恋愛感情の高揚感!

モーツァルトの「コシ ファン トゥッテ」でも歌われる恋愛の陶酔が面白かった。

「やったーーーーー!」という翌朝、町中が踊りだす感じ。俺にも経験がある。ああだよな。あの場面良かった。

長澤まさみ演じるみゆきの、あまりに魅力的で挑発的で何を考えているのかわからない感じに、俺は主人公同様イライラさせられる。見ている方俺もグラグラになってしまうほどみゆきは可愛い。だが、なぜあのような態度なのか。だんだん怒りも湧いてくる。

麻生久美子演じるるみ子もリアリティがある。あの種の「馬鹿女」が迫ってくる感じは恐ろしい。恐ろしいが大爆笑だ。なりゆきでああなってしまって、さらにダメダメになっていく。

結局、リリーフランキー演じる糞ジジイに弄ばれ、初めて自分が「自分探し馬鹿女」だとわかるところがよかった。牛丼を貪り食うシーンにるみ子の成長が伺えて俺は「よし!」と思った。

みゆきが抱えている闇が明らかになり、俺はみゆきが理解できた。ああいう女はいる。不幸な馬鹿女だ。

主人公が愛情を告白した時の断り文句がみゆきのジレンマをよく表している。みゆきも「本当の自分探し馬鹿女」に類型化される。何かの向上を目指していて、自分の向上や成長のためには、こんな惨めな境遇も喜んで受け入れる、という馬鹿さ加減。

だからだめなんだよ。んだすげまいね。

あれこれあって、主人公が不条理に突き進むのが恋愛の陶酔なのだ。走れぇ!なのだ。仕方ない。

俺の大好きな仲里依紗が、ほんの少しだけ実にチャーミングに登場してくる。馬鹿女にはちがいないのだが、可愛げがある。

モテるとはなにか。

好きな女に好かれること。これが一番大事だ。

嫌いな女に迫られても怖いだけ。可愛いと思っても、子連れのキャバ嬢と付き合うかどうかは考えてしまう。この主人公は、結局なかなかモテないのだ。

男はこんな感じだけど、女の人は、好きでもない男から何人にも言い寄られれて困ることがあるだろう。それはモテているようだが、全くそうではない。ひどい場合はストーカーされる心配もある。

モテてモテて困る。それは冗談ではなく、よくある事だと思う。

俺は、リリーフランキー演じる墨さんのような糞ジジイになりたい。るみ子さんが心底呆れるほどの馬鹿が墨さんだが、そのことでるみ子さんが成長できたんだから。自分が馬鹿だと自覚できたんだから。

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
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映画の冒頭、ヘブル文字とアラビア文字が併記されるタイトルにまず感激。わくわくする。

現代軍事侵略国家のイスラエルとエジプトはかつて何度も戦火を交えた敵国同志。古くは、かのモーセがエジプトから奴隷にされていたユダヤ民族を連れ出すという、出エジプトの物語にも遡る。チャールトン・ヘストン主演のハリウッド映画「十戒」でおなじみ。

エジプトに売られたヨセフの物語もある。ヨセフがその後、エジプトのパロ(ファラオ)になって、自分を売った兄弟たちと再開する場面など、涙なくしては語れない。さまざまな物語に満ちているエジプトとイスラエル。

緊張に満ち、愛憎半ばする両国関係だが、この映画の主人公、アレキサンドリアの警察音楽隊、総勢6人は至って牧歌的なイスラエルの田舎町にぽつんと取り残される。アラブ文化センタの招きでコンサートに来たのだが、手違いで誰も迎えに来ていない。

さてどうしよう。

生真面目で厳格な警察音楽隊長が率いる、アラブの古典音楽オーケストラのメンバーと、ごく普通のユダヤ人たちのぎくしゃくした交流の様子がほのぼのと描かれる。

迷子の警察音楽隊

¥3,591

たった一晩の交流の様子なのだが、登場人物それぞれの味わい深いエピソードが語られる。

以下に思いつくまま順序も適当に書いてみる。

厳格で頑固な隊長とその下で二十年も副指揮者として仕えるクラリネット奏者、シモン。シモンはまわりによくあんな隊長と付き合っていられるな、などと言われている。万年副指揮者。クラリネット協奏曲も作ってみたが、完成させることが出来ない。泊めてもらったユダヤ人家族の家で、途中まで出来た曲の演奏をする。ユダヤ人の青年が、曲の最後の部分について語る。「トランペットやヴァイオリンでにぎやかにするのではなく、静かに終わるのはどうだろう。例えば・・・この小さな部屋のように・・一人でいて・・・」青年の子供が、小さなベッドで寝ている。枕元に赤ん坊をあやすオルゴールがある。ひもを引くと、なんとも哀愁をおびた響きが・・・。重なってくる弦楽器とクラリネットの音楽・・。いい場面だなあ!!

食堂の女主人の家に泊めてもらった隊長。女主人と親しくなっていく。食事のあと、自らの家族の話をする。切ない物語だ。厳格で生真面目な隊長だが、音楽隊の秩序を乱す若者の失敗を寛容に許す。

90分の短い映画で、事件と言えるようなことは何も起こらない映画だが、心に残る作品だ。

一晩の交流で、それぞれがほんの少し何かを得て去って行く。その感じがとてもいい。

最後の隊長の歌が素晴らしい。アラブの文化の花を感じることが出来た。
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1954年に作られたイタリア映画「道」。

とにかく、ジェルソミーナが可愛くて切なくて。いま考えてみると、ジェルソミーナは「知的に遅れのある」女だ。横暴なアンソニー・クイン演じる旅芸人のザンパノにこき使われる。ザンパノに依存するしかない、無力な人格として描かれている。

ジェルソミーナのしでかす失敗は、旅芸人の親方としては苛々の種だ。しかし、その悪意のなさに思わず笑ってしまう。天然のピエロだ。一生懸命やればやるほど、おかしくて切なくて。

今思い出すだけでも胸が熱くなってくる。ジェルソミーナに深い愛情を感じてしまう。ザンパノも自覚していなかったが、心の底でそのようなことを感じ取っていたのだろう。映画の最後の慟哭はそのためだ。もうすべてが遅いのに。そこがいっそう切なさをかき立てる。

現代の人権感覚から言えば、大変な虐待、人権侵害だ。こんな映画をいま作ろうと思っても絶対に作れない。あらゆる人権擁護団体から抗議が殺到するだろう。これがイタリア映画の古典的名作で、行政主導の「鑑賞会」などで好んで取り上げられるのが面白い。

有閑マダムさんが記事にされているので触発されて。

道 [DVD]

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NHKの教育テレビで初めて見たのかどうか。子供の頃見たと思う。一番最近見たのは、地元の市民会館で「鑑賞会」のような催しがあって「自転車泥棒」「鉄道員」などと一緒に大きなスクリーンで見た。もう、7年ぐらい前になるかな?

ザンパノの仕打ちは本当に酷い。なのに、この映画が好まれ、繰り返し見られるのはなぜだろう。

俺の考えでは、やはり、ジェルソミーナの愛らしさなのだと思う。演技とは思えない、ジェルソミーナの、のろまぶりが心に残る。イタリア版「山下清・裸の大将」だ。

山下清氏も、知的障碍をもった人だ。日常生活では周りの助けがないと過ごせなかったようだが、貼り絵や、絵画、日記などで多くの人に愛された。思わず笑ってしまう言動も多くの人に愛された所以だ。テレビドラマにもなり、芦屋雁之助、ドランクドラゴンの塚地が演じて、高視聴率をとっている。

身の回りにたくさんいる知的障碍者たちの愛らしさ!!電車の車掌の真似をしている自閉症のいい歳をしたおじさん!まん丸の顔でにこにこ歩いてくるダウンの子供!見えない天使と話しているのではないか、と思うほど、虚空を見つめぶつぶつつぶやいている真っ白な頬の美少女!

なんて愛すべき人々なのだろう。知的障碍者のことを知れば知るほどそう思う。知らないと言うこと=無知が偏見を育て、偏見が差別を生む。

彼ら彼女たちは不完全に生まれてきた人たちではない。生まれてきたありのままで、尊いのだ。石井筆子も「人は人であることで神聖である」と言っている。俺は全くその通りだと確信している。

この映画になんらかの感興を覚える人は、実は心の底でそのことを認識しているのではないか、と密かに思っている。愚かな人から感じられる聖性を心の底で感じ取っているに違いない。

この映画をまた見たくなった。
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アニー・ホール の拡大版といった趣の作品だ。アニー・ホール同様、俺は深く共感した。内容はウディ・アレンが愛してやまないニュー・ヨークを舞台に、男女がくっついては離れ、離れてはくっつく話。

この作品の感想を書いたいろんなブログを見ても、冒頭のマンハッタンの風景とガーシュウィンの音楽が素晴らしい!そのあとはなくてもいい、というような凡庸な感想しか書かれていない。誰の受け売りなんだ?

がっかりだよ。(もはや、「エンタの神様」でしかうけない桜塚やっくんの台詞より)

大人のほろ苦い恋愛が詰まっているんだよ。それもすぐ疲れちゃう日本の「しょぼくれサラリーマン」の目から見たら理解不能な恋愛感情がリアルに描かれている。タフな人間はどこにでもいるんだよ。俺はどちらかというと、この映画の主人公のような人間だ。ウディ・アレンのなんでもぶっちゃけにしていく人生観に共感する。しゃべってしゃべってしゃべりたおす。全編に満ちている会話こそこの映画のキモだ。

ウディ・アレン演じる主人公は、二回離婚して、子供の養育費を払い、時々自分の子供に会っては遊んでやる。いまは17歳の恋人(マニエル・ヘミングウェイ)がいる。友人(マイケル・マーフィー)の不倫関係に巻き込まれ、その友人の不倫相手(ダイアン・キートン)と恋に落ちてしまう。率直で意外にも筋を通そうとする主人公は、友人の不倫相手とつき合うとき、17歳の恋人にそのことを打ち明け、別れ話を持ちかける。未練があるのは若い恋人のほう。だが、友人の不倫相手はやはり友人が忘れられず結局は去っていく。離婚した元の妻(メリル・ストリープ)は同性愛のパートナーと暮らしていて、そこそこ有名人である主人公との結婚生活と離婚の一切合切を暴露本に書く。失意の中で思い起こすのは17歳の恋人。

大人だって恋愛するし、恋人だっているもんだぜ、はな垂れ小僧ども!おまえらガキにはわからないだろうがな。映像が美しい、ニューヨークとガーシュウィンの音楽が主人公、とか、ほのぼのした感想文でも書いてな。

この映画の痛くて苦い後味が好き。アニー・ホールもまた見たくなった。
俺は怒っている。最後の場面で後ろのギター・マンが海に落ちたことを!!なんで狙いが外れたんだよ!やっちまうべきだったのに。あのラストは問題だ。あんな奴とメリーが一緒になるなんて!!!!奴が俺のメリーを奪うなんて・・・・・。

だいたいキャメロン・ディアスの顔は変だ。ファニー・フェイス。目はでかいけど垂れていて離れている。口がでかくて妙な具合に三角形だ。皺があって老けて見えるし。だから、おまえらみんな、メリーにはかまわないでくれ。メリーは俺だけのものだ!!!メリーが身につけたものならなんでもいい、俺にくれ。俺はメリーに首ったけ。(最低!)

まいったね。すっかりやきもきさせられて、ベン・スティラーが演じるダサイ男テッドに感情移入するあまり、テッド以上にメリーに首ったけになったぞ!
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明るくて奔放なキャメロン・ディアスはすごく素敵だ。無防備で開けっぴろげで、お茶目。自然で楽しげな笑い方。あの笑い方にぐっと来る。すぐ仲良くなってくれるし、あのメリーに惚れない男はいない。自然に手だって握らせてくれるだろう(妄想)。ハグだって状況によって出来る(さらに妄想)。キスだって・・・・(ため息)。

男は有頂天!!メリーも俺に惚れている。俺こそメリーに選ばれる男だ!!ちょっとぐらいハッタリを言ってもかまわない。メリーならきっと許してくれる。わかってれるさ、メリーなら!(ここでギターを弾いて歌います♪)

そんな男心を切ないまでに笑いのめしてくれるのがこの映画だ。男が惚れた女に費やすアホらしいエネルギーを見てくれ!女子よ!!

男ならではの数々の悩みも徹底して笑いのめす。男の深刻な悩みはことごとくコメディだ。いきなりシリアスな話だが、男は妊娠しないからね。女子は結果を引き受ける立場にある。男は妊娠させても妊娠するのは自分ではない。問題の深刻さは女子に大きい。妊娠の因果関係のうち「因」の方のネタはことごとく馬鹿話になるのだ。この話はここまで。

    diaz3
(キュートでファニーな髪型の恐ろしい秘密を知ってしまった!)

ウォーレンは耳に触られるのが嫌だ。そのネタは「天丼」と言う手法で、何度も繰り返される。これがめちゃくちゃ可笑しい。物語の発端はそのあたりにあり、最後にもういちど出てくる。腹を抱えて笑ってくれ。

ギャグがふんだんに盛り込まれ、全部決まっている。最近見た映画でこれほど笑った映画はない。障碍者をいじるネタがいっぱいある。マット・ディロン演じる最悪調査員ヒーリーのガキっぽい態度が死ぬほど可笑しい。障碍者施設で入所者をからかうのだ。不快と爆笑の境目を笑いに着地させている。

杖をつく脳性麻痺のタッカー。リー・エバンスのフィジカル・ジョークもひどい。鍵を拾うところでメリーがさらに可笑しい。涙を流して笑った。あのキャメロン・ディアスのファニー・フェイスがいいんだ。

この映画を見る男子はみんなメリーに首ったけ!。自分自信の姿がデフォルメされて出てくる。自画像を見ているようだ。

俺の高校時代の初デート。おめかしするなんて考えてもいなくて、適当に履いていった古いジーンズ。洗ってあったけど。内股がすり切れ弱くなっていたので、何かの拍子に「ビリ!!」。大きく破れて後ろからパンツが見えるほど。パンツはきれいなのを履いていたので良かったが。すごく恥ずかしい。その女の子は裁縫道具を持っていて、男子トイレの個室まで来て俺のジーンズを受け取った。

今でこそその「逆境」をいかようにも跳ね返す数々の「手口」を知っている。純情で誇り高い高校一年の春には無理だ。気まずい。死んだ方がましだ。最悪の気分だった。こんなトラウマ(!)を抱えていない男子はいないだろう(断言!)。

男子が見て大喜びする映画だ。男同士でこの映画を肴に盛り上がりたい。奔放で可愛い女の子に振り回された経験のある男子!語り合おうぜ!メリーに首ったけになった男子!語ってくれ!女には決して分からない痛い思い出もあるだろ?語ろうぜ!

この映画、女子は見て面白いですか?パフィとマグダの傑作なギャグがありましたね。物体化したパフィが爆笑でした。でも、どうも男目線で描かれていて、女子はどう思うのか知りたいところです。

面白かった!!!

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1949年に福島県で列車転覆事故があった。 調べてみると、何者かによってレールがはずされ、明らかに脱線転覆を意図した事件だった。

一人の19歳の若者が傷害容疑で逮捕される。大規模な国鉄の人員整理で解雇されたばかりだ。列車転覆事件を自白する。自白に基づき、国鉄労組関係者、同じように大量解雇があった東芝労組関係者が20人、逮捕される。

結果から書くが、全員まったくの冤罪だ。1961年全員無罪、1963年検察の控訴も棄却され無罪確定。歴史に残る国家のでっち上げ冤罪事件だ。

映画「松川事件(1961)」は事件の発端と裁判の経過を淡々と克明に描く。1961年の仙台高裁差し戻し判決が出る前に製作されている。映画の最後で、判決がこれから下される、と結ばれる。映画は無罪を確信している。

この作品自体が、被告20人の冤罪を救うための募金で作られている。当時の金で4,500万円。小さな額ではない。出演者 も、精鋭が揃っている。宇野重吉、宇津井健、千田是也、殿山泰司、西村晃、多々良純、加藤嘉、沢村貞子、北林谷栄など。一審の裁判長役の鶴丸睦彦など、憎々しい顔つきがあまりに真に迫っていて、夢に見るほどだ。加藤嘉の二審の裁判長も同じ。名演と言うべきか。

若者の嘘の自白がすべてを招いたのだ。若者は警察署に拘束されるが、酒を飲まされ、たばこを与えられ、時には刑事と一緒に風呂に入りながら、検察の描いた事件のストーリーげに従い、自白をさせられていく。脅され、嘘の証言を聞かされ、朦朧状態で自白調書に署名させられる。まったく身に覚えのないことを自白させられる恐怖。拘禁状態で追い詰められると人間はそのような心理状態にもなるようだ。

裁判では、自白調書のみが証拠とされ、家族のアリバイ証言もすべて退けられる。労働争議や、共産主義者を悪と決めつけ、見せしめにすることが狙いだったからだ。

第一審で、5人が死刑判決、5人が無期懲役、残りも全員懲役刑。本当に恐ろしい。二審でも3人の無罪者が出たが、死刑4人、無期懲役2人。事件の物的証拠がことごとく検察のでっち上げだ、と証明されたにもかかわらず。

共産主義者が国家転覆のため革命闘争を行おうとしているとの社会不安があった。大事件を起こし、社会の混乱に乗じて共産主義政権を作ろう、と本気で考えるのが共産党だ。今もその本質は変わっていない。オウムと同じと断言してもいい。それが世界の平和につながると確信していることも同じだ。

共産党に対する恐怖が生んだ冤罪事件だ。国家は共産主義者におびえ、全くの無罪の人間に二度まで死刑判決を下した。アメリカのGHQが係わっていることが言われている。線路をはずしたのはアメリカ兵12人だった、との目撃証言もあるそうだ。目撃者は、後日、水死体で発見される。殺されたのではないだろうか。

国家を維持し、政権を保つための現実にはこのような暗い面がある。選挙で嫌がらせの対立候補をたてることなど、茶番に等しい。「平和ボケ」はニッポンのアイデンティティだ。

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淡々とした前半のエピソードの積み重ねが、後半で全て生きてくる。母親の苦悩、息子の記憶、マラソン・コーチ自身が自堕落から希望を回復すること、兄の影に追いやられていた弟の悲しみ、夫との会話・・・。

泣かせにかかる演出は心憎い。後半30分、胸に火が着き、嗚咽を抑えるのが苦しい。母親役の演技は世界中の人々に届くだろう。手を握り、手を離す。その意味がわかるので、身体中に感動が押し寄せる。
       マラソン
 
自閉症の息子を演じる、チョ・スンウの驚くべき演技に目を見張る。終わりの場面で、腹の底から笑いがこみ上げ、涙がこみ上げる。こんなに激しい泣き笑いは、「男はつらいよ」第一作、渥美清の、結婚式でのスピーチ以来だ。監督の才能を買う。

障碍者がフル・マラソン走ってよかったね、おかあさんも苦労した、感動!なんていう安っぽいドラマではない!!!!そのことは強調しておく。

       マラソン2
障碍を持つ子供と母親を決して美化していない。
「オアシス」もそうだが、あわっれぽい甘ったれた感じが入っていない。 母親の心の闇もはっきり表現している。マラソンを教える、元マラソン選手のコーチも全くやる気がない。まわりの偏見がそのまま描かれている。障碍者を売り物にしていない。清潔だ。

「迷惑かけるなら精神病院か施設に入れておけ!」容赦なく罵声を浴びせる若い女。韓国のオモニは決して言われっぱなしでいるわけはありませんが。。


障碍をもつ子供を持った家庭は苦労する。障碍のない子供を持った家庭も苦労するのは同じことなのだが。貧困、夫婦の不仲、生活苦。我が子を他人に殺された親の気持ちを考えるといたたまれない。また、殺した子供の親はどうだろうか。自分を責めないだろうか。どのみち地獄だ。
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(実話に基づいているので、映画のヒットを期に大統領と面談する本人の母子)

