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Sat, May 09, 2015

黒木曜之助『横を向く墓標』(春陽文庫)

テーマ:ミステリ
黒木曜之助『横を向く墓標 (1979年) (春陽文庫)

作者は新聞記者としての嗅覚を生かし、原研が東海村にできた翌年に早くも「東海村殺人事件」を発表(この作品については、「黒木曜之助『東海村殺人事件』を読む」を参照のこと)。

これは日本原発小説の嚆矢のひとつといえそうだが、その3年後に執筆された横を向く墓標(『宝石』1962年6月号増刊)も、国産原子炉がはじめて臨界に成功した頃の東海村原研を舞台とした作品で、茨城においてお大尽の扱いであった原研のエリート意識であるとか、原子炉に食わせてもらっているような東海村の胡散臭い雰囲気などがよくでている。

原研研究員の失踪を調べるうだつのあがらない老刑事が、原研職員に馬鹿にされながら捜査を続け、次第に研究所内の醜聞にいきあたる一方、出奔した刑事の娘がそこに絡んできて都合よく盛り上がってくるあたりの展開の妙は、黒木ならではのものである。

わざわざ原研を舞台にした失踪事件ということでその意味が問われるわけだが、放射能性廃棄物運搬車を用いるネタが使われているという一点において、それは果たされたといえる。

しかし、田舎と都会の対立の構図をもってくるために原研にご登場願ったといった感が否めず、そこにミステリとして大した意味があるわけではない。

さらにいえば反核であるとか原子力への警告といった意図はまったくなく、ただ地元に物珍しい施設があったから使ってみたという感じだろう。

それより、小説よりも奇なりといわれた連続身代わり殺人を小説として再構成し、犯人大西克己の生涯を想像力たくましく追いかけた過去のない墓標は、なかなか読ませる力作である。

身持ちの悪い母親の元に生まれ、祖父母を両親といわれ育った大西が女に手を出しては失敗を続け、新しい戸籍を手に入れるために、山谷やら茨城あたりの路地で犠牲者を物色してはポンポンと人を殺すあたりの軽いノリは、重厚な筆致を得意としない黒木によくあっている。その意味で驚きはないが、悪漢小説の中編としてなかなかよい。

ちなみに大西事件の捜査陣の様子を丹念に追い、その写真自体が類まれなるノワールと化した奇跡の写真集『渡部雄吉写真集 「張り込み日記」 Stakeout Diary』を手にとったものならば、この事件の捜査陣がどのようなものであったのかを知りたいはずだが、この中編は大西をメインに据えており、その望みは果たせなかった。

しかし『張り込み日記』とクロスさせつつ読むと、興味は倍増のはずである。

何度か書いたと思うが、昭和30年代は1930~1940年代の延長線上、戦前と連続していると考えるべきであって、今のわれわれが想像する社会とは相当程度に異なっていることは、頭に入れておいていいと思う。われわれと連続した時代は、ようやく昭和40年台からはじまるといってよい。

したがって『張り込み日記』のような写真集は、このあたりの日本ミステリ、清張であるとか初期の水上勉を読むために実に有用なのである。

最後の日立鉱山の煙突をテーマとした不安な墓標は、煙突を愛してやまない老鉱夫がなぜ人殺しをしたのかというテーマを追ってゆく短編だが、黒木お得意の都合のよい人間関係が暴かれていくばかりで、それほど優れたものではない。

全般的に、茨城というあまり印象に残らない土地のなかで、目一杯インパクトがあるものを引っ張りだしてミステリに仕立てたという中編集。ミステリそのものというよりも、舞台や素材の面白さで読ませるといえる。

必読とはとてもいいがたいが、ブックオフあたりで見つけたら絶対に買っておきたい。

★★★☆☆
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Sat, March 01, 2014

『殺人者と恐喝者』:「こまけぇこたぁいいんだよ!!」というカーらしい一冊。

テーマ:ミステリ

カーター・ディクスン
殺人者と恐喝者 (創元推理文庫)


昭和16年発表。HM卿シリーズ長編12作目。

原題は“Seeing is Believing”。百聞は一見に如かずといった意味合いで、読み終わった後ならばそれなりに効いてくる伏線めいたタイトルなのだが、やはり訳題のほうが目を引く。旧訳者・長谷川修二の手腕が光るところだろう(或いは編集者というべきか)。

さて、カー/ディクスンというひとは、読者がびっくりさえすれば何でもありと考えているフシがあり、アンフェアと批判される作品をいくつかものしているが、そのなかでも本書はアントニー・バウチャーが噛み付くなど、かなり有名なものといえる。

筋はいろいろなところで紹介されているので簡単に記すにとどめるが、「愛人がのぼせ上がったことで邪魔になってきた弁護士が自宅にて彼女を絞殺。うまいこと死体を処理し安穏としていたのだが、殺人を嗅ぎつけた彼の伯父に強請られ、さらには妻にも気づかれてしまう」という「事実」が冒頭で明らかにされ、夫=殺人者、伯父=脅迫者と同居するという悲惨すぎる人妻に恋心を寄せる若き軍人が登場し、近所でHM卿が自伝を口述筆記の最中と、スラップスティックな予感で幕を開ける。

実際、催眠術をかけられた人妻が、術師の命令で旦那を刺殺するかという悪趣味極まる催しものにて、ゴム製の無害なはずのナイフがいきなり本物とすり替えられており、あえなく旦那は刺殺されてしまう。もちろん旦那が殺人者だからこそ、彼女は無意識のうちに憎んでいたのである。

この事件では、ナイフに近づくことができた人物は絶対にいないという点で不可能犯罪が成立し、さらに動機の不明瞭さが読むものを悩ませる。

残念ながら、前者に関しては数多の評者がいうようにきわめて幼稚なものである。しかも十分な伏線もなく唐突な印象を免れ得ない。

それに対し、なぜ殺されたのか、誰に殺されたのか(正確には誰に操られたのか)を連動させる謎は、さすがにカー/ディクスンと唸ってしまう熟練の手管である。よく視点を変えることで地と図が反転し見え方が一変してしまうだまし絵があるが、本書もそのたぐいのものだ。

要は、それまで構築されてきた前提やルール自体をひっくり返してしまい、いままで読者に見えていた図も変わってしまうというカー/ディクスンがお得意とする技法だが、この構築の仕方に、重大な瑕疵、えげつないアンフェアな部分が存在するのである。


───以下、完全にネタバレ───











問題は、訳題にもなっている殺人者と恐喝者の関係だ。

飯のタネである金主を殺す恐喝者はいない。したがって恐喝者は犯人ではないというごく自然な発想を利用し、ある人物を安全圏においてしまうのである。

しかしその前提が間違っていたとしたら、つまり恐喝者であった伯父が殺人者であり、彼こそが脅されていた金主だとしたらどうだろうか。話はまったく変わってくる。当然、彼こそが最大の容疑者となる。

この真相を伏せながら、自然に物語を進めてゆく手腕が本書の見どころなのだが、この前提を構築したアンフェアな部分をいかに考えるかによって、本書の価値は大いに変わるだろう。

この前提を構築した箇所とは呆れたことに以下のような冒頭の一文なのである。

ある真夏の夜、グロスターシャー州のチェルテナムで、アーサー・フェインはポリー・アレンという名の十九歳の女性を殺害した。
One night in midsummer, at Cheltenham in Gloucestershire, Arthur Fane murdered a nineteen-year-old girl named Polly Allen.

 それが事実として認められた。すなわち――
That was the admitted fact.

 アーサーにとってポリーは長い人生の一挿話に過ぎなかった。しかし、彼女のほうは彼にのぼせ上がり、令夫人と一悶着構えそうな気配があった。結婚話さえ匂わせる始末。(中略)
The girl was only an incident in his life; but she had fallen for him, and was threatening to make trouble with his wife. She even mentioned marriage.

 そこで彼は、妻のヴィッキー、ヒューバート叔父、それに二人の使用人が揃って留守の晩に、ポリーを自宅に招いた。彼女は一夜のお楽しみに心躍らせ、誰にも知られずこっそりやって来て、首に巻いたレーヨンのスカーフで絞め殺された。(中略)
So, one night when Vicky Fane, Uncle Hubert, and the two servants were away, he invited this girl to his house. She came there secretly, expecting a party, and was strangled with her own imitation-silk scarf.

 しかし、感づいた人間が二人いた。叔父のヒューバートは犯行時に知り、妻のヴィッキーはやや遅れて気づいたのである。
But two persons found out about it—Hubert Fane, Arthur's uncle, when it happened; and Vicky Fane, his wife, a little later.


ここでは、アーサーが殺人を犯したことを記しているのだが、地の文は基本的にその物語世界における真を書かねばならない。

ところが、これは旦那をナイフで刺殺したヴィッキーの知識なのである。

読者が地の文が真実を語っていると信頼しているからこそ物語は成立するのであり、その物語世界の構築にこそ、あらゆる小説の基礎がある。どんなに奇天烈なお話だろうと物語世界の構築さえうまくいけば、それは完全にリアルなのである。

したがって諸氏が本書をアンフェアというのはもっともであり、本格原理主義者には我慢ならない作品といえよう。

しかし、冒頭からあっけらかんと詐欺をやってのける図々しさ、読者に植えつけた殺人者と脅迫者の関係を維持するための数多の仕掛け──これについては、解説の麻耶雄嵩がみごとに解き明かしている。こんなものを見せつけられた日には「だがそれがいい!」といわざるをえない。

一般的に、カー/ディクスンは密室云々と喧伝されそればかりの作家と思われていそうだが、実は、密室であったり大掛かりなトリックを効果的に見せつけるためのこと細やかな技法、レッドヘリングにこそ、最大の妙味があるのだ。

麻耶雄嵩がいう「カーの“よき読者”」とは、それが楽しめる傾奇者のことである。


最後にひとつ。

HM卿が真相を解き明かす部分で、冒頭の文章についてメタミステリ的に解説を加えている(原文参照)。つまり本書において地の文は、事件の真相や真実を構築するために存在するのではない。

真実の開示は地の文ではなく、HM卿の口述によっているのである。したがってわれわれは、カーター・ディクスンが書き記したもろもろの地の文ではなく、HM卿の口述のみを信じなければならない。HM卿こそが真実を開示するのである。

であるならば、本書の物語世界内で延々と続けられる口述で明らかにされるHM卿の本当かよ! と疑わざるをえない過去の悪行の数々をも、われわれは間違いなく真実であるとみなさねばならない。

逆に言うと、本書は、いつか上梓されるであろうHM卿の自伝が真実であることを保証するための一冊なのである。


"Y'see, ma'am, your knowledge that your husband was a murderer was the
'admitted' fact. "Sure. But who admitted it?
"If this were all written down and traced back, you'd find that there was only
one source for all the details about Arthur: Hubert himself


★★★★☆
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Sun, August 11, 2013

浜尾四郎『博士邸の怪事件』(春陽文庫)

テーマ:ミステリ
$灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし
博士邸の怪事件 (春陽文庫)

乱歩により、代表作『殺人鬼』をドイルの平明なる文章を以って、ヴァン・ダイン流の長編を書くと激賞された浜尾だが、その諸作品を読めばこれが過褒であることは瞭然だろう。

邪推すれば、

元帝大総長の養嗣子で、子爵という肩書をもっていられる現職の検事を探偵小説文壇にひっぱりこむということは、探偵小説に対する一般の認識を昂めるためにも有効なのではないか


という『新青年』の編集長でもあった横溝正史の回想が、浜尾への評価の甘さの原因を物語っているようにも思える。

私事だが、博士課程在籍中、日本における探偵小説への蔑視の様相を探りながら、1960年台になぜ松本清張がバカ売れしたのか、また1980年台になぜ横溝正史ブームが発生したのかを考察した論文を執筆したのはよき思い出であるw

さて、本書は1931年=昭和6年にラジオドラマとして放映されたものを出版したものである。

ある歴史学の博士がラジオ講演のために外出中、留守番中の妻女が絞殺される。

奇妙なのは、19時過ぎに彼女からの電話を受け会話をしているにもかかわらず、その死亡推定時刻が13時近辺であるということだ。

俄然、博士への疑いが濃くなるなか、彼女の前科持ちの前夫が現れ、奇しくも娘と同日に死んだという彼女の母親が遺した莫大な財産をめぐる、怪しい駆け引きの様相が明らかになるといったところで、ラジオドラマらしく、さして混み入ったものではない。

中心となるのは、いうまでもなく死亡推定時刻のズレであり、これをいかにして処理するのかという興味で読み進めていくのだが、これが驚愕の肩透かし。

先の乱歩の評言を俟つまでもなく、和製ヴァン・ダインとして今も名高い浜尾だが、皮肉にも彼が本格のルールとして提唱した「ヴァン・ダインの二十則」に思い切り反しているのである。

もちろん、ノックスやヴァン・ダインのそれを破ろうと、作品の魅力に寄与していれば何ら問題はないのだが、本書の場合、いかにも苦し紛れの取って付けたような破戒ぶりなのだ。

しかも名探偵藤枝にもさして精彩がなく、全体的に何とも低調な作品である。よほどの好事家以外、読む必要はないと思われる。

ちなみに併載されている短編「不幸な人達」は、実は浜尾が短編向きの作家であることをよく示している佳品である。

★★
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