今日も、大学で実験指導をしてきた。
学生たちは、これまでの学習の理解度にも、その場で理解し身につける力にも差がある。
まずは一律に指導を行うのだが、続いて求められるのは、相手がどこまで理解しているのかを見極めた指導である。
手順をなぞることはできても、その意味を理解していない場合、わずかな逸脱が結果に大きな影響を及ぼすことがある。
だからこそ、どこまで任せてよいのか、その都度判断する必要がある。
この感覚は、これまで考えてきた「危険を扱う」という問題と、どこか同質のもののようにも思える。
一方で、「禁じる」という行為は、この構図とは異なる。
それは、相手の理解の程度に関わらず、一律に線を引く行為である。
理解していようといまいと、そこには踏み込ませない。
では、「理解して扱う」ことを教えるとは、どのような営みなのだろうか。
まず、理解させる必要がある。
なぜその操作が必要なのか。
なぜその手順でなければならないのか。
そこにある原理を共有しなければ、「扱う」ことは単なる模倣にとどまる。
だが、理解することと、実際に扱えることのあいだには、なお距離がある。
頭では分かっていても、手が追いつかないことは少なくない。
あるいは、分かったつもりで、重要な点を見落としていることもある。
そう考えると、「理解して扱う」という状態に至るまでには、いくつかの段階があるはずである。
理解すること。
試みること。
誤ること。
そして、修正しながら再び扱うこと。
その過程を経てはじめて、「扱う」という行為は自分のものになっていく。
ここで一つ、気にかかることがある。
正しく振る舞うことと、誤ったことをしないことは、同じなのだろうか。
手順を外さず、指示どおりに動くことは、確かに誤りを避ける。
しかしそれは、理解に裏打ちされたものとは限らない。
一方で、理解に基づいて行動しても、結果として誤ることはありうる。
そして誤れば、それは正しい振る舞いとは見做されないだろう。
どちらを重視するべきなのかは、容易には決められない。
さらに言えば、理解していようといまいと、行為には責任が伴う。
実験であれ、日常であれ、その結果は現実として引き受けられることになる。
起こってはならないことを起こさないための最良の方法は、「何もしないこと」であると言われる。
何もしようとしなければ、間違いはそもそも起こらない。
それでは、私たちは何もできない。
その意味で、教えるということは、単に知識や方法を渡すことではなく、責任の一端を引き渡すことでもあるのではないか。
私は、学生に教える立場にある。
同時に、教えたことがどのように扱われるかについて、どこまで責任を負うべきなのかという問いから逃れることもできない。
どこまで委ねるべきか。
どの段階で手を離すべきか。
その判断は、思っていた以上に複雑で、人間的な営みなのだろう。
ふと、大学で向き合っている学生たちの姿が重なる。
誤りを避けようとし、確実な手順に依拠し、踏み外すことを恐れる。
その姿勢を、私はこれまでどこか他人事のように見ていたのかもしれない。
だが、いま自分が同じ場所に立っているのだとすればどうだろうか。
誤ることを恐れ、責任を引き受けきれず、結果として委ねることをためらっている。
そう考えるとき、判断がつかないというこの状態は、単に難しい問題に直面しているというだけでなく、私自身の側にある躊躇の表れでもあるのかもしれない。
それでも生きていかなければならないとするならば、どうすればよいのだろうか。
今日もまた、静かに夜が深まっていく。