この映画は自閉症を正確に表現している。感情を表さない、誰とも目を合わせない、言葉をオウム返しする、物事の順番や、好きなテレビ番組に固執する。俺の知人に自閉症の子供がいる。

母親は、その子にかかりきりになり、子供との共依存関係が出来る。自分がいなくてはこの子は生きていけないと思い、全てを子供に費やす。自閉症の子供からはなんの言葉も感情も帰ってこない。母親が言う「あの子の心がわかったら死んでもいい」と言う叫びは悲痛だ。
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障碍者を扱うことに及び腰の日本のテレビ・ドラマにのように、理解ある善人が、美男美女の身ぎれいで鬱陶しくない障碍者を、ちやほやするような場面が皆無だ。ドラマに都合のいい障碍者を出して、ちょっといいことしたみたいな気になるのはやめてほしい。

アメリカ映画もそうだけど。
アメリカの障碍者ものは、なにか特別なことが出来る障碍者を評価して、ほめ讃えるあまり、 何も出来ない普通の障碍者たちはいっそう失望の底に沈んでいく。 アメリカ人も自分に都合のいい障碍者が好きだ。

いごごちの悪い「障碍者」が出てくる映画ではない。障碍者が出てこなくても、この映画には真実の響きがある。本当かどうか、見に行って確かめて欲しい。泣くのはぶざまだから、決して泣かないように。(俺はぶざまに泣いた。悔しい。監督に負けた!!)

この映画はいいよ。すごくいい。

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憎むべき相手を主人公が追いつめ殺すところ、しかもその「逆回し」で作品は始まる。ドストエフスキーの「罪と罰」にヒントを得た「刑事コロンボ」のように、殺された人物と、殺した人物を、観客ははっきり目に焼き付ける。

倒叙型ミステリの語り方だ。

殺した人物が、なぜその人物を殺すのか解らない。主人公の記憶に障害があって10分間しか記憶を保てない。この設定が、サスペンスを生む。

「MEMENTO MORI」。ラテン語の格言で「死を思え」あるいは「死を銘記せよ」。
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「MEMENTO」は、ラテン語で、記憶する、銘記する、の意味だ。英語の memory の語源だろう。

17世紀栄華を極めたスペインの肖像画や静物画に、髑髏や砂時計が書かれているのを見る。「死」の象徴だ。

「静物画」そのものも死を表す。
 
そこにある「静物」は、美しく生き生きと画布に写し取られているが、絵画を見ている今、すでに果物も花もそこにはなく、死に絶え、枯れ果て、跡形もなく消え去る。絵画は、生の痕跡でしかない。

人間の存在もそのようなものだ。肖像画も同じこと。死にゆくもの、人間。当時の肖像画には好んで髑髏や砂時計、鎌を持った死神が書き入れられた。これが、その時代のモットー「MEMENTO MORI」である。

人間、いずれ死すべきもの。英語で mortal 。人間を表す言葉だが、まさに「死ぬ者」の意味だ。

主人公の記憶できる時間の単位に合わせたように、映画は小刻みに時間軸が戻っていく。一つ時間の区切りが戻るたびに、謎が解き明かされ、また新たな謎が提示される。

記憶を保つため、主人公がとる方法が面白い。紙に書いておくと、なくしたり、整理出来ないので、身体に刺青を入れる。
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主人公には、憎むべき男と、憎むべき理由があるのだが、本当はすぐに忘れてしまう。常に、敵に対する憎悪をかき立て、敵の「死」を思い続けなくてはならない。そうしなくてはいけない、強い理由がある。

主人公の気持ちを思うと、切ない気持ちになる。そもそも、そのような記憶の障碍を持つようになったのも、憎むべきそいつのせいなのだ。
MEMENTO
最後までサスペンスは持続し、つぎつぎに展開する意外な出来事に我を忘れる。監督は優れた才能の持ち主だ。
MEMENTO2
小刻みの時間軸の逆行は、この物語を語る上で不可欠な手法だ。DVDに、この作品を時系列に沿って順次進行に編集したヴァージョンが入っている。これを見ると、記憶の障碍からくるサスペンス場面が、逆に大爆笑になってしまう。

それはそれで楽しめるのだが、逆行編集が、どれだけこの作品には必要な手法であったかが解る。この語り口しかないのだ。「SAW」や「CUBE」のように、マニアックに奇を衒って、どうだすごだろう、と言っている映画とは大違いだ。

同じ監督の、「FOLLOWING」も続けて見た。これもまた優れている。どちらもおすすめ。

頭のいい作品とはこのような作品をさす。

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連続殺人犯、アイリーンの話。

幼児期に近親者から性的虐待を受け続け、13歳から娼婦として金を得ていた主人公。実在のアイリーンの写真も見たが、すさまじい人生だ。裁判の場面の写真だろうか、目を見開き「怒り」に満ちた顔をしている。

"rage"

これこそアイリーンの衝動のもとなのだ。

この役を演じようと思いたち、体重を13キロ増やし、特殊メイクをして「妖怪」の容貌になった、シャーリーズ・ セロン。何が彼女をここまで突き動かしたのか?こちらの方が謎だ。

この美貌ですよ。 セロン1
     Monster monster


美女の気持ちは推し量ることが出来ないが、この役に挑んだシャーリーズ・セロンのなかに、破壊衝動のようなものを見るのは穿ちすぎか?それほどまでに、この演技はすさまじい。主人公の rage がリアルに伝わってくる。

シャーリーズ自身、生い立ちに悲惨な出来事を負っている。そのことと、この作品とは無関係ではあり得ない。強烈な自己確認をこの作品を通して行ったに違いない。この作品はシャーリーズ・セロンの病理と回復に必要な治療であった。

クリスティーナ・リッチの、無垢で無神経な女の演技にも見るべきものがある。

無防備で、気まぐれで、自分勝手なものこそ、愛すべき存在だ。振り回され、裏切られ、どっぷりと依存しされる。一人ではなにもできない。どんなに面倒を見てやっても、感謝の言葉すら言わない。

そんな女は嫌い?

俺は可愛くて仕方がない。なんとしても、その女の気持ちをつなぎ止めておきたい。言いなりになる女なんか、つまらない。これほどまで駄目な俺にどっぷりと依存してくるわがまま女。愛しい。可愛い。裏切られてもいい。いま、ここでこうしていられるなら。

観覧車の場面はそのような気持ちが錯綜して涙があふれた。

表現はすさまじいが、この映画はラブストーリーだ。シャーリーズ・セロンの壊れっぷりと、クリスティーナ・リッチの愛らしさを見る作品だ。

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侍といえども、毎日劇場に足を運ぶわけに行かない。近所のレンタル屋からDVDを借りてきては映画を見る。見る時間も2時間じっと正座して見ることは不可能だ。

空いた時間にちょこちょこ見たりすることになる。偉そうなことを言っているが、そんなもんだ。

昨夜から見始めたのが「モンスター」。連続殺人犯の実話に基づいている。

主役の俳優のものすごさ!特殊メイクと、過食による肥満で、妖怪のような容貌になっている。ハリウッド一の美貌とうたわれた女優なのに。その気合いのすさまじさ。

クリスティーナ・リッチが重要な役で出てくる。嫌らしいほどうまい演技をしている。アダムス・ファミリーのウェンズデイちゃんのころからのファンなのだが、今回の役はなまなましい。肥満ぎみというか、むちむちの体つきにそそられる。暗くてきれいな顔立ちがいいのだが、今回の役にはぴったりだ。手にギプスをはめているのも、どこか病んでいる感じを象徴していていい。(「アダムス・ファミリーのエイプリールちゃん」と間違って覚えていた。理由はある。その名前の女の子を知っていたからだ。印象が似ていて間違ってしまった。)

とにかく、まだ途中までしか見ていないが、圧倒されている。

実際の犯人のDVDも出ているが、それも見たい。

人間はなんで、こんなモンスターを見たいと思うのか。自分の気持ちもいま測りかねている。

今夜、最後まで見るつもり。

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