☆☆☆☆☆ 2020年1月22日「哲学カフェ」報告 ☆☆☆☆☆

「あすなろ」の皆さんには、今回も、後片付けをお手伝いしていただいて、ありがとうございました。いつも助かっています。

皆さんのお力添えのおかげで、「哲学カフェ」も通算16回目を迎えました。
新年最初の哲学カフェ、大盛況でしたね。

今回の参加者は、性別も年齢も立場もバラエティに富んだ、総勢12人。
大学からは、常連の滝澤武先生(体育原理・スポーツ哲学)、平澤孝枝先生(脳神経科学)、そして今回は、機械・精密システム工学科の森一俊先生も初参加してくださいました。私たちの哲学カフェが始まって以来、過去最高齢ですが、森先生は、機械・精密システム工学科の学科長でもあり、毎年(ここには書き切れないくらいの・・・)精力的な活動をなさっているお方です(思い返せば、私が帝京大学に着任したとき、真っ先に哲学対話に興味を示しつつ、激励してくださった一人が、森先生でした)。
※森先生からいただいたご感想は、「感想①」をご覧ください。

そして、私の大好きな滝澤先生。彼は、ご自身の授業でも、哲学対話を導入なさっていて(ご本人は、哲学対話ではなく、あくまでも哲学対話「風」とおっしゃっていますが・・・)、いつも応援してくださいます。
そして、平澤先生とは、気づけば「哲学対話」関係の論文を4本も一緒に書いている仲です。いわば戦友。特に昨年の前期は、一緒に授業に入り、本学の学生たちと何度も「哲学対話」を実践しました。しかも、「哲学」や「倫理学」といった人文系の科目ではなく、「行動神経学」という専門科目で!
今回、嬉しいことに、本学の学生も参加してくれました。

さて、今回のテーマは、「ルールをめぐる、あれこれ」。
あえて「あれこれ」としたのは、問いそのものは、参加者たちで決めてほしいと思ったから。
真に考えるべき問いは、対話しているうちに、おのずと醸成されてくる。そんな気がしています。これまでの経験からも、みんなが本当に考えたい問い、考えるべき価値のある問いというのは、話しているうちに自然と浮き彫りになってくることが多いので、今回も、みなさんの哲学センスに頼らせてもらうことにしました。

■「4時禁ルール」

最初の話題提起は、参加者の一人「もこさん」から。
先日、ニュースで話題になった、岐阜の小中学校での「4時禁ルール」。
授業が午前中で終わっても、午後4時まで外出禁止!?
※このルール、なんと40年前からあるそうです(岐阜県教育委員会)。

なんでこんなルールがあるのか。このルールは本当に必要なのか。
そもそも、ルールは誰のためにあるの?
 この問いは、元々、小学生のお子さんの口から出たものだそうです。
 学校は、生徒の身だしなみについて、事細かに指定してきます。髪の色、髪の長さ、髪ゴムの留める位置、靴下の色、靴下は三つ折り・・・
 子供からすれば、「なんで~?」って思いますよね。

 以上の話題提起を受けて、対話スタート。
即座に、別のお母さまが挙手。次のように話してくださいました。
中学生の息子が、不登校なのだが、彼がやはり同じように学校の「しきたり」に理不尽なものを感じている、と。
今の日本の学校には、どうしても、戦中の軍隊教育の名残を感じる。平成になっても、戦後の昭和の教育を引きずっているように思える、と。
体育の授業での「整列! 前ならえ! 休め! 回れ右!」などは典型的な軍隊教育ですが、目立たないところでも、たくさんあります。例えば、そのお子さんは、学校で、話を聴いてもらう前に先生から怒鳴られるそうです。軍隊であれば、上官の命令は絶対です。逆らうことは許されません。だから、部下がヘマをしたり、口答えしたりすれば、無条件に怒鳴られます。
でも、どうして「学校」で、いきなり怒鳴られないといけないの? 学校って、「教育」するところ、の筈ですよね? 軍人を育てる場所ではないですよね?

