(上野・御徒町の「佐竹商店街」)

 

 


今回は、「平沢 常富(つねまさ)」が家老を務めた「秋田佐竹藩の屋敷跡」を

訪ねます。


大江戸線・新御徒町駅で下車します。新幹線後ろ新幹線真ん中
 

 

「平沢常富」のペンネームは、「朋誠堂喜三二」(ほうせいどう きさんじ)でした。

 

「江戸留守居役・平沢常富」の主な役割は、幕府や他藩との情報交換で、そのための会合は吉原で行われていました。びっくり



写真は、上野・御徒町の「佐竹商店街」です。

 

商店街の入口の説明版(赤丸印)には、
「この辺り一帯(佐竹商店街)が、「秋田佐竹藩」の「家老(江戸留守居役)

・平沢常富」がトップだった「上屋敷」だった。」と書いてあります。

 

 

 


ここ佐竹商店街のスピーカーからは、江戸時代の佐竹藩の歴史についての解説が、

買い物客向けに流れています。カラオケ

 


商店街の中程には、上の写真の「佐竹秋葉神社」があります。

 

その説明版には以下の様に記されています。


「佐竹秋葉神社は、二十八万石を有する東北地方屈指の大名で、秋田藩十二代藩主・

佐竹右京太夫義尭公の上屋敷の守護神にて、この地にあった広大な屋敷跡である。」

 

(以下の挿絵は、「蔦屋重三郎の真実(歴史人)」、「居酒屋蔦重(オレンジページ)、

    NHKテレビ「英雄たちの選択」からの転写です。)

 


「平沢常富」のデビュー作は、吉原に通う若者のスタイルを紹介した上の写真の

洒落本「当世風俗通」で、挿絵は親友の「小島藩藩士・恋川春町」が描きました。

 

 


「平沢常富」は、「鱗形屋孫兵衛」の専属作家でしたが、「蔦屋重三郎」が強引に

引き抜き、自分の専属にしてしまいます。ガーン

 

 


上の絵は、平沢常富の「文武二道 万石通」です。

源頼朝の家来の畠山重忠が、武士の教育を勘違いして、風流や教養を奪ってゆく

という物語です。


時代は鎌倉時代に置き換えていますが、内容は「松平定信」の「寛政の改革」を

皮肉ったものです。

 


この黄表紙「文武二道 万石通」は、蔦屋から刊行されて好評を博しました。

 


この「文武二道 万石通」の初版では、畠山重忠を示す「重」(右肩の青丸印)と、

松平定信の家紋を示す「梅鉢紋」(左肩の青丸印)が描かれています。

 


しかし、これが松平定信の怒りをかったのちの三版では、「重」と「梅鉢紋」が

共に削られています。


「寛政の改革」を皮肉ったこの「文武二道 万石通」により、「平沢常富」は、

 秋田佐竹藩の藩主の佐竹公により断筆を命ぜられます。ガーン


しかし、平沢常富は、大大名の秋田佐竹藩の江戸留守居役(家老)なので、

幕府も遠慮して、叱責だけで済ませてしまいます。ニヤリ


「大大名の家老の平沢常富」や、「幕臣の大田南畝」とは異なり、「弱小藩の

小島藩のただの藩士」だった「恋川春町」の運命は過酷なものでした!! 

ガーン
「恋川春町」は、「松平定信」が書いた教本「鸚鵡(おうむ)の詞(ことば)」に

なぞらえた「鸚鵡返 文武二道(ぶんぶの ふたみち)」を出版しました。

 


上の絵は、春町の「鸚鵡返 文武二道」で、吉原などの取り締まりを厳しくしたために、一般の女性に被害が及んだことを風刺しています。


春町の「鸚鵡返 文武二道」の鸚鵡返(おうむがえし)とは、「平沢常富」の

「万石通」の後編であることを示すとともに、「松平定信」が書いた「鸚鵡言」

(おうむのことば)も風刺していました。


また、下の漫画の様に、政治の在り方を凧揚げに例える鸚鵡言の記述を

取り上げています。

 

 


それを人々が勘違いして凧揚げを競ったと茶化しています。


下の絵は、春町の「鸚鵡返 文武二道」ですが、平安時代、武芸の推奨を勘違いした

貴族たちが、町中で大混乱を起こす物語です。

 


(時代は平安時代に置き換えていますが、内容は「松平定信」が編集した「鸚鵡之詞」(おうむのことば)を皮肉ったものです。)
 

これらの本は、「松平定信」の文武奨励を揶揄したものとみなされ、「松平定信」の

逆鱗に触れてしまいます!びっくり

 


恋川春町は、幕府からの呼び出しを食らいます!えーん

 


もし春町が、出頭して罪を認めれば、「お家断絶」のうえ、「小島藩の藩主」にまで

類が及びます!滝汗


春町は、恐れおののき、病を理由に屋敷に籠り続け、出頭命令に応じませんでした。


春町は、出頭命令に応じないまま死去してしまいますが、この死去については

自殺説もあります。泣くうさぎ


辞世の句:「我もまた 身は亡きものと 思いしか 今はの際は 寂しかりけり」


この春町の「辞世の句」を知って、「蔦屋重三郎」は、自分が危ない橋を

渡らせてしまったと後悔します。えーん

 

 




 

 

 

 

(「大田南畝(なんぽ)の墓」のある「本念寺(文京区)」)

 

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**** gooからこのアメーバへ引っ越ししました。          ****
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**** これまで同様ご愛読の程よろしくお願いいたします。****
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今回は、「大田南畝の墓」のある「本念寺」を訪ねます。

 

 

都営三田線の「白山駅」で下車し、旧白山通りの坂道を下りて行きます。

 

 

白山通りに合流しますので、道路向こうの道へ渡り、京華中高校の前まで歩きます。

 

 

京華中高校の道路向こうの坂道を上る途中に、目指す「本念寺」がありました。

 

 

 

この寺には、御家人で、江戸を代表する狂歌師だった「大田南畝(蜀山人)」が

眠っています。

 

 

「松平定信」の「寛政の改革」によって、出版物への厳しい弾圧の嵐が吹き荒れた

時代に、江戸では、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 

ぶんぶぶんぶ(文武 々)と 夜も眠れず」という狂歌が大流行しました。

 

この狂歌の作者が南畝ではないかと疑われ、南畝は江戸払いとなり追放されます。

 

南畝は、これを機に、狂歌壇と関係を断ち、幕臣としての活動に専念します。

 

 

お参りは寺の人の許可が必要でしたが、ご不在だったので、お墓にお参りする事は

出来ませんでした。

 

気を取り直して、本念寺を後にし、白山通りに出ます。

 

 

白山通りの白山駅とは反対側に、後楽園のジェットコースター(赤丸印)が

見えたので、後楽園駅を目指して歩いて行きます。

 

 

東京ドームシティ・ラクーアの隣の「文京シビックセンター」に着きました。

 

シビックセンターの前の中華料理「味菜里」に入り、

ランチに好物の「酢豚」(1,100円)を注文します。

 

ところで、「寛政の改革」では、


版元の「蔦屋重三郎」と、

仲間の「山東京伝」が、厳しい処分を受けます

 

(山東京伝(北尾政演)役:古川雄大)

 

「寛政の改革」では、更に、「大田南畝」を経済的に支えてきた

「田沼意次」の腹心の「土山宗次郎」が横領の罪で斬首されました! 

 

 

「寛政の改革」では、「大田南畝」以外の「武家の戯作者」たちも圧力が加わります。

 

その戯作者たちとは、「秋田藩家老・平沢常富」と「小島藩士・恋川春町」です。

 

   

 

「平沢常富」は、「朋誠堂喜三二」などの号を名乗っていました。

「朋誠堂喜三二」は、「干せど 気散じ」が由来だそうです。

 

 

「江戸留守居役・平沢常富」の主な役割は、幕府や他藩との情報交換で、

そのための会合は吉原で行われました。

 

次回は、「平沢常富」が家老を務めた「秋田佐竹藩の屋敷跡」を訪ねてみます。

 

 

 

 

(上野公園に立つ「大田 南畝(蜀山人)の歌碑」)

 

今回は、お花見を兼ねて、上野公園の中に立つ「大田 南畝(なんぽ)の歌碑」を

見に行きました。

 

JR上野駅の不忍口から出て、京成上野駅方面へ歩いて行きます。 

 

 

京成上野駅の手前の石段を上がったところに、「大田 南畝の歌碑」があります。

 

    

   

    

 

歌碑の歌は、「一めんの 花は碁盤の 上野山 黒門前に かかるしら雲」です。

 

この歌の文字は南畝の自筆です。

 

江戸時代も、ここ寛永寺の境内は、桜の名所として知られていました。

 

歌は、桜の花を「碁盤」に見立て、「黒門」と「雲」を、黒と白の碁石に

例えたものです。

 

 

この句碑自体は、昭和13年に、日露戦争の忠魂碑として建立されました。

 

歌の左側には、上の写真の様に、細字で、蜀山人についての説明、碑建設の

いきさつを刻んでいます。

 

また、「浅草寺」にある「山東京伝の机塚」の碑文を書いたのも南畝でした。

 

 

私は暫く歌碑の前にいましたが、この歌碑が植え込みの中にあることもあり、

誰一人として気付くことなく通り過ぎて行きます・・・

 

この場所には、上野戦争で彰義隊と新政府軍が激突した激戦地となった「黒門」が

ありました。

 

現在は、黒門の跡地には、下の写真の「黒門」をイメージしたモニュメント

(黒門を模した壁泉)が設置されています。

 

 

 

この壁和泉のモニュメントは、かってこの地にあった「黒門」の姿を

イメージしています。

 

 

上の黒門の説明版には、以下の様に書かれています。

 

 「黒門」は「寛永寺の総門」です。

 

 幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、この黒門付近です。

    戦いは主として銃撃戦でした。

    そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。

 

 焼け残った黒門は明治40年、荒川区の円通寺に移築されました。

 

 円通寺には、幕府軍の彰義隊の墓所があります。

 

 

上野公園のメインストリートを、お花見をしながら歩いて行きます。 

 

 

今年の正月に、お節料理を食べに来た上の写真の「韻松亭」の前を通りますが、

相変わらずの長蛇の列です。

 


(写真は安藤広重「名所江戸百景上野 月の松」)

 

お花見のメインストリートの右手に、上の写真の「清水観音堂」があります。

「清水観音堂」は、「京都の清水寺」に見立てて造られました。

 

 

浮世絵に描かれた清水観音堂の「月の松」は、松の枝がくるりと円を描いており、

江戸の名所でした。

 

石段を上って、観音堂の「清水の舞台」に出てみます。

 


清水観音堂の「清水の舞台」から眺める桜並木は満開でした。

 

 

清水観音堂の前の通りは、ブルーシートを敷いてのお花見OKみたいで、

賑わっていました。  

 

上野公園のメインストリートの桜並木の端まで来ました。

 

 

上の写真の国立博物館の隣に、大田南畝の歌碑の「黒門」とは関係ありませんが、

下の写真の 「黒門」(重要文化財)がありました。

 

     

上の写真の説明版にとると、この「黒門」は、旧因州(鳥取県)の池田屋敷の

表門だそうです。

 

江戸末期の最も格式が高い大名屋敷の入母屋造りの門で、門の左右に向唐破風の

番所を備えています。

 

「上野 桜フェスタ祭り」(4月6日で終了)の出店を覗きながら、JR上野駅へ

戻り帰宅します。

 

 

仮設の舞台では、「上野 桜フェスタ」祭りの演奏などをやっていました。

 

   

    

 

能登地震の応援の意味を込めて、能登牛のジャンボロースステーキ串(1,700円)を

買います。

 

 

 

 

 

(上野公園の大田南畝の歌碑は、中央左端の青色四角) 

 

     

 

【「大田 南畝(なんぽ)」の生家跡に建つ「肉まん屋」】

 

 

 

尊敬する「磯田道史」が司会の「英雄たちの選択」で、「蔦屋重三郎」の

狂歌仲間のリーダーの「大田南畝」についてやっていました。

 

 

(「大田南畝」/四方赤良(よものあから))

 

 

私が「大田南畝」の名前を知ったのは、「中山道踏破」の途中の「本山宿」の

蕎麦屋でした。

 

 

そこにこの蕎麦屋の宣伝文句を書いた「大田南畝(蜀山人)」の掛け軸が

下げられていました。

 

何故こんな山奥に、江戸の狂歌師の歌があるの?、大田南畝って何者なの? 

 

という訳で、今日は、神楽坂の「大田南畝宅」を見に行きます。

 

 

地下鉄大江戸線の「牛込神楽坂駅」で下車します。

 

 

 

先ず、最高裁判所長官公邸を目指して急な坂道を上って行きます。 

 

 

急な坂道を上り切った牛込のこの辺りには、江戸時代には幕臣の家が

立ち並んでいました。

 

そして、「大田南畝」の属する「御徒方」が暮らすこの辺りは、下級武士の小さな家がぎっしりと並んでいました。

 

 

最高裁判所長官公邸に着きました。   

 

黄土色の長い塀の中央に入口があり、警察官が監視しています?

 

そう言えば、建物になんの表示も無く、初めての人は何の建物か分かりません。

 

念のため写真の監視の警察官に「ここは誰が住んでいるのですか?」と聞いて

みたら、「偉い方です。それ以上は答えられません」とのこと。

 

最高裁判所長官は、裁判で逆恨みをされて命を狙われますからね、なるほど!

 

 

この公邸は、江戸時代の旗本の「大久保甚四郎」の屋敷だった建物を

そのまま使用しています。

 

 

最高裁判所長官公邸から少し戻って、「大田南畝宅」へ向かいます。

 

大河ドラマ「べらぼう」では「大田南畝役」を「桐谷健太」が演じるらしいです。

 

 

「大田南畝宅」の跡に建つ「肉まん屋・目黒五十番」の前に「南畝の業績などを

説明したパネル」が下がっていました。

 

 

(中央の四角の青色が肉まん屋、ピンク色(当初)と茶色(後に引越)が太田南畝宅)

 

肉まん屋の女将さんの話では、このパネルは「南畝の大ファン」だというお客さんが勝手に作ったそうです。

 

なるほどね、さすが江戸に狂歌の大ブームを起こした南畝、今でも熱心な信奉者が

いるんですね!

