多治見市議会議員 吉田企貴(もとたか)のブログ

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先日、【市長選のビラは、なぜ不起訴なのか?】という文章について、以下のような質問を受けたので誤った印象操作を払拭するために問答を再掲しておきます。

※なお、出回っている岐阜県弁護士会の文章は弁護士懲戒請求についての却下通知の一部を切り取ったものですが、私に著作権も所有権もないので無断転用を避けるため投稿いたしません。検索いただければ出てくると思います。


[問]岐阜県弁護士会が市長選ビラについて何かコメントしているかのような言説が流布していますが、不起訴になったのでそもそも終了じゃないのですか?

[答]ご指摘の通り、不起訴で終了です。弁護士会の言っていることを平たく言えば、「法律的に問題があるとは言えないけど、人としてはどうかと思うよ?」と言っているだけで、私の投稿と内容はほぼ同じです。

むしろ、弁護士会から「違法行為であるかは一律に明白とは言えない」とお墨付きをもらっていると言えます。言い回しはくどいですが、要は「違法性は問えない」という事です。

※※※※※※※※

以下に解説します(読み飛ばしても構いません)
↓↓↓↓↓↓↓↓
まず、他のコメントにある「弁護士会の文書」の全容はわかりませんが、文中に「『ある人』とは、懲戒請求者を指している」とあるので、『ある人』(=落選した候補者)が高木陣営の弁護士の懲戒を請求した文書と思われます。つまり、弁護士会が「ビラそのもの」についての見解を示したものではないと思われます。
→文書の一部を切り抜いたものなので全容が不明で、そもそもこの文書が何なのかよくわかりません。

次に、主張にみられる「ビラは公正選挙を害する」という見解は、文中で言えば「選挙の公正性を侵害した可能性」の部分を指しているものと思われます。

そして、弁護士会の文書を読む限り、弁護士会は問題点を①法律的観点と②倫理的観点の二つに分けて整理しており、「法律的には問題があるとは言えないが、倫理的には問題がある」と結論付けてます。

以上のような論理的整理は、私の投稿とほぼ同じであり、かつ検察において不起訴となったことで司法的(≒違法かどうか)観点での決着はついたと理解して差し支えないものと思います。今後、検察審査会等で蒸し返しを図るかもしれませんが、弁護士会も主張するように違法性を問うのは極めて困難なので先行きは厳しいものと推察されます。

よって、残された道は民事訴訟において名誉棄損による損害賠償を争うくらいしかありません。しかし、それとて「統一教会との関係性」があったことは新聞報道等で明らかにされているため、限りなく厳しいものと思われます。
2023年4月に行われた多治見市長選挙において頒布されたビラについて「相手候補者の当選を妨害しようと虚偽の内容」を書いたものであったとして多治見市長らが告訴・告発されていた事件は、7月19日付で不起訴処分となりました。

本件について、不起訴処分の理由を検察は明らかにしていませんが、法律的な観点から解説しておこうと思います。

なお、検察が不起訴の際に理由を述べないのは当たり前で、あえて理由を示すとすれば「有罪になる見込みが極めて薄いから」に過ぎません。有罪か無罪かの判断は裁判所の管轄であり、検察が判断理由を述べるのは筋違いということもあり、通常は理由を示すことはありません。

また、解説にあたっては私自身が日頃から実務に携わっている公職選挙法に関する事に留め、名誉棄損等の他の法律については言及は控えますので悪しからず。

<論点の整理>
まず、事実の確認として市長選におけるビラについて論点を整理します。世間で「違法なのではないか?」と思われている点は概ね以下の通りと思います。
①「ビラそのもの」が違法(いわゆる怪文書の類)ではないか?
②「ビラの内容」に違法性があったのではないか?
③「ビラの形式」に違法性があったのではないか?

このうち、主に①と②において違法性があったと思っている方が少なく無いように思います。特に、「例のビラは怪文書であって、あんなものを選挙で勝手に配ったら違法に決まっている!」といった声を一番耳にしますが、まず第一に例のビラは公職選挙法に定められた「合法のビラ」です。

そのため、実を言うと告訴状においても①については言及されていません。勘違いして発信している方も中にはいますが、基本的には例のビラが怪文書の類であると世間に思わせるための印象操作に過ぎないと言って差し支えないと考えます。


<そもそもビラ自体は合法>
ビラの法的な位置づけについて、少しだけ詳しく解説します。

市長選の場合、選挙管理委員会から確認を受けた政治団体(いわゆる確認団体)は選挙期間中も「政治活動」を行うことが出来ます(公選法201条の9)。今回テーマとなっているビラは同条1項の6で認められている法定ビラで、選挙管理委員会に届出をすれば2種類まで頒布が可能で、かつ枚数制限はありません。また、当然このビラは選管に届け出がなされています。

ですから、例のビラが「怪文書であって違法である!」という主張は誤りであることが分かると思います。疑問に思う方は公選法201条の9を読んでみてください。

<内容の違法性について>
次に、ビラの内容について解説します。

報道等によると、ビラの内容について以下の点が違法であると告訴されたものと思われます(過不足あればすみません)。
①嘘の内容が書かれていた疑い(虚偽事項の公表罪:公選法235条の2違反)
②氏名が類推される事項が記載されていた疑い(公選法201条の9の2違反)

上記規定について、なぜ不起訴処分が相当であると判断されたと考えられるか、順に解説します。

まず、①の虚偽事項の公表罪とは、公選法では以下のように規定されています。

[公選法235条の2]
当選を得させない目的をもつて公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者に関し虚偽の事項を公にし、又は事実をゆがめて公にした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。

これも報道等によれば、ビラに記載された「旧統一教会との関り」についての内容が、「虚偽の事項」であった、もしくは「事実をゆがめて」公にされたと告訴・告発側は主張しているようですが、ビラに記載のあった通り、「日韓トンネルの視察」に行っていたり、旧統一教会が主催するセミナーに参加していたことは事実であり、かつそれらを政務活動費から支出していたことも新聞報道等で明らかにされています。

ビラの内容を確認する限り、事実無根の主張は特になく、新聞報道を紹介するに留めているため、少なくとも「虚偽の事項」については記載は認めることは不可能です。

次に、「事実をゆがめて」あったかどうかですが、こちらもビラの内容を確認する限りでは、そういった記載はありません。というか、法律を熟知した人が法に全く触れないように慎重に作文されている印象を受けました。

記載事項としては、単に報道ベースの事実や一般論を載せているだけであり、「旧統一教会と深い関係のあった人」という表現も、捉え方のレベルの話しであり、政務活動費を使って日韓トンネルまで視察に行っていて、「深い関係」ではないと主張するほうが無理があると普通は思います。

次に②の氏名類推事項の記載問題です。

ここで言う氏名類推事項とは、一般的には候補者の氏名等が直接に含まれている場合に該当するものと解されていますが、本件のビラについては、あきらかに「旧統一教会」と関りが深い人物が「誰」であるかを想起することが出来ます。ただし、ほぼ同様の事件が西東京市でありましたが検察は2023年12月6日付で不起訴処分としています。恐らくですが、先例に鑑みて同様の処分としたものと考えられます。
→不起訴処分に先立って、裁判において訴えが棄却されているのですが、その際の判例を確認できていないので、どなたかお持ちでしたら教えて頂ければ幸いです。

<ビラの形式違反について>
最後に、ビラの形式違反についてです。

実を言うと、この点はどういう扱いになるのか気になっていました。結果的には不起訴とはなりましたが、形式的な違反は存在しています。

具体的に言うと、確認団体がビラを頒布するためには、選管へ届出をするとともに、法定事項をビラに記載する必要があります(公選法201条11の5)。本来ならばビラには「第1号」などと記号を記載しなければいけなかったのですが、記載がありませんでした。

以上のように、形式的な違反があったのは事実ですが、検察としては罪には問えないと判断したものと思われます。これは実務上、ポスターなどで同様の法定記載事項洩れがある状態で掲示板に貼ってしまうことが良くあるからです。実際、先の県議選において自民党公認候補の方が記載漏れのポスターを掲示してしまい、その後に張り替えています。

こうした軽微な形式違反(ケアレスミス)については、違法性が皆無とは言えなくても嫌疑不十分として起訴を見送るという処置をすることになります。これは、公選法の目的であり、第1条にも「この法律は、日本国憲法の精神に則り」と記載のある様に、選挙が公正かつ適正に実施されると共に、国民の政治的自由を担保するという憲法の精神とのバランスによるものと思われます。

※選挙では、法的に二律背反に陥る自体が良くあります。一番有名なのが、「表現の自由」と「放送法」の相克ですね。

<まとめ>
長くなりましたが、以上のように多治見市長選挙における法定ビラに対する告訴・告発が検察によって不起訴になったのには、客観的な理由があるという事です。

ビラの内容そのものが、実質的に相手の人格攻撃ともとれる内容であったため、対立候補の支援者を中心に不快感を与えた可能性は大いにありますが、そのことと事件の違法性とは別問題です。日本は法治国家であり、情緒ではなく論理によって社会秩序が維持されています。江戸時代ならいざ知らず、現代社会においては「気に入らないから違法である」といった感情論はまかり通りません。

一方で、選挙とは、候補者だけではなく、有権者自身も、その資質を問われることになります。

選挙運動とは、「法的に正しいのか」だけではなく、倫理的にも品格を求められるものであると私は信じます。私自身も、先の選挙中に「他候補の街宣車が事務所まで来て私自身や家族、選対メンバーの誹謗中傷をしていく」という悲しい経験をしました。

そうした経験を踏まえた上で、だからこそ私と私の陣営は最後まで他人を貶めるのではなく、自分自身の信念を訴え続けました。このことが、2期連続のトップ当選に直結していると信じています。願わくば、このことを奇貨として、より良い多治見の民主主義が根付けばと思います。

【そもそも派閥とは?】



昨今、世間を賑わしている派閥の裏金問題ですが、そもそも派閥とは何なのかイマイチわかっていない方も多いと思います。報道を見る限りでも単に自民党内のグループ程度の説明しかなく、派閥の持つ法的な位置づけや果たしている役割等については触れているところを今のところ見ていません。

一般的に言って、派閥に対する国民のイメージは「政治家がポストを得るための利権団体」のようなものではないでしょうか?ひょっとすると市議会における会派も同様のイメージを持たれているかもしれません。

もちろん、そういった人事を巡る政治力学が働く場ではあることは確かです。

一方で、派閥がもたらしてきたプラスの役割というものも当然あります。そして、その根源的なものは「自民党の持つ多様性」であると私は考えています。

そもそも、政党という言葉をネットで調べると以下のような説明が出てきます。

【政党】〘名〙 政治についての主義主張や政策の一致した人々がその政策を実現するために組織する団体。政社。

日本はアメリカのような独任制(独裁制)をとってはおらず、多数の人間による合議制(共和制)を採用しております。これは政治における多様性を担保する反面、意思決定の遅滞化をもたらします。「みんな違ってみんないい」を許容することで、「決められない政治」に陥る危険性が有るという事です。

国民によって選ばれる議員が一人一人異なる利害を代表している以上、折り合いを付けられるところで妥協して協力していくことはシステム上どうしても必要になります。それを担っているのが、まさに政党ということになります。

一方で、自民党は55年体制下において万年与党の地位を守ってきました。結果として、一種の一党独裁とも言える状況を獲得するに至ったわけです。これは、ややもすれば「自民党」という一つの政党のみが国政を担うことで民主主義が機能不全に陥る可能性があることを意味していました。

そして、こうした55年体制下の民主主義を補完していたのが、他ならぬ「派閥」になります。

派閥とは、自民党内における政治団体であり、いわば「政党内の政党」になります。政策や理念の異なる集団が党内に多数存在することで、自民党は右から左まで幅広い意見を吸収することのできる国民政党へと昇華し、時代の変化にも柔軟に対応出来る多様性を獲得してきました。このことが、実質的な政権交代を担保し、自民党政治の自浄作用として機能してきたわけです。

こうした役割の反面、党内における政権交代を目指すためには、国民による選挙ではなく、党内における多数派工作が重要になってくることから、派閥間抗争や金権政治と呼ばれる政治腐敗が進みました。これは、党内工作には公職選挙法が適用されないために無法地帯となっていたということも一因かもしれません(総裁選は公選法の規制を受けないので結構やりたい放題)。

以上のように、自民党の派閥には光と影があるわけですが、結局のところ自民党が多様性を維持していくためには必要な存在であり続けると思われます。

そして、派閥が派閥して機能し続けるためには、他派閥への重複所属を認めないという措置が重要になることでしょう。現在、各派閥は毎週木曜日に定例会合を開いており、所属派閥以外への参加はできない仕組みになっています。仮に政治団体としての派閥を解体したとしても、こうしたグループとしての機能を維持し続けるのならば、ほとんど刷新本部の意味はないでしょう。

今後、派閥の在り方がどうなるかはわかりませんが、単に派閥を目の敵にするのではなく、日本における議会制民主主義の在り方に照らし合わせて、残すべきところは残しながら、改善を図っていって頂ければと草葉の陰から祈っております。