月9ドラマ『競争の番人』最終話に若月佑美さん登場でした | 超絶メタアナリシス

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☆☆☆ 都心(台東区)在住です ☆☆☆

昨夜、月9ドラマ『競争の番人』が最終回でした完了

 

ゲストに元乃木坂46の若月佑美さんが店員役として出演していましたスカート

 

 

 

昔の雰囲気は無くなって、すっかり大人の女性っぽさが増したなぁ...口紅


やはり年月の経過、とりわけ結婚したことも大きいのでしょうか。かつての乃木坂46所属時代のボーイッシュな若様はもはやいなくなっていたなという印象です。

 

女性アイドルというものはとくに卒業後は変わりますね。

引退して芸能界を去ったような人は、たぶん、もう、原型をとどめないほどに変わり果てている人もいることでしょうね。

 

”花の色は移りにけりないたづらに、わが身世にふる、眺めせしまに”(小野小町)

 

まさにこの短歌の通りで、よく”花”赤薔薇にたとえられることが多い女性アイドルというものは、卒業後はいったん元の色では無くなるのだと思います。

 

別の色で咲き直すか、あるいは、散ってしまうか...

 

つまり、もし「花は誰のものか?」という問いに答えるとするならば、“時間の神”(クロノス)のものかと...

 

そのように私は思いますね時計

 

 

さて、本題に入りまして、このドラマの感想ですが、まずは、全編拝見させていただきました,面白い作品をありがとうございましたという事をお伝えしたいです。

 

内容は、ひとことでいうと、勧善懲悪、庶民の側・弱者の側に立つ、という水戸黄門的な要素のある作品でした。

 

原作はあるようですが、Wikipediaによると4話以降はテレビドラマのオリジナルの脚本だそうで、その脚本がどうも昭和っぽいというか、古臭いという気がしました。

 

”悪”は大企業や官僚の側にありがちで、それが弱者や庶民を痛めつけているという舞台設定...

それを主人公が属する公正取引委員会という正義の組織があばくというストーリー展開...

 

しかし、今の現実とはちょっとかけ離れているなぁ、という感じうーん

 

今は内部統制システムが”法”(会社法)によって定められているし(一定規模以上の会社の場合)、コンプライアンスを守ることも一般常識化しているので、大企業ほどマトモだと思うのですが...

 

むしろ、中小や零細企業のほうが、闇やブラックな要素が生じがちになっているのではないかと...

 


また、独占禁止法も公正取引委員会も、公正な競争を担保するための公的な仕組みですが、ともにアメリカで出来た法や官庁で、いまだに日本にしっかりと定着していないなということも感じました。

 

例をあげると、”競争”ダッシュに対する理解が違ってるんです。

 

こうですひらめき電球

日本人の競争に対する理解:競争とは勝つことを目的とするもの →バツレッド

欧米人の競争に対する理解:競争とは、市場原理を通じて、”公共の利益”を増進させるためにするもの →二重丸

 

”競争”というものに対する理解が日本人(とくに、私がこのブログでよく取り上げる昭和のオジサンにひひ)は根本的に間違ってるからいろんなおかしなことが起こる、というのが私の日本人および日本社会に対する考察&分析です。

 

たとえば、”サービス残業”ですね...

 

サービス残業してまで会社の業績をあげよう、ライバル会社に勝とうというのは明らかに間違いビックリマーク

”競争”というものは、勝つためにするものではないのだから...

 

”競争”とは、業務効率の悪い会社や個人事業主をふるい落とすためのもの。

 

例を挙げて説明すると、こうです。

・ある町に、個人経営のカツ丼屋さんが、A店~Z店まで26店舗あったとする。

・A店~F店は優秀で、¥1,000円のカツ丼を注文するとカツが5切れ載ったカツ丼を出してくれるものとする。

・G店~L店は仕事がヘタクソで、仕入れた肉を切る際に、お客様にお出しできないように薄く切りすぎて家族用やまかない用にしてしまったり、床に落として廃棄処分になったりしてムダが生じ、結果的に、¥1,000円のカツ丼を注文するとカツが4切れしか載ってないカツ丼しか出してくれないものとする(そうしないと利益を出せない)。

・M店~Z店はもっとヘタクソで、結果、¥1,000円のカツ丼を注文するとカツが3切れしか載ってないカツ丼しか出してくれないものとする。

・競争した結果(町の住人がA~Z店を比較した結果)、A店~F店が勝ち組として生き残り、G店以下がつぶれ、つぶれた店の跡地に勝ち組店の支店が出来たとする。

・そうすると、26店舗全店でカツが5切れ載ったカツ丼が出てくることになる。これは、この町の住人だけでなく、ふらっと訪れた旅行者も含め、みんなが得をすることになる。

 

この例からわかるように、”競争”とは勝つことが目的ではなく、世のため人のためになる結果を生むためにする事だということ。

 

だから”競争”は正義であり、そのために必然的に伴う”比較する”という行為も同じく正義である...

 

これが、1989年にベルリンの壁が崩れ、資本主義を否定する旧ソ連圏が崩壊し、中国も共産党体制をとりながらも資本主義を採用して以後、世界地球の大半がしたがうルールになっているというわけだ。

 

すなわち、民主主義,自由競争,資本主義を3点セットとする、今の社会のルールなのであるOK

 

 

したがって、たとえば、坂道シリーズに負けたと言われることにすぐにカチンとなる某グループを推す昭和のオジサンアイドルファンがいたり、自分の推しメンが勝った負けたで一喜一憂する同じく昭和のオジサンアイドルファンがいたりするのは、間違っているわけであり、世の中の一般常識も仕組みもわかってない人、ということになる...

 

違ってるんだよな、そもそもの理解が...

 

競争、比較、勝者と敗者、といったものに対する理解が日本人(とくに昭和のオジサンたちの多く)は根本的に間違っている...

 

正しい考え方をあらためて言うと、以下の通り合格

 

競争で負けたものは仕事の成果が小さい、他方、競争で勝ったものは多くの成果を上げた。

→ということは、勝者が生き残り、敗者が世の中から退場することで、社会全体の”仕事の成果”の総量(Total量)は最大化される(上記に挙げたかつ丼屋の例が典型例)。

 

また、競争で勝ったものは多くの者が支持しているわけだから、民主主義で一番大切な「多数決の原理」にも沿っていることにもなる。

 

①社会全体の仕事の成果の総量(トータル量)の最大化

②民主主義の推進

この2点が競争を通じて実現される。

だから、競争自体が正義なわけだグッ

 

そして、勝者をはっきりさせるには、当然だが、比較をしなければならない。

比較をせずに勝ち負けを決める、なーんてことは不可能ですからねにひひ

 

つまり、比較することも正義キラキラということになる。

 

逆に言えば、比較をするななどという人は不正義、”悪”、ということになる...


 

最近の女性アイドル界の歴史で言うと、モーニング娘→48グループ→坂道シリーズと覇権は移ってきた。

 

これは、競争の結果であり正義であるということ。

 

モーニング娘よりも、握手会や総選挙の実施によって48グループはより日本のGDPを押し上げたと言えるだろう。

が、そういう仕組みも限界があって、今は坂道シリーズの大箱ライブやモデル雑誌・写真集関連等々による日本経済への寄与のほうが高くなった。

 

だから、今は、坂道シリーズを支持し、先行していた48Gと比較して高く評価することは正義、ということになる...

 

ざっというと、こういうことである。

 

 

そして、以上のもろもろのことを肯定せず、否定するような者は、もしいたら、不正義で反社会的か、もしくは、何にもわかってない小中学生レベルか、共産主義者・社会主義者、ということになる。

 

上記にあげたカツ丼屋の例でいうと、人々の雑談の中で店同士を比較するのをやめさせようとしたり、優秀なA~F店をほめたたえるのにケチをつけたり、需要があるからといって非優秀なG~Z店を残すべきだとしつこく強く言ったりするような人は、みんなの幸せをジャマしていることになる...

 

非優秀なG~Z店だって昔ながらのなじみの客が少しはいて需要もあるのだろうが、つぶれるべきなのである...

 

町のみんなが徹底的に店を比較した結果が口コミで広まって、その結果、非優秀なG~Z店がなくなり、優秀なA~F店とその支店だけが生き残るのが世のため人のため...

 

まあ、今の世界の大半はそういう仕組み&ルールになっているということです。
照れ照れ照れ