私は今も月に一度、抑うつ的症状と不眠に対する処方を受けている。
薬局では決まって確認される。
「薬は正しく服用できていますか。」
あまりにも当然のように繰り返される言葉である。
薬剤師の資格を持つ者として、この「正しい」という言葉の輪郭について、あらためて考えることがある。
「用法用量を守って正しくお使いください」――薬をどのタイミングで、どのくらいの量で用いるかは明確に定められており、それに従うことが正しい使い方とされる。
この点に疑いはない。
だが同時に、その正しさは、どこまで理解されたものなのだろうかとも思う。
薬は人を救う。
ところが一歩誤れば、容易に毒へと転じる。
陳腐な言い方ではあるが、「クスリはリスク」という表現は、決して誇張ではない。
だからこそ、薬には厳密な取り扱いが求められる。
不用意に増減せず、自己判断で中断せず、指示に従うこと。
そこでは、誤りを避けることが何よりも優先される。
この構造は、安全をめぐる他の場面と、どこか似ている。
危険を遠ざけ、逸脱を防ぎ、あらかじめ定められた範囲の中で振る舞うこと。
それは確かに、一定の安全をもたらす。
しかし、そこで立ち止まる。
「正しく使う」とは、単に逸脱しないことなのだろうか。
なぜその量なのか。
なぜその間隔なのか。
それを外れたとき、何が起こりうるのか。
私自身、薬学の学びを通じて、薬の危険性とその扱いを知っている。
それでもなお、その理解がどこまで実感として引き受けられているのかについては、確信を持てないことがある。
薬局で受ける説明は、危険性を孕んだ薬の扱い方を明示している。
ところがそこには、危険を避けているというより、危険を知らないままでいる、という側面も含まれてはいないだろうか。
無論、すべてを理解することは容易ではない。
だからこそ、一定の規則が必要になる。
そして一歩踏み込めば、その規則の背後にあるものへと、目を向けることができるのではないかと思う。
正しく使うことと、理解して扱うことは、必ずしも同じではない。
前者は安全を保つが、後者はその成り立ちを知り、責任を引き受ける。
薬に限らず、危険を伴うものに触れるとき、私たちはしばしば「正しさ」によって守られている。
だがその内側で、どこまで理解に手を伸ばすのか。
そこにこそ、扱うということの意味があるのかもしれない。