『タトゥー・セラピー』:邪馬台国の住民並に刺青がはびこる今日この頃の風潮に一石を投じる作品 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし
Tue, January 01, 2013

『タトゥー・セラピー』:邪馬台国の住民並に刺青がはびこる今日この頃の風潮に一石を投じる作品

テーマ:実用・その他

ウダPAOマサアキ
タトゥー・セラピー』(東京キララ社)

おそらく邪馬台国の住民並に刺青がはびこる今日この頃、彫る方も彫られる方も、刺青について何かしらのスタンスをもたねばならないと思うのだが、街ゆかば腰パンの隙間から薔薇だの羽根が見え隠れし、ネットでごまんと彫師が見つかるこのご時世、ただカッコイイとか自分を変えたいとかでホイホイとそれを刻み込む前に、いったい刺青とはどのようなものなのかを知るのも有意義だと思う。

その意味で、自身が彫った刺青を取りあげ、そこにいかなる意味があるかを語り明かす本書は大いに参照に値するといってよい。

作者の発想は、日本の伝統だから刺青は大事! だとか、刺青が日陰の存在なのはおかしい! といったような肩肘はったものではなく、その人にとって刺青はいかなる意味があるのか、という一点に尽きる。刺青は目的なのではなく、生きることについて何ごとかを付与する或いは剥奪する手段なのである。

彼のことばでいうと「方法論としての刺青」。

つまり刺青ではなく生こそが問題なのであり、本書も数々の決まりごとや技法ついての説明が読みどころではあるのだが、やはり刺青を彫り彫られることへの思い、その意味にこそ核心はある。

たとえば以下のような箇所は、彫師自らがいうだけに傾聴に値する。

末期ガン患者にモルヒネ打っても、痛みこそ感じなくなるけど、本質的なことはなにも改善できないというのと一緒で、刺青を彫っただけではなにも変わらない。[…]全身彫ろうがワンポイント彫ろうが、何も変わりゃしないわけよ。それが変わったと思えるか思えないかは、本人の気持ちの問題。大切なのは、彫った絵を見て、その思いを継続させること。それがない限り、絶対に変われないよね。(119-120)


自分の人生をしっかり見てさえいれば、ここは入れてもいいけどここは入れてはいけない、そういう“粋”と“外道”の境目もわかってくるはずなんだ。それを見る目もないから、すぐ見えるとこに入れちゃうんだ。見る目があれば、見えないところに入れるんだよ。それはなにを見る目かと言ったら、“人生を見る目”だよね。ファッション性とかのカッコよさを見る目ではなくて、自分がどう生きていくのかを見る目。もちろん外道として生きる覚悟があるのなら、どこに彫ってもいいと思う。(216-217)


タトゥー愛好者の中には今の日本の社会環境に不満がある人も多いですが、私ははっきり言って、今のままでいいと思います。タトゥーを理由にプールや温泉で入場を断られて文句を言う奴がいますが、だったらタトゥーなんか最初から入れるなっていう話ですよ。

タトゥーって最近ファッション化しすぎてしまいましたが、単に美しいとかカッコいいだけの世界ではない。昔からアウトローたちが入れてきたように、下世話で毒のある世界。

そんな社会からはつまはじきにされる彫り物を、自分の生き方を貫く覚悟を彫っていたわけで。それは現代のタトゥーでも変わらないと思うんですよ。だから、ある種の後ろめたさが感じられなくなったら、タトゥーなんて入れる意味はなくなる。

プールに入れなかったり、公務員になれなかったりする可能性は、タトゥーを入れるときにすでに承知していたはず。それも覚悟でタトゥーを入れた自分を最後まで貫けって言いたいですね(彫り師・ウダPAOマサアキ氏インタビュー『後ろ指さされない刺青は刺青じゃない』"社会派"彫り師がタトゥーブームを斬る!)


作者がいうとおり、刺青とは被差別者へと自らを貶める行為であり、そのような自己を生涯呑み込むことなのだ。したがって刺青に必然性などまったくなく、いわば戯れといえる。

ただその戯れが、真っ当な人生を否定してでもそれでもなお、というほどに真摯なとき、かえってそこに粋が生まれる。

このようなことを書くと刺青擁護と思われてしまいそうだが、基本的に刺青はなくて一向にかまわない邪魔なものである。しかし、邪魔なもの過剰なものが完全に欠落した生というのも味気なく、そこまで真摯に戯れられるひとたちを羨ましく思うこともなくはない。

★★★★☆
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

mothra-flightさんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

コメント

[コメントする]

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス