蔦屋重三郎」も顔を出します。

(大田南畝 が主催する「四方連(狂歌の会)」:正面の屏風の前が「大田南畝」で、
右が「蔦屋重三郎」)

(蔦唐丸(蔦屋重三郎))

(四方連の「朋誠堂喜三二」と「恋川春町(倉橋格)」)
(倉橋格(恋川春町)役:岡山天音、下記左はその作品)


(四方連の武士「平沢常富」と「倉橋格」)
「四方連」の「平沢常富(手柄岡持)」役の「尾美としのり」は、
インターネットの検索キーワード「#尾美としのりを探せ」で、
大ブレイクしています。

平沢が本名で、狂歌の名前を上記以外にも多く名乗っていました。

(大田南畝(四方赤良))

自身が主催する狂歌集団を「四方連」と称し活動、発刊した上の写真の
「万載狂歌集」が大ヒットしました。
狂歌とは、和歌と同じ、5.7.5.7.7ですが、洒落や皮肉を面白おかしく表現
したものです。

更に、蔦屋重三郎を版元として、上の写真の「黄表紙:虚言八百万八伝」を
出版しました。
この黄表紙は、万のうち8つしか本当の事を言わない「万八」という人物の
物語です。
また、「大田南畝」は、「山東京伝」の才能を見出して世に送り出しました。


上の写真は、「山東京伝」の黄表紙「箱入娘面屋人魚」 です。
竜宮城の「浦島太郎」が、妻である「乙姫様」の目を盗んで、美しい鯉
(下の写真の人魚が浮気相手の鯉)と浮気をするという話です。


毛虫 「毛をふいて きずやもとめん さしつけて きみがあたりにはひかかりなば」
(君にちょっかいを出そうと、僕が這って近寄れば、毛に隠れた傷を探す様に、
僕のあら捜しをするのだろう。)
この毛虫の歌を詠ったのは「大田南畝(四方赤良)」です。(絵は喜多川歌麿)
狂歌で人気絶頂の「南畝」は、土山宗次郎の取り巻の一人になり「吉原通い」を
しました。
批評家、戯作者など多彩な一面も持ち合わせ、無類の酒好きでした。
吉原の松葉屋の三保崎という遊女を身請けし、自分の屋敷の中に離れ家を建てて
妾にしました。
ところが、「寛政の改革」で、版元の蔦屋重三郎と仲間の山東京伝が処分を受けます。
また、南畝を経済的に支えてきた田沼意次の腹心の土山宗次郎が横領の罪で
斬首されました!

この厳しい寛政の改革に対する批判として、江戸では、
「世の中に蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶぶんぶと夜も眠れず」
という狂歌が大流行しました、
この狂歌の作者が南畝ではないかと疑われ、南畝は江戸払いとなり追放されます。

これを機に、狂歌壇と関係を断ち、幕臣としての活動に専念します。
「昌平坂学問所」の試験を受けて、見事に首席で合格し、大坂銅座、長崎奉行所
などに赴任し、勘定奉行配下の支配勘定に出世しました。
長崎奉行所に赴任中は、当時来航したレザノフ率いるロシア艦隊に対応しました。
寛政の改革の嵐が過ぎたあとでは、幕臣として活躍する傍らで、「蜀山人」の号で
再び狂歌を詠み、「千紅万紫」などを出版し、江戸の代表的な知識人との評価を
得ました。
南畝は74歳でこの世を去ります。
南畝は、以下の有名な辞世の歌を残しています。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」



毘沙門天(護国寺)の隣の「玄品ふぐ」でランチを食べてから帰宅しました。

うな重:5,500円
