前回の「背面貫手」の記事でも紹介した「本部御殿のパッサイ」の伝系について、海外の空手家から質問があった。このパッサイは、本部朝勇先生の長男で、本部御殿第12代当主、本部朝明(1885-1956)のパッサイである。

 

本部朝明

 

本部御殿は廃藩置県以降も明治政府の「旧慣温存政策」により、琉球王国時代と同様、俸禄を受けていたのであるが、明治42(1909)年についに俸禄の支給が打ち切られて、大正時代になると次第に生活が苦しくなった。

 

当時沖縄は経済不況で、多くの人が本土や海外に移住していったが、朝明氏も同様に職を求めて大阪に移り住んだ。朝明氏は戦前は宗家の隣家に住んでいて、それで宗家もときどき朝明氏と一緒に唐手を稽古した。

 

朝明氏は自分が唐手を誰に習ったかは言わなかった。戦前の御殿の当主は落ちぶれてもまだ門中の人からは「現人神」のようにあがめられていたので、気軽に質問できる雰囲気でもなかった。

 

ただ若年の頃、本部御殿の座敷で刀剣類の稽古していたと朝明氏は言っていたので、宗家は朝明氏は父・朝勇から本部御殿手と同時に唐手も習ったのではないかと推測している。

 

パッサイの伝系についても、何も聞かされていないが、おそらく父親の本部朝勇先生からではないであろうか。叔父の本部朝基から習ったとは考えがたい。なぜなら、このパッサイは貫手を使うが、本部朝基は貫手は使わなかったからである。自分が使わない技は型でも稽古しないのが本部朝基の主義である。

 

長嶺将真先生の本には、本部朝基はナイハンチとパッサイを松茂良興作から習ったが組手は習わなかったと書かれている(注1)。ところが琉球新報の座談会の記事(1936年)では、型を習ったとは書かれていないが、松茂良先生から組手は教わったと書かれている。これは金武良章氏が父・金武良仁氏より直接松茂良自身がそう述べていたと聞いたのである。つまり、第三者による客観的な証言である。口碑が伝言ゲームのようにあべこべになっている。

 

ちなみに、松茂良流宗家の屋良朝意氏は「松茂良のパッサイ」と称するパッサイを、泊手の久場長仁より学んでいたが、この松茂良のパッサイは本部御殿のパッサイとは似ていない。たとえば、本部御殿のパッサイでさぐり手で前進していく箇所が、松茂良のパッサイでは閉手による下段払いになっている。

 

松茂良のパッサイ(演武:屋良朝意)

 

もちろんこれが本当に松茂良パッサイであるかは分からない。あくまで口碑に基づくものである。しかし、同じく松茂良の弟子と言われる松林流の「伊波興達のパッサイ」のこの箇所もやはり閉手による下段払いになっているのである。糸洲のパッサイでは、開手(手刀)による下段払いである。

 

 

屋良朝意氏の松茂良のパッサイには斜め45度への背面貫手の動作はないので、松林流のパッサイとは同一ではないが、それでも両者は本部御殿のパッサイよりは近縁である。

 

親泊のパッサイは、この箇所は本部御殿のパッサイ同様、さぐり手である。ただ親泊のパッサイにある波返しが本部御殿のパッサイにはない。最後の箇所は、親泊のパッサイではさぐり手になっているが、本部御殿のパッサイでは手刀受けになっている。

 

ところで、本部御殿のパッサイ同様、最後の箇所で手刀受けをするパッサイがある。それは松濤館の「バッサイ(抜塞)大」である。

 

 

松濤館のバッサイは、横受けの部分は糸洲のパッサイ(摩文仁系統と知花系統)と同様であるが、最後の部分は異なってる。船越先生は、糸洲のパッサイと安里のパッサイをミックスしたのであろうか?

 

以前、本部朝勇のウフクン(クーサンクー大)が、松濤館の観空大(安里伝クーサンクー大)に似ているという記事を書いたことがある。どうも本部朝勇の型と安里安恒の型は似ているのである。

 

そういうわけで、本部御殿のパッサイは、本部朝勇から息子の朝明に伝えられた古流首里手のパッサイの一つではなかろうかと考えるわけである。

 

 

注1 長嶺将真『史実と口伝による沖縄空手・角力名人伝』新人物往来社、1986年、138、139頁参照。