■「変わるもの」と「変わらないもの」

 ここで、ファシリテーターから問いかけてみました。昔は存在して、今は存在しないルールには、どんなものがあるだろうか? もちろん、江戸時代、平安時代・・・と遡れば、いろいろあるでしょうが、ここ数十年でも、変化があるだろうか?
 ある参加者から、「学校給食」のエピソードが出ました。
給食が美味しくなかった。すると、大抵は居残りをさせられて、無理やり食べさせられる。「給食は残さず食べる」という、理由がよく分からないルールのために。
ところが、最近では、給食を無理やり食べさせると「虐待」や「体罰」に相当する場合があり、完食を強要するケースは少なくなっています。また、体質やアレルギーなどについての理解も深まっています。そんなこんなで、今では「給食は残さず食べる」というルールは、消えつつあります(表向きは)。
 他にも、昔は公然と敷かれていたルールが、今では撤廃されつつあるという事例はたくさんありそうです。
それに応じて、子どものほうも、「どうせ怒られないから」と自由にしている様子がある、という報告が印象的でした。学校のルールの変化には、親の意識、子どもの意識の変化も反映されているようです。

他方で、昔から変わっていないルールもあります。大部分の「校則」が、それです。
 ソックスの色、登校靴、カバン、髪型、スカートの長さ・・・なぜか、ずーっと変わりません。
 ということは、世の中には、時代と共に「変わる」ルールと、時代が変わっても「変わらない」ルールの2種類がある、ということになるのでしょうか。
 変わるものと、変わらないもの。
 その違いを生み出しているのは、なに?
 参加者の話を聴きながら、つらつらと、そんなことを考えていました。
 さらに、いまだに「変わらない」ものは、今後、「変わるべき」なのか、それとも、このまま「変わらなくてよい」のか。
 あるいは、今では変わってしまったけど、本当は、変わるべきではなかった(変わらないほうがよかった)ルールもあるのか。

 少なくとも、「学校」という空間は、なかなか「変わらない」。
 ある参加者が言いました。「大人の世界では、多様性と言いながら、子どもに対しては多様性を認めない社会」。
昨今、国際化やグローバル化の波に乗って、「多様性」を謳いながら、子どものことは「管理・統制」して、画一化しようとする。
 どうして、こうなった?
 ここで、ある参加者が、「少人数のときには、ルールがあってもなくても、あまり変わらない気がする」と発言しました。なるほど。構成員が少ないコミュニティでは、イレギュラーな出来事や逸脱行為が起こったときでも、十分に個別に対応できる。しかし、大人数になると、管理がめんどうくさい。個別に対応していたのでは、埒が明かない。だから一括でルールを決めて、そこからはみ出した者は一律に「ダメ」とする。
 確かに、合理的。
 ならば、なぜ、この合理的なシステムに、しばしば私たちは理不尽さや違和感を覚えるのでしょうか?
 参加者の一人が、さりげなく口にした言葉。
「禁止する理由が、そこに存在していない」。
 校則を本当に守りたいと思わないのは、そこに禁止する理由が存在していないからだ――少なくとも、「守ろう」と思わせてくれるだけの十分の理由が、生徒たちに感じられないから。
ルールを守らない子は、しばしば「反発」していると勘違いされますが、反抗しているわけではなく、守りたいと思えるだけの理由が見えないから。

■校則は、誰のためにある?

 でも、ちょっと待って。ルールが作られるところには、必ず理由がある筈。ない筈はありません。だって、理由がないのに設置するほど、学校は暇ではないですよね・・・。
 それなのに、生徒には、それが伝わっていない。学校側も、伝える努力をしていない。
 とすれば――
ルールが必要となる理由は、もしかして、「生徒」の側ではなく、「学校」の側にある?
では、学校がルールを必要とする理由は、なにか。学校が、校則を設けることで得られるメリットとは、なにか。
それは、生徒たちを効率よく「管理」すること。
異分子が紛れ込んだときに、見えやすくして、速やかに排除するため。共同体の乱れを是正し、学校にとって都合のよい秩序を維持するため。

校則は、学校のためにある。
なぜなら、そのほうが生徒たちを管理しやすいから。

だから、学校側は、校則が存在する理由を、生徒たちに説明できない。「あなたたちを管理・統制・コントロールするためよ」と言うのは、さすがに具合が悪い・・・。だから伝える努力もしない。むしろ、理由は知らないでいてくれたほうが、ありがたい。どうか校則が置いてある本当の理由に気づかないで。
そんな具合なので、「どうして校則なんか必要なのか」と真正面から質問してくる生徒は、「問題児」以外の何者でもない。そんな質問をされる前に、「校則を守る子は、良い子だ」と洗脳する。簡単に洗脳されてくれない子は、いずれ哲学者になる。
学校にとって、「哲学者」は、一番苦手な「問題児」かもしれません。

ここで、一人の参加者が、思案気な顔を上げ、ふと口にしました。
「でも、元々は、子どもたちへの動機づけがあったのでは?」
動機づけ――つまり、社会に出てから、子どもたち自身が困らないように、世の中の「善い」と「悪い」を見極められるように。
「元は中身が入っていたものが、いつのまにか中身がなくなって、袋だけが残った」。
 つまり、ルールが形骸化している。