 

 

肉まん屋から少し戻って、交差点を右折し、写真の「光照寺」に立ち寄ります。

 

 

この立派な構えの光照寺は、戦国時代の「牛込城跡」だそうです。

 

 

(大田南畝)

 

大田南畝は、1749年、ここ牛込中御徒町で、幕府の最下級の役人である

「御徒(おかち:いわゆる歩兵)」の家の長男として生まれました。

 

本名は大田直次郎と言い、勉強好きで、とびきり頭が良い少年でした。

 

15歳で、同じ牛込に住む「内山椿軒」に入門して、和歌、漢学、漢詩、狂詩を学び「南畝」と名乗ります。

 

南畝の名が広く世間に知られる様になったのは、19歳で刊行した処女作の

「寝惚(ねぼけ)先生文集」でした。

 

この本の序は、南畝の才能に感嘆した「平賀源内」が書きました。

 

また、大田南畝 は「四方赤良」と号して、「四方連(狂歌の会)」を主催しますが、

その会に「蔦屋重三郎」も顔を出します。

 

 

(大田南畝 が主催する「四方連(狂歌の会)」:正面の屏風の前が「大田南畝」で、

右が「蔦屋重三郎」)

 

 

(蔦唐丸(蔦屋重三郎))

 

 

(四方連の「朋誠堂喜三二」と「恋川春町(倉橋格)」)

 

    

 

(倉橋格(恋川春町)役:岡山天音、下記左はその作品)

 

 

(四方連の武士「平沢常富」と「倉橋格」)

 

    

 

「四方連」の「平沢常富(手柄岡持)」役の「尾美としのり」は、

インターネットの検索キーワード「#尾美としのりを探せ」で、

大ブレイクしています。

 

 

平沢が本名で、狂歌の名前を上記以外にも多く名乗っていました。

 

 

(大田南畝(四方赤良))

 

 

自身が主催する狂歌集団を「四方連」と称し活動、発刊した上の写真の

「万載狂歌集」が大ヒットしました。

 

狂歌とは、和歌と同じ、5.7.5.7.7ですが、洒落や皮肉を面白おかしく表現

したものです。

 

 

更に、蔦屋重三郎を版元として、上の写真の「黄表紙:虚言八百万八伝」を

出版しました。

 

この黄表紙は、万のうち8つしか本当の事を言わない「万八」という人物の

物語です。

 

また、「大田南畝」は、「山東京伝」の才能を見出して世に送り出しました。

 

 

上の写真は、「山東京伝」の黄表紙「箱入娘面屋人魚」 です。

 

竜宮城の「浦島太郎」が、妻である「乙姫様」の目を盗んで、美しい鯉

(下の写真の人魚が浮気相手の鯉)と浮気をするという話です。


毛虫 「毛をふいて きずやもとめん さしつけて きみがあたりにはひかかりなば」

 

(君にちょっかいを出そうと、僕が這って近寄れば、毛に隠れた傷を探す様に、

 僕のあら捜しをするのだろう。)

 

この毛虫の歌を詠ったのは「大田南畝(四方赤良)」です。(絵は喜多川歌麿)

 

狂歌で人気絶頂の「南畝」は、土山宗次郎の取り巻の一人になり「吉原通い」を

しました。

 

批評家、戯作者など多彩な一面も持ち合わせ、無類の酒好きでした。

 

吉原の松葉屋の三保崎という遊女を身請けし、自分の屋敷の中に離れ家を建てて

妾にしました。

 

ところが、「寛政の改革」で、版元の蔦屋重三郎と仲間の山東京伝が処分を受けます。

 

また、南畝を経済的に支えてきた田沼意次の腹心の土山宗次郎が横領の罪で

斬首されました!

 

 

この厳しい寛政の改革に対する批判として、江戸では、

「世の中に蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶぶんぶと夜も眠れず」

という狂歌が大流行しました、

 

この狂歌の作者が南畝ではないかと疑われ、南畝は江戸払いとなり追放されます。

 

 

これを機に、狂歌壇と関係を断ち、幕臣としての活動に専念します。

 

「昌平坂学問所」の試験を受けて、見事に首席で合格し、大坂銅座、長崎奉行所

などに赴任し、勘定奉行配下の支配勘定に出世しました。

 

長崎奉行所に赴任中は、当時来航したレザノフ率いるロシア艦隊に対応しました。

 

寛政の改革の嵐が過ぎたあとでは、幕臣として活躍する傍らで、「蜀山人」の号で

再び狂歌を詠み、「千紅万紫」などを出版し、江戸の代表的な知識人との評価を

得ました。

 

南畝は74歳でこの世を去ります。

 

南畝は、以下の有名な辞世の歌を残しています。

「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」

 

 

 

 

毘沙門天(護国寺)の隣の「玄品ふぐ」でランチを食べてから帰宅しました。  

 

 

うな重:5,500円

 

 

              

 

(葛飾北斎が描いた「耕書堂」:絵の上方に「堂書耕」の看板)

 

 


先週、いつもの様に上の写真の「NHK:歴史探偵」を見ていたら、「江戸時代の

日本橋の町並み」をCGで再現していました。

 

 

(日本橋は、江戸随一の繁華街)

 

 

写真は、「耕書堂」の店頭の様子ですが、蔦重は、吉原大門から、事業拡大に

合わせて「日本橋 通油町」(とおりあぶらちょう)に進出しました。

 

通油町の一帯には、有名版元が軒を連ねており、新興勢力の蔦重はライバルと

競いながら、江戸ナンバーワンの版元を目指します。

 

 

蔦重は、「東洲斎写楽の役者絵」を28枚同時に売り出しました。

 

   

 

(蔦重がプロデュースした東洲斎写楽の浮世絵)

 

 

(山東京伝の黄表紙)

 

 

(喜多川歌麿の美人画)

 

 

という訳で、今日は、「日本橋の耕書堂」へ行ってみます。

 

「日本橋の耕書堂」は、日光街道のメインストリート沿いにありました。

 

 

そこで、地下鉄日比谷線・小伝馬町駅で下車して、スタート地点の「旧日光街道 

本通り」(日光街道のメインストリート)の石碑へ向かいます。

 

「旧日光街道 本通り」の標柱には、以下の様に刻まれていました。

 

 

 

「江戸名所図絵や、広重の錦絵に画かれて著名なこの地は、 将軍御成道として

繁華な本街道であり 、木綿問屋が軒を連ねて殷賑(いんしん)を極めた」

 

 

この「旧日光街道」をそのまま直進すると、「大伝馬本通り」となり、

地下鉄・馬喰横山駅を右手に見ながら信号を渡ります。 

 

 

 

信号を渡れば、この通り沿いに「耕書堂」があるハズなのですが・・・

 

 

あった!やった!

 

 

「旧日光街道本通り」の標柱から暫く歩くと、アパホテル小伝馬町駅前の

道路向かいに「耕書堂」の説明板がありました!

 

   

 

最近は「べらぼう」が大変なブームになっているということで、「じゅん散歩」でも、

今週、この「耕書堂跡の説明版」を訪ねていました。

 

下の絵は「日本橋の耕書堂」の店頭の様子です。

 

 

店自体はそれほど広くはありません。

 

行灯の右上、店の壁面には、「東都名所一覧 狂歌入彩色摺」、「狂歌千歳集 

高点の歌を集」の書名を記した広告看板が架かっています。

 

右下には、店の前に置かれた行灯(あんどん)型の箱看板が描かれ、

版元・蔦重の家標(いえじるし)の「富士山型に蔦の葉」が描かれています。

 

家標の下、右の面には「通油町 紅絵(べにえ)問屋 蔦屋重三郎」、

左の面には「あぶら町 紅絵問屋 つたや重三郎」とあります。

 

 

絵の左端には熱心に浮世絵を物色する武士の客が描かれ、その武士を見ている

禿頭の人物が店の番頭でしょう。

 

店内の中央の棚には、浮世絵と書籍が平積みにされています。

 

棚の右側では、3人の男たちが、紙をページ順に揃え、その紙を断裁し、

そして綴る、という一連の流れ作業をしています。

 

蔦重は、ここで「洒落本」や「浮世絵」などを扱う”地本問屋”を開きました。

 

”地本”とは、京都などの他の土地でつくられたのではない、江戸の地元で

企画出版された本です。

 

江戸時代には、この辺りには木綿問屋が軒を連ねていました。 

 

 

今はこの付近はオフィス街で、説明板の建つこの辺りは、何となく裏通り感が

漂いますが、かっては、江戸で最も賑やかなメインストリートだったのです。

 

 

この説明版の通りの並びに写真の「通油町(とおりあぶらちょう)ギャラリー」

があり、蔦屋重三郎の関連グッズを売っていました。

 

 

 

私は写真の「蔦重 居酒屋」を買いました。

 

このギャラリーの親切なお姉さんが、近くに耕書堂を再現展示している店が

あるので、行ってみては如何ですか、とその店までの地図をくれました。

 

 

この地図を見ながら、耕書堂を再現展示している写真の「イチマス田源」へ

行ってみました。

 

 

 

「じゅん散歩」でも、この「イチマス田源」を訪ねている写真がありましたが、

その日付を見ると、何と24日です!

 

一昨日に来たの?、ほとんどニアミスです!

驚き!

 

記帳台を覗いてみたら、結構、各地からここに来ていて、「来店理由」の蘭には、

ほとんどの人が「じゅん散歩を見たから」と書いていました!

「じゅん散歩」の影響力、恐るべし!

 

    

 

 

 

「耕書堂」がある「通油町」の東の「横山町」から「馬喰町」にかけては、

現在も江戸時代から続く「都内有数の問屋街」です。

 

江戸の人々は、ここ耕書堂で「多川歌麿の美人画」を観て、耕書堂の並びの

上の写真の様な呉服屋で、美人画と同じ着物を買ったのでしょうね。

 

  

  

通りの入口には、「横山町問屋街」の大きな看板が立っています。

 

 

軒を並べる衣服の問屋は、どの店も豊富な品揃えで買い物には楽しそうです。

 

しかし、我々一般人は、この問屋街で買い物をすることは許されません?

 

買物はおろか、店の中に入ることすら許されないのです?

 

 

ほとんどの店には写真の様に、「一般消費者の方の入店はお断りします」の様な

張り紙がしてあります。

 

 

今、「じゅん散歩」の番組を横目で見ながら、”昨日”歩いたこの「日本橋耕書堂」や「横山問屋街」散策の原稿を書いています。

 

 

何と!、今書いているブログ原稿と同じ場所を、”今朝”の「じゅん散歩」が

歩いています!

 

 

今週は、完全に「じゅん散歩」と毎日ニアミスです!!

 

 

お昼過ぎになってお腹が空いたので、「備長炭焼鳥 鳥元」でランチします。  

 

    

 

(うなぎ焼き鳥重:1.800円)

 

やはり、鳥元の焼き鳥は美味い!  

 

 

(通油町ギャラリーの親切なお姉さんから貰った地図)

 

 

 

(元浅草の誓教寺境内にある「葛飾北斎」の墓)


2月18日に「大河ドラマ館」と「耕書堂」を見学しました。

 

 

 

今日は、未だ見学していない残りの蔦重ゆかりの地を無料循環バスで巡ります。

 

(一度大河ドラマ館に来館した人は、その時の入館券を提示することで、

 何日後でも、何回でも、この循環バスに無料で乗車出来ます。)

 

 

先ず、「蔦屋重三郎(蔦重)の墓」がある「正法寺」で下車します。

 

 

 

平成6年に再建されたということですが、現在は、上の写真の様に、寺と言うよりも

近代的なビルといった感じで、史跡感は全くありません。

 

 

蔦屋重三郎は、1797年、47歳で病没し、ここ正法寺に埋葬されました。

 

しかし、蔦重の墓は戦災で失われたので、平成6に「蔦重の記念碑」として

写真の墓碑が建てられました。

 

寺が被災した際には、住職は多くの遺骨をかき集めたそうですが・・・

 

  

 

蔦重の碑は、本名の「喜多川柯理(きたがわ からまる)」が刻まれ、戒名は

写真の様に「幽玄院義山日盛信士」です。

 

 

 ドラマでは、蔦重の相棒の少年「唐丸(からまる)」が出てきますが、あえて

蔦重の本名の「柯理(からまる)」を、記憶喪失になった少年につけたものと

思われます。

 

碑文は、蔦重と親交のあった石川雅望、 大田南畝によるものです。


正法寺の見学はすぐに終わりましたが、無料循環バスは20分毎です。

 

正法寺の道路斜め向かいが「山谷堀(さんやぼり)」なので、20分で見物して

戻って来ることにしました。

 

 

(吉野橋)

 

 

江戸時代、吉原へ遊びに行く客は、「猪牙舟(ちょきぶね)」に乗って

大川(隅田川)を進みました。

 

そして「山谷堀」に入ると程なく舟を降りて、駕籠(かご)に乗り換え、日本堤の

土手を吉原に向かいました。

 

 

その「山谷堀」は、現在は埋め立てられて「山谷堀公園」になっています。

 

 

 

(猪牙舟の説明版:猪の牙の様に、舳先の尖った細長い小舟)

 

吉原通いは、猪牙舟を雇って、隅田川、山谷堀を遡上するのが、陸路よりも

優雅で粋と言われていました。

 

 

 

吉野橋の橋桁が残る吉野通りの反対側にも、ずっと「山谷堀」が続いています。

 

正法寺に戻り、無料循環バスで「平賀源内墓所」(国指定史跡)へ向かいます。

 

平賀源内墓所の前の狭い路地へは、無料循環バスは入れないので、清川郵便局で

下りて歩きます。

 

 

入口を見たら、閂(かんぬき)が掛かっていて入れません。

 

え~っ、閉鎖中でお墓を見ることは出来ないんだ!

ショック!!

 

 

近づいてみると、上の写真の張り紙があり、「扉の閂をずらしてお入りください。」

とあります。

 

え、えっ、勝手に閂を外してもよいの?

恐る恐る閂を外して中に入ります。

 

 

(史跡 平賀源内先生の墓)

 

エレキテルで有名な源内は、発明家としてだけではなく、本草学者、地質学者、

蘭学者、戯作者などの多彩な才能の持ち主でした。

 

また、蔦重から吉原細見の序文の執筆を依頼されました。

 

 

源内は、1779年、大工の棟梁を殺害する殺傷事件を起こして、伝馬町牢獄に

投獄されました。

 

投獄から1か月後に破傷風にかかり獄死し、遺体はこの地にあった総泉寺に

葬られました。

 

 

この総泉寺は、昭和3年に板橋区へ移転しましたが、源内の墓だけは移転されずに、

この地に保存されました。

 

 

この源内の墓は、蘭学医の杉田玄白が建てました。

 

 

笠付の角塔状の墓は、上段の角石に「平賀源内墓」、

下段の角石に「安永八己亥  智見霊雄居士  十二月十八日 」と刻まれています。

 

 

上の写真の様に、後方に従僕の福助の墓があります。

 

ドラマでは、源内と共同生活をする「小田新之助」なる人物がいますが、

こちらは架空の人物で福助とは違います。

 

 

上の写真は、昭和六年、松平頼壽(旧高松藩当主)が建てた平賀源内の顕彰碑で、

電気の発明などの功績を称えています。

 

なお、この墓地の築地塀は、この松平頼壽が整備したそうです。

 

清川郵便局へ戻り、「耕書堂」へ向かいますが、耕書堂や吉原神社は前回見物した

ので、この辺りの風景は、無料循環バスの車窓からです。

 


(吉原大門跡:吉原の警備は厳重で、遊女の逃亡を防ぐためにあえて出入口を

この1ヵ所にしました。今は街灯が立っています)

 

 この大門の前に、引手茶屋「蔦屋」と蔦重の「耕書堂」がありました。

 


(五十間道:見返り柳から吉原大門までにわざとS字カーブを作り、

吉原の様子が見えないように工夫されていました。)

 


(見返り柳:遊郭帰りの客が名残を惜しんでこの辺りで振り返ったことから

 この名前が付きました。)

 

 

(吉原神社)

 

 

     

 

最後の停留所の「吉原見番所」で下車します。

 

江戸時代、吉原遊郭は、日本の娯楽と文化の中心地として栄えました。

 

吉原は、単なる遊興の場を超え、歌舞音曲や芸事が花開いた場所でもありました。

 

その中で重要な役割を果たしたのがこの見番所の「大黒屋」です。

 

大黒屋は、芸者を管理するだけではなく、客から料金を徴収して、芸者や

遊郭経営者に分配していました。

 

また、吉原の芸事や祭りにも関与し、遊郭文化の発展に寄与しました。

 

 

ドラマでは、「女将りつ」は、吉原遊郭の女郎屋・大黒屋を取り仕切る女将として

描かれています。

 

女将りつは、実在の人物ではありませんが、彼女を通じて、当時の吉原文化や

遊郭運営の実態が細かく描かれています。

 

   

 

残念ながら、関係者以外は建物の中に入れません・・・

 

踊りの練習などを見学できる様にすれば、吉原に観光客を呼べる様になると

思うのですが。

 

 

建物の前の2台の人力車も、建物の前で記念撮影するしかなく、車夫もお客も

暇を持て余している感じでした・・・

 

吉原見番所から、ブラブラと「浅草寺」へ向かって歩いて行きます。

 

 

「浅草寺」の本堂の裏手に、「山東京伝」の机塚の碑があります。

 

山東京伝は、蔦重と共に、「江戸生艶色蒲焼」などの黄表紙、洒落本を著した

江戸時代の代表的な戯作者です。

 

また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。

 

晩年は、故事古物の考証にも精力をかたむけ、1816年、56才で没しました。

 

 

写真の「山東京伝の机塚の碑」は、京伝の没後、弟の京山が造立したものです。

 

表面には京伝が生前に著した愛用の机についての小文を刻まれています。

 

また、裏面には京伝の友人であり、当時を代表する文化人でもあった

「大田南畝(なんぽ)」の撰による京伝の略歴を銘記しています。

 

 

無料循環バスの循環先にはありませんが、もう一か所だけ寄り道して、

私の尊敬する江戸時代の絵師のお墓にお参りしてから帰宅します。

 

 

地下鉄銀座線の浅草から2駅の「稲荷町」で下りて、浅草通り沿いに、

田原町方面へ歩いて行きます。

 

 

松が谷1丁目の交差点から右手の路地に入ると、目指す「誓教寺」がありました。

 

 

 

「誓教寺」の墓地の中に写真の「葛飾北斎の墓」がありました。

 

 

(注)「富嶽三十六景」や「北斎漫画」で有名な「葛飾北斎」は、若い頃は、

蔦重の元で「勝川春朗」を名乗り、浮世絵を刊行していました。

 

 

浅草通りに戻り、田原町方面へ歩いて行きます。

 

   

 

浅草通り沿いに「佐竹商店街」の入口があり、写真の「佐竹家上屋敷跡」の

説明版が立っています。

 

 

説明版によると、この辺り一帯は、秋田の大大名だった佐竹藩の上屋敷だった

そうです。

 

 

「朋誠堂喜三二」こと「平沢常富」は、この佐竹藩の江戸留守居役を務める

重臣でした。

 

蔦屋重三郎の依頼で、平沢常富は、「名月余情」の序文を寄稿しました。

 

 

名月余情には、吉原の8月の「俄(にわか)」で、「大文字屋市兵衛」を先頭に、

練り歩く行列が描かれています。

 

「べらぼう」のシーンの通り、平沢常富は吉原に足繁く通っていました。

 

それは、吉原が、佐竹藩と他藩が、幕府に内密で情報交換する場だったから

だそうです!

驚き!

 

 

佐竹商店街の居酒屋で、遅い昼食を食べます。 

 

 

(アジフライ定食:900円)

 

 

佐竹商店街の入口を右折して、新堀通りを南下します。

 

 

新堀通りの左手に、「西福寺」の「勝川春章」のお墓がありました。

 

 

 

       

 

この「勝川春章」は、上の写真の「青楼美人合姿鏡」の中で、本を読んでいる

「瀬川(小芝風花)」を描いた絵師です。

 

先週の大河ドラマでは、「蔦屋重三郎」が見守る中、身請けした「鳥山検校」のもとへ向かう、凛とした「瀬川(小芝風花)」の道中姿に、思わず涙してしまいました。

 

 

西福寺の前の地下鉄浅草線の「蔵前駅」から、京急本線直通に乗って、

乗り換え無しで横浜へ帰宅します。

 

 

 

 

 


       

 

(「青楼美人合姿鏡」に描かれた「本を読んでいる瀬川(小芝風花)」)

 

先週放映された大河ドラマ「青楼美人の見る夢は」で、「蔦屋重三郎」が見守る中、「瀬川(小芝風花)」は、身請けした「鳥山検校」のもとへ向かいます。

 

 

その凛とした「瀬川(小芝風花)」の道中姿に、私は不覚にも涙してしまいました。

 

白無垢姿で登場した「瀬川」は、「吉原大門」で待ち構えていた「蔦重」に

「おさらばえ」とつぶやきます。

 

心を押し殺して作り笑顔の「瀬川」のこの一言、私はもう大泣きです!

 

 

 

(左から、北尾重政(橋本淳)、勝川春章(前野朋哉)、蔦谷重三郎)

 

「勝川春章」は、「北尾重政」との合作で「青楼美人合姿鏡」を出版しましたが、

そこには、本を読んでいる「瀬川(小芝風花)」が描かれています。

 

    

 

この「青楼美人合姿鏡」は、3冊セットの桐箱入りの美しい絵本でした。

 

美しい彩色摺りである上に、雲母の粉末を使った「きら摺り」で、キラキラ光る

質感が表現されています。

 

(この勝川春章の「当たる光の角度によって光る雲母の[きら摺り]」の詳しい手法については、「大河ドラマ館」のビデオコーナーで放映していますよ。)

 

なお、春章と重政とは、日本橋長谷川町の道を挟んだ「お向かいさん」だった

そうです。

 

 

 

「藤澤浮世絵館」の「蔦屋重三郎と絵師たち」の特別展へ行って来ました。

 

この特別展では、蔦屋重三郎と関係の深かった勝川春章、山東京伝、喜多川歌麿、

葛飾北斎などの作品を展示しています。

 

   

 

東海道線の「辻堂駅」で下りて、北口を出て真っ直ぐ北へ歩いて行きます。

 

 

通りの左手は、写真の様なお洒落な「テラスモール湘南」です。

 

 

やがて、通りの左手に上の写真の神台公園が見えて来ますが、お目当てのビルは

その道路向かいです。

 

 

このビルの7階が「藤澤浮世絵館」で、エレベーターで7階に上がると、

そこが「藤澤浮世絵館」でした。

 

 

 

「蔦屋重三郎と絵師たち」(藤沢と江戸の出版事情)展

(入場無料)

(この特別展は、2月24日で終了していますのでご注意ください。)

 

 

(浮世絵の絵解きコーナー)

 

 

浮世絵ぶコーナー)

 

 

(休息室の窓からの富士山)

 

 

藤澤浮世絵館は、展示スペースにえ、浮世絵する図書室、

交流スペース、多目的室などをけています。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

館内には、高齢者のグループが何組か来館していました。

 

 

以下に「蔦屋重三郎と絵師たち」展の作品を見てゆきます。

 

 

(勝川春章・相州江ノ島ノ風景腰越ノ方ヨリ見図)

 

 

(前野朋哉・勝川春章役)

 

勝川春章は、役者の似顔絵をリアルに描くことにより、「勝川派」という一大勢力を

築きました。

 

葛飾北斎も、大勢力を築いた勝川春章に弟子入りしています。

 

北尾重政と競作して、蔦屋から錦絵本を刊行しました。

 

 

 

(喜多川歌麿・風流四季の遊 弥生の江之島詣)

 

 

(喜多川歌麿)

 

 

(染谷将太・喜多川歌麿役)

 

喜多川歌麿の代表作は、「ポッピンを吹く女」などの美人画です。

 

「歌麿」は、「黄表紙」を「蔦屋」から出版して「蔦屋重三郎」のもとに

身を寄せました。

 

この後、歌麿は、姓を「北川」から「喜多川」に改めます。

 

喜多川は、重三郎の養家の姓なので、この改名が、重三郎と歌麿の強い結びつきを

表していると言われています。

 

 

(喜多川歌麿・江の島弁財天開帳)

 

   


(喜多川歌麿・丁子屋唐歌)

 


(喜多川歌麿・見立七福神舟遊び)

 

    

 

(喜多川歌麿・女織蚕手業草 十)

 

 

 

(葛飾北斎・江島華望)

 

上の絵は、狂歌絵本中の1作で、七里ガ浜の景色を淡いトーンでまとめ、

遠方に臨む江の島を描いています。

 

 

(葛飾北斎)

 

「葛飾北斎」は、19歳で「勝川春章」に弟子入りしました。

 

その後、「蔦屋」で、主要出版物である「狂歌絵本」を担当しています。

 

一時期「滝沢馬琴」と同居し、馬琴の「椿説弓張月」を挿絵を描いて

大ヒットします。

 

55歳のときに、北斎の弟子たちが手本として利用した「北斎漫画」を描きます。

 

70歳を超えてから、今回の新紙幣に採用された「富嶽三十六景」を描きました。

 

80歳になると、長野県の「小布施」を訪れ、岩松院の天井に鳳凰図を描きました。

 

 

(葛飾北斎・江戸買物独案内)

 

 

 

(山東京伝著、歌川豊国画・濡燕子宿傘)

 

 

(山東京伝)

 

 

(古川雄大・山東京伝役)

 

山東京伝は、15歳のころ「北尾重政」に浮世絵を学びました。

 

浄瑠璃の脚本「色時雨紅葉玉籬」の表紙に役者絵を描いたのを蔦屋重三郎が

見出して出版しました。

 

後に、黄表紙、洒落本の第一人者となり、蔦重の盟友となります。

 

このため、松平定信の寛政の改革では、蔦重は財産半減、京伝は手鎖50日の

刑を受けました。

 

 

 

(曲亭馬琴著、歌川豊広画・俊寛僧都嶋物語)

 

 

(曲亭馬琴著、葛飾北斎画・皿皿郷談)

 

 

(曲亭馬琴)

 

曲亭(滝沢)馬琴は、元々は、旗本松平家の小姓でしたが、主君のわがままに

耐えかね、14歳で出奔しました。

 

24歳で「山東京伝」に入門し、翌年「黄表紙」を出版します。

 

京伝の代作も手掛ける様になり、「蔦屋重三郎」の手代を務めた時期もありました。

 

後に、失明しながらも、「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」の大ヒット作を

出版します。

 

 

 

(十返舎一九・常夏物語)

 

 

(十返舎一九)

 

「東海道中膝栗毛」の作者の「十返舎一九」は、「蔦屋重三郎」の家に寄宿して、

戯作者として身を立てました。

 

元々は、駿河の同心の子で、武家奉公をしていましたが、奉公を止めて大坂で

浄瑠璃作家になりました。

 

その後、江戸へ出て、山東京伝と知り合いになり、蔦重の家に寄宿して滑稽本の

挿絵を描き始めます。

 

 

 

(北尾重政と勝川春章との合作・青楼美人合姿鏡)

 

 

(北尾重政・市村吉五郎)

 

 

(橋本淳:北尾重政役)

 

北尾重政は、山東京伝の師で、蔦屋重三郎の初めての出版物「一目千本」の挿絵を

担当しました。

 

また、勝川春章との合作で「青楼美人合姿鏡」を出版しましたが、そこには

本を読んでいる「瀬川(小芝風花)」を描きました。

 

 

次回は、無料巡回バスで、終日、蔦屋重三郎ゆかりの人々のお墓を巡ったときの

レポートです。

 

お楽しみに!

 

ps. 雑誌「歴史人」

 

 

上の雑誌は、「江戸新吉原耕書堂」で買いました。

 

なぜ 新吉原耕書堂で買ったかというと、「この雑誌は絶版になっており、この雑誌を

購入出来るのは、全国でここ新吉原耕書堂だけです。」とあったからです。

 

今回の蔦屋重三郎と関係した絵師たちのエピソードは、この雑誌から

転記したものです、悪しからず・・・

 

 

 

(吉原大門の前の書店「耕書堂跡」に再現された「江戸 新吉原 耕書堂」)


大河ドラマ館来館を出て、蔦屋重三郎(蔦重)が、吉原大門の前に開いた書店「耕書堂」の跡へ向かいます。

 

 

耕書堂へは、ドラマ館の前から、蔦重ゆかりの地をめぐる「循環バス」が

20分毎に出ています。

 

この循環バスは、大河ドラマ館の入場券を見せると無料で乗れます。

 

 

半分くらいの乗客は、蔦重の菩提寺である写真の「正法寺」で下りました。

 

現在は、境内に蔦重の墓碑が建てられています。

 

 

私は、「耕書堂」で下ります。

 

「蔦屋重三郎」は、1750年、江戸の「新吉原」(現在の台東区千束)で生まれました。

 

そして、20代で、「吉原大門」の前に書店「耕書堂」を開業しました。

 

”浅草エリア”の「大河ドラマ館」に対し、”吉原エリア”には、蔦重が開業した

「耕書堂」を模した「江戸 新吉原 耕書堂」が、今年1月にオープンしました。

 

 

この建物は町会事務所ですが、来年1月迄の期間限定で、蔦重関連の観光案内や

土産品の販売を行っています。

(10 時~17 時、休館:毎月第2月曜)

 

 

(蔦屋重三郎が吉原から日本橋へ移転した当時の日本橋の耕書堂の様子。)

 

建物の中は、大勢の観光客でに賑わっています。

 

 

上の写真は、吉原の花魁(おいらん)の高下駄です。

 

 

上の写真は、蔦重が作成した「吉原細見」に描かれた大門の前の略図です。

 

下段の右側(赤枠)に「細見版元 本屋 つたや重三郎」の名前が見えます。

 

 

上の写真は、「吉原細見」に描かれた[松葉屋」の頁で、「瀬川」(赤枠)の名前が

見えます。

 

「小芝風花」が演じる「松葉屋」の「花の井」が「五代目「瀬川」を踏襲しました。

 

 

吉原についての説明の写真やパネルも以下の様に展示されています。

 

 

 

(「新吉原 仲之町 春之景:歌川広重)

 

 

 

(九郎助稲荷に参拝する遊女)

 

 

(九郎助稲荷の祭礼・にわか)

 

上の絵は、8月の1か月間行われた「俄(にわか)」で、仲の町を練り歩く芝居や

芸の行列を遊女と客が見物しました。

 

   

 

上の写真の様に、花魁(おいらん)の浮世絵が貼られた地元の甘酒、日本酒などが

売られています。

 

他にも、「べらぼう」関連の書籍、浮世絵役者のイラスト入りのトレーナー、

アクセサリー、お菓子などの土産品が並べられています。

 

 

「江戸新吉原耕書堂」から、更に「吉原」(注)の奥の「吉原神社」を目指して

歩いて行きます。

(注)「吉原」

江戸市中に散在していた遊女屋を、現在の日本橋人形町周辺に集めたのが

「吉原」のはじまり。

しかし、次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、1667年、幕府は

現在地への移転を命じました。

以降、日本橋人形町周辺の吉原を「元吉原」、移転先のこの辺りの吉原を「新吉原」

と呼んでいます。

 

 

 

 

左端の2つ目の提灯から、合祀された「明石稲荷」、「榎本稲荷」、「開運稲荷」、

「九郎助稲荷」、「玄徳(吉徳)稲荷」の名前が見えます。

 

 

「九郎助稲荷役(声の出演)」は、上の写真の「綾瀬はるか」です。

 

蔦重の時代、吉原遊郭には、その四隅と吉原大門の手前、合わせて5か所に

神社がありました。

 

「べらぼう」の初回では、「綾瀬はるか」の声で、吉原を見守る「九郎助稲荷」

として登場しました。

 

現在は、その場所に「九郎助稲荷」は無く、明治14年、九郎助稲荷をはじめとする

5つの神社が合祀されて現在の吉原神社になりました。

 

ドラマの影響で、参拝者も多くなったらしいです。

 

上の写真は、吉原神社の御神木の「逢初桜(あいぞめざくら)」で、恋焦がれている人に初めて会う、という意味だそうです。

 

 

「浅草名所七福神」の一つが、上の写真の「吉原神社の弁財天」です。

 

 

ps.

NHK「未来映像ラボ」(放送100年・超体験)から

 

大河ドラマ「べらぼう」の吉原の町並みは、当時の資料や文献をもとに極めて

忠実に再現されています。

 

そして、何と!!、上の写真の赤の横線から後方は、LEDディスプレイが

映し出すCGの背景です!!

 

ウソだ!、境目が全く分からない!、驚き!!

 

 

手前の道の両脇の建物は、実寸大のセットですが、奥は黒い壁です?

 

 

奥の黒い壁に、LEDディスプレイで、背景を映し出すことにより、

全長250メートルもの奥行きを再現しています!!

 

 

 

そして通りを歩く人々も、CGで一人ひとり作成し、それぞれの動きまで細かく

設定しています!

 

驚き!

 

(大河ドラマ「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎役の「横浜流星」)


今年の大河ドラマ「べらぼう」は、下の写真の当時の出版業界の逸話が面白いので、毎回欠かさず見ています。

 

 

(片岡愛之助:鱗形屋孫兵衛役、西村まさ彦:西村屋与八役、

   風間俊介:鶴屋喜右衛門役)

 

 

 共演の「小芝風花」は、初舞台の頃から応援しているのでよく知っていました。

 

 

(「オランドー」の多部未華子と小芝風花の舞台稽古風景)

 

 

 

しかし、主演の「横浜流星」をはじめ、長谷川平蔵役の「中村隼人」など、

ほとんどの若手俳優陣を知らないことに気付きました。

 

オジサンは昭和世代で、最近の流れに取り残されてしまったみたいです・・・

 

今作の「べらぼう」に興味があるので、先月オープンした「べらぼう  江戸たいとう  大河ドラマ館」へ行って来ました。

 

この「大河ドラマ館」は、毎年、大河ドラマゆかりの地に開設されて、ドラマの

時代背景、登場人物、衣装や小道具、撮影の裏側などを展示しています。

 

今年の場所は、「台東区民会館」の9階です。

 

 

浅草駅から徒歩300メートル、5分くらいです。

 

   

 

ビルに入ると、浮世絵の壁絵と、台東区の美術品や小物の陳列台があります。

 

 

    

1階のエントランスホールの6台のエレベーターのうち、奥の2台が9階会場への

直行エレベーターです。

 

(開館:2025年2月1日~2026年1月12日、休館:毎月 第2月曜日)

(入館料:800円)

 

大河ドラマ館では、ドラマの概要紹介、登場人物の衣装、インタビュー動画、

小道具の展示等が行われています。

 

 

(つたやの玄関)

 

 

(横浜流星:蔦屋重三郎役)

 

 

上の写真は、「蔦屋重三郎」(以下「蔦重」)の衣装と初めて手掛けた「吉原細見

 鳴呼 御江戸」です。

 

吉原の各女郎屋の情報を綿密に改訂し、 新たな吉原細見に仕上げました。

 

そして、当時の超売れっ子だった「平賀源内」から、この本の序文を獲得したので

評判を呼びました。

 

 

上の写真は、蔦重が初めて手掛けた錦絵 の「雛形若菜初模様」(見本摺り)です。

 

絵と色彩の鮮やかさに、ドラマでは驚嘆の声があがりました。

 

 

(小芝風花:「花の井」の「五代目瀬川」役 )

 

  吉原の老舗 の松葉屋の「花の井」が、五代目「瀬川」を踏襲しました。

 

花の井は、蔦重と共に吉原で育った幼なじみで、何でも話せる相談相手です。

 

蔦重を助けて吉原の再興に尽力します。

 

 

 

(「松葉屋」の「花の井」の「花魁道中」の装い)

 

 

(安達祐実:女郎屋・大黒屋の女将りつ役)

 

 遊郭全体の秩序を保つために奮闘し、後に芸者の「見番所」の運営に深く

    関わります。

 

(小野花梨:うつせみ役)

 

 

(かたせ梨乃:きく役)

 

 

(水野美紀:いね役)

 

 

(渡辺謙:田沼意次役)

 

田沼意次は、身分の低い紀州藩の足軽でしたが、自らの才能と実行力で大名にまで

昇りつめました。

 

 

(片岡愛之助:鱗形屋孫兵衛役)

 

黄表紙(大人向けの絵本)のパイオニアとなった江戸を代表する地本問屋。

蔦重に本づくりの仕事を任せるなど商売を指南するが、蔦重が本格的に本屋業に

乗り出すと、ライバル関係となり激しい争いを繰り広げていきます。

 

 

(安田顕:平賀源内役)

 

先進的なアイデアを次々に打ち出し、本草家、 戯作者、 発明家などとして日本各地を巡ります。

 

その豊かな発想力に、田沼意次が惚れ込みます。

 

蔦重に頼まれて、「吉原細見 鳴呼 御江戸」の序文を書いてやりました。

 

 

(中村隼人:長谷川平蔵役)

 

老中の松平定信に登用され 「火付盗賊改」 を務めました。

 

凶悪な盗賊団の取締りに尽力しますが、その人柄も相まって庶民から絶大な人気を

得ました。

 

 

(高橋克実:駿河屋役)

 

両親に捨てられた幼い蔦重を引き取って、実子である次郎兵衛と兄弟同然に

育てあげました。

 

吉原を代表する引手茶屋 「駿河屋」の主で、蔦重には厳しく接するが、彼の才覚

には一目置いています。

 

 

(市原隼人:鳥山検校役)

 

鳥山検校は、「瀬川(小芝風花)」を、1,.400両で身請けする盲目の大富豪です。

 

 

(寺田心:田安賢丸役、石坂浩二:松平武元役)

 

 

(染谷将太:喜多川歌麿役、尾美としのり:朋誠堂喜三二役、古川雄大:山東京伝役)

 

「大河ドラマ館」には、以下の写真の「たいとう 江戸もの市(土産館)」を

 併設していました。

 

 

お昼時になったので、このビルの8階の「上野精養軒」で、写真の「つた重」

(2,810円)を食べました。

 

 

ps.

以下の写真は、大河ドラマ館の入口の前に作られた吉原の遊郭のジオラマ模型です。

 

   

   

 

大河ドラマ館

 

 

ps.
余談ですが、前回の大河ドラマ「どうする家康」も、出だしは面白くて熱心に見て

いました。

しかし、途中からあまりにも歴史と違う部分が出て来て、唖然。

報道では、主役の「松潤」からのストーリー改ざん要求に応じた為との事。

松潤が相手役の有村架純に好意を持たれようと、歴史をむちゃくちゃに変え、

ポエムとの批判もありました。

私も馬鹿らしくなってきて、見るのを止めました。

私の歴史好きの友人も、松潤による歴史の書き換えに本気で怒っていました。

「週刊文春」は、松潤の言いなりに改ざんを続ける脚本家にも非難の矛先を

向けていました。

 

(武蔵野市役所の入口)

JR中央線の三鷹駅で下車し、路線バスに乗ります。

三鷹駅北口1番から、北裏、武蔵関駅、田無橋場行きのいずれ

かに乗り、約10分、「武蔵野市役所前」で下車します。

   

(武蔵野市役所の入口の側)

 

南館の最上階8階にある「市民食堂・さくらごはん」へ

エレベーターで直行します。

 

 

(右が「さくらごはん」で、左が「喫茶室」)

 

(営業:平日・11:00~14:00、土日祝は定休)

 

上の写真のランチの看板を見てから食券を買います。

 

私は、「武蔵野鴨汁うどん」(850円)と、「庄内豚

生姜焼き」(900円)を注文しました。

武蔵野うどんは、ここ武蔵野台地が開発された江戸時代から、

祝い事の際には必ず振舞われているそうです。

武蔵野台地は、水利の関係で水田には向かないため、小麦の

栽培が盛んでした。

武蔵野うどんは、一般的なうどんとは異なり、麺の表面が

ざらざらしているので、つゆが絡みやすいのだそうです。

庄内豚生姜焼きは、武蔵野市の友好都市である山形県酒田市の

庄内豚の肩ロースを使用しているそうです。

利用者は、ご近所らしきお年寄り、お母さん、市役所に手続に

来たサラリーマンといった感じで、ここの職員らしき人は

ほとんどいません。

   

カウンター席は、ガラス張りで明るく見晴らしは良いのです

が、マンションや住宅ばかりで、これといった観光スポット

は見当たりません・・・

隣のビルは、上の写真の「武蔵野クリーンセンター」ですが、

脇には巨大な煙突がそびえています。

内部の見学が出来るらしいので、この後で行ってみようと

思います。

市役所を出ると、道路向かいは「武蔵野市総合体育館」です。

 

市役所の隣の「ゴミ処理場(武蔵野クリーンセンター)」の

見学へ行きます。

建物の外観は、壁面にツタが絡まるオシャレな外壁で、

ゴミ処理場というよりも美術館といった感じです。

階段を上って、2階の受付へ向かいます。

受付のお姉さんが、とても親切に施設の内容について

説明してくれました。

(入館無料)

 

いきなりガラス越しに、1トンものゴミを掴んで、左右に

動き回る巨大なクレーンの姿が!

つい、ゲームセンターのクレーンゲーム(UFO

キャッチャー)を連想してしまいましたが、桁違いの

大きさです!

驚くほど深いゴミ処理場です!

6日分のゴミを貯められるという、この「可燃ごみピット」

は、底部まで、何と!、23メートル(8階建てのビルくらい

の高さ)もあるそうです!

清掃車が運んできたごみを、この巨大ゴミ箱にドンドン投入

していきます。

スタートから驚きの連続です!

見学通路は、処理場をぐるりと囲むように造られています。

ぐるりと見学コースを歩くと、ゴミ処理の流れが理解できる

ように上手く出来ています。

 

細長い通路の両側はガラス張りで、随所でガラス越しに施設が

見え、通路のモニターで設備の説明を視聴できます。

全国トップレベルの排ガス自主規制値をクリアしているそうです。

(ボイラー室)

(タービン発電機)

焼却炉室:ゴミを燃やした蒸気を発電や温水プールなどに使っています。

 

上の写真は、「中央制御室」で、全ての装置の操作・監視を行う施設の中枢です。

中央制御室前のガラスをタッチすると、現在のゴミ焼却量などがガラスに表示されます。

   

 

武蔵野クリーンセンターは、臭いが外に漏れないように設計され、

ゴミの臭いは全くしませんでした。

 

 (クリーンセンターの2階から見た武蔵野市役所)

 

 

 

武蔵野市役所

 

㎰.

これまでの「ビル展望台」については、以下のビルをクリックしてください。

「あべのハルカス」「ミッドタウン八重洲」「歌舞伎町タワー」

「渋谷スクランブルスクエア」「横浜ランドマークタワー」

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