■「他人に迷惑をかけない」という唯一のルール

 ずっと話に耳を傾けていた一人の参加者が、発言しました。
 ルールには2種類あるように思う。
①社会や国が決めるルール。
②当人同士が決めるルール。
例えば、法律や条例、校則、社則、社会的マナーなどは、前者です。社会を円滑に動かしていくためのシステム。
後者の例としては、企業で取引先と決めたルールや、仕事仲間との約束事など。
 そして、前者は、じつは「要らない」のではないか。社会的ルールなんてものは、本当はぜんぶ不要なもので、本当に大事なのは、当事者同士の合意と信頼に基づくルールだけなのではないか。
唯一必要なルールがあるとすれば、それは、「他人に迷惑をかけない」こと。
 それさえ守れば、あとは個性として、多様性として、認めてよいのではないか。

 他人に迷惑をかけない。そのうえで、ルールは自分で決める。「私がルールだ」。
自分の人生の主人公は、自分でしかありえないし、自分の生き方のルールは自分が決める。そして、それを他人に納得させ、認めさせる生き方。決して他人に自分のルールを押し付けるのではなく、自分のルールを他人に納得させるだけの技量と人徳。
 そんな生き方ができれば、いいなぁ・・・。

 その話を聴いていた学生から、「社会的ルールは、ある程度、あったほうが、助かる人もいる。少なくとも自分は助かる」という意見が出ました。
 確かに、一定の基準があったほうが、迷わなくて済みますし、考えなくとも従えば済むので、ラクです。そして、そのほうが生きやすい人たちがいることも忘れてはなりません。社会の中で暮らしやすくなるために、一定の規範を可視化する社会システムは大事かもしれません。

■社会システムって、必要?――現代文明社会のゆくえ

 ここで、別の参加者から質問が。
「あの・・・社会システムって、要りますか?」
 おお!{会場がどよめく}
哲学的に見て、とてもいい質問だと思いました。「社会システムはあって当然」という暗黙の前提(思い込み)を崩す、良質の問いかけです。
「要りますか、というより、可能ですか?」
 確かに、インターネット空間に代表されるように、現代では、旧来の社会システムが通用しなくなっています。戦後復興期・高度経済成長期のように、大きな統一的理念に向かって日本国民が一丸となって進んでいた時代とは異なり、現代は、欲望分散型の社会です。個々の欲望が乱立し、それぞれの欲望が、好き勝手な方向を向いて、自己完結している。共通の関心で結びつく人々だけで「閉じた」コミュニティやサークルを作り、それが無秩序に点在する。自分たちのルールを作り、それに従う者は受け入れ、破る者は排除する。インターネット空間にあるのは、従来の「社会的・道徳的ルール」ではなく、共通の関心と利益に基づいた暗黙の契約です。それは明文化されることなく、「空気を読め」という仕方で共有される。そのルールを犯す者は、晒され、吊るし上げられ、そうして「炎上」する。炎上したあとは、「仲直り」という仕方で鎮火するのではなく、アカウントを削除するという仕方で社会から「消えて」ゆく。
 AI(人工知能)技術の飛躍的な進化により、これから本格的にコンピューター全盛時代に突入します。バーチャル空間が日常に浸透し、いずれ「現実空間」がコンピューターによって仮想的に構成される時代が訪れたときに、はたして「社会」とは何を意味するのか。人と人とのつながりは、どのような様相を帯びるのか。

 校則やルールの話から、最後には、社会システムの作り方にまで話が展開しました。
対話中には、他にも、ルールをめぐるオモシロ逸話がたくさん出ました。
参加者たちに訊いてみると、出てくる、出てくる。おもしろエピソード。
生徒指導の先生に、みずからお願いして前髪を切ってもらった武勇伝(※女子です・・・)。
規則正しく制服を着ていたら、「ワル」の女子に、スカートを奪われた事例。
母親の言いつけを忠実に守り、節度のある服装で毎日を過ごしてきたあげく、あるとき、派手な服装に変えてみたら、「あなた、こっちのほうが似合うじゃない」と言われて、愕然としたエピソードなど。

 参加者たちが、気兼ねなく、ホンネで対話できる空間って、本当に心地よく、貴重だと、毎回、後片付けをしながら感じています。
 一人では作れないこの空間。
「対話」の力は、尊い。

江口 建(帝京